【三日目午後】私室 その①
雪は昼を過ぎる頃にはやんでいたらしい。通行規制も解除され、電車も通常通りの運行を再開した。しかしながらあちこちに名残はある。平日には発生しない箇所で渋滞が観測されていたり、テレビではサイバーテロの話で持ちきりだ。
ドロップはスマホのニュースサイトを閉じ、スリープモードへ切り替えた。ティアラと別れた後は自宅で仮眠をとっていたせいかあまり実感が湧かない。どこか遠い国の話のような気がするのだ。
現在時刻は17時30分。夕方から開店する馴染みの店へ顔を出し、使い慣れた獲物を入手した。それは今、ポケットの中だ。警察官に手荷物を検査されれば問答無用で連行される代物であったが、いつもと変わらぬすました顔で目的地まで辿り着いていた。違法な物を持ち歩く行為など慣れ親しんでいる。煙草を持ち歩くのと同意だ。こんなものよりも優れた武器はいくらでも存在していたが、ドロップは自分にはこれしかないのだと思い込んでいた。
武器を確かめるように胸を撫でる。体を軽くほぐしてから、気合を入れるべく頬を叩いた。仮眠のおかげで気力体力共に万全だ。
覚悟を決めた瞳で高層マンションを見上げた。
一昨日訪れたウィザードとナイトの居るマンションである。
意を決しエントランスをくぐり抜けた。電車を利用した為、地下駐車場からの出入りは断念している。なるべくなら人目につきたくはなかったが致し方ないと諦めた。
エントランスホールは艶のある石材を用いた高級ホテルのような趣だ。住民ならば容易に通過できるであろうゲートを横目に、無人のカウンターへと歩み寄る。シックなデザインの電話が設置されており、迷わず受話器を持ち上げ最上階へと掛けた。コール音が耳元で響く中、エントランス内をぐるりと見回す。監視カメラのようなものがあればと思っていたが見つけるより早く、コール音が途切れた。
『何の用だ』
予想通りの声音。相手方を確認しない物言いに名乗りは不要と判断する。
ドロップは平静を心がけ、さっぱりとした明るい声を出した。
「お疲れ様っス。ティアラさんからナイトさん宛に見舞いの品を預かってるっスよ」
『カウンターへ置いておけ。こちらで回収しよう』
「ナイトさんの顔を直接見てこいって命令されてるっス」
『生憎だがナイトは眠っている』
「まだ18時前っスよ?」
『昼寝だ。寝顔の愛らしさゆえに起こすのが忍びない』
「じゃあ起きるまで待つっス。顔見れるなら寝顔でもいいっスけど」
『迷惑極まりない輩だ。常識を学ぶといい』
「仕方ないじゃないっスか。ティアラさんからの命令ブッチする方がヤバイんで」
数秒の沈黙。ドロップはわずかに焦る。誰の名前をでっち上げるか消去法で決めたが間違いだっただろうか。頭の中でティアラを選んだ理由を思い返す。彼女ならば説得力の帯びた理由である。さらにウィザードが電話で事実確認するのも時間がかかると考えたのだ。
『――――入れ』
わざとらしいため息の後に通話が切れた。同時に傍らの扉が開く。
ドロップはカメラを気にしつつも口元を緩ませる。第一関門突破だ。
扉を抜けてすぐの直通エレベーターへ乗り込む。肩を上げ、ストンと落とし緊張を和らげた。
なるべく冷静に。頭の中で自分の知りえる情報を整理し、相手の出方を予想する。特に会話には注意すべきだろう。煙に巻かれる可能性が高い。
手強い相手だと分かっている。それでもアドバンテージがあるとするならば、相手がこちらを侮っていることだ。これも一種の情報戦。
拳を握り、エレベーターのパネルを見つめる。その時は確実に近づいていた。
◆◆◆
通された部屋は一昨日のリビングではなかった。パソコンや本棚、ちらほらと薬瓶をのぞかせる薬品棚。研究室にしては実験台もなく、どことなくインテリアにもこだわりを感じる。おそらくは私室なのだろうと推測できた。
ドロップは部屋の中央に立ち尽くし、鼻を擦る。玄関に漂っていた甘い匂いはこの部屋に無く、攻撃的な清潔感のある匂いがした。そこへドアの開閉と共にウィザードが入室する。一昨日とさして変わり映えの無い出で立ちだ。銀盆を持っているだけで武器らしいものはない。
「座っていなかったのか」
ウィザードが言う。視線の先には先程ドロップへと勧めた奥行きの浅いチェアーがあった。
「いやー、なんていうか、落ち着かなくて……」
「そうか」
下手な言い訳を聞き流し、銀盆を机上へと置く。そのまま席に着くかと思いきや、腰の高さまであるデスクへもたれ掛かり白磁のコーヒーカップに口づける。悠然とした態度であったが、気を許しているわけではないと暗に物語っていた。
「それで? 姫君からの見舞いの品はどうした」
「ティアラさんからは小さな情報を貰ったっス」
視線だけで続きを促される。
ドロップは渇いた唇を舐めた。舌先のピアスが銀色の軌跡を描いて口腔へと飲み込まれる。
「ここはいつも消毒液の匂いでいっぱいらしいっスね。今もっスけど」
「らしいな。嗅ぎ慣れた私には分からない感覚だ」
「じゃあ玄関とか廊下の甘い匂いはなんスか」
ウィザードの喉が上下する。焦りではない。白磁のコーヒーカップを満たす黒い液体を飲み込んだだけだ。
テンポの悪い間隔に自然とドロップの眉間に皺が寄る。今更ながら一人分のコーヒーを淹れる為に席を外していたのかと気付く。もてなすつもりはないらしい。コーヒーを飲みたい訳でもないが、そういった無言の意思表示が精神を逆なでする。
「ナイトの為に香を焚いている。味気の無い消毒液の匂いよりは精神衛生の面でも良いだろう」
「ヤバイ奴じゃないっスよね?」
「まさか。この私が愛しいナイトへそんなことを?」
はぐらかすような言い回しが気に入らない。表面上はおだやかでも小馬鹿にしているのは明らかだ。一線を越えさせない絶妙の言動が癇に障る。
「ナイトさんの頭がおかしくなんない程度に依存させたりだとか、ウィザードさんならできるんじゃないっスか」
「買い被りすぎだろう。私は一介の医者にすら及ばぬ者だ」
「匂いそのものは無害でも別の物使ってたりしないっスよね。葉っぱやる奴らが匂いを誤魔化したりする為によくやる手段なんすけど」
「物騒かつ具体的な発想、遍歴が窺い知れる。次回の健康診断の項目を増やすとしよう」
カッと頭に血が上り、怒鳴りだす寸でで思いとどまった。幸いにも追撃は無い。冷静になれと言い聞かせ、鋭く睨むだけで済ませる。
やはりというべきか会話が長引くほど、こちらが不利な気がした。早々に核心を衝くべきだろう。
「ナイトさんに会わせてくれたら全部解決するんで。えぇっとあれっス。新聞は一見にしかずとか言うんスよね?」
「百聞と言いたいのか」
「たぶんそれっス」
「貴様はやはり馬鹿なのだな」
「ウィザードさんに比べたらほとんどの人間馬鹿っスよ。その中でも馬鹿な方だとは自分でも思ってるっス。難しいことはどうしたってわかんないっスけど鼻くらいなら利くっスね」
「香程度の根拠でここまでやってくるとは、優秀な鼻だ」
聞き流せ。挑発にのるな。
何度目か分からない自戒の念を繰り返す。
「怪しいとこ、もう一個あるんスけど」
「ほう?」
余裕を見せるべく、ゆっくりとした動作を心がける。
人差し指で自身の右耳を指す。これ以上増やせないほどのピアスが取り付けられた耳。対面に立つウィザードへその箇所を照らし合わせる。ようやく起点へと繋がった。
「そのイヤホン、どこに繋がっているんスか?」
ワイヤレスのイヤホンマイク。ポケットに入っている通信機器の操作をせずとも通話が可能であり、リダイヤル機能や指定の番号へクイックコールもできる優れものだ。今もスタンバイ状態を示す青いランプがゆったりと点滅している。
ウィザードは平然と答えた。
「クライアントについて答える必要はない。もちろん後に報告書へ記載はする。閲覧制限をされなければいずれ判明するだろう」
No.2のデータベースにはこれまでの報告書が全て保管されている。たとえメンバーであってもその全てを閲覧することはできない。情報の流用を誤りやすい医療関係の情報であるならば特に顕著であった。マニュアルだけを読んで心臓手術をするようなものだ。どれほどの危険を伴うかは想像がつかない。
また、専門分野はもちろんのこと、情報の希少性や情報取得者の事情によって制限がなされる場合もある。いわゆるトップシークレットと呼ばれるものだ。メンバーの個人情報などもこれに該当する。メンバー同士であっても互いを深く知らないのはこれによるものだ。
ドロップはへらりと笑う。ようやく予想通りの言葉が返ってきた。少しずつ話の主導権を行使し始める。
「まあそーゆーカンジに言うっスよね、フツー。けどおかしいんスよ。俺の知ってるウィザードさんはナイトさんにぞっこんっス。マジサイコパスレベルでドン引きするくらいヤバイっスよね。そんなウィザードさんがナイトさんと24時間一緒にいられる今、他の仕事を受けるわけがないじゃないっスか。しかもそのナイトさんからデカい仕事受けるなって言われてるんスよ。おかしくないっスか」
「何事も例外はある。忌々しい限りだ」
飲みかけのコーヒーカップを置き、腕を組む。ごく自然な仕草だ。ドロップは気を抜くことなく一挙手一投足を警戒する。精神力の消耗戦は目に見えて差がついていると察していた。意思に反して早口になりながらも精一杯の虚勢を張る。
「ウィザードさん、ここに誰も近寄らせたくないっスよね。その為に他のメンバーを忙しくする仕事を受けたんじゃないっスか。うちの組織は性能が尖りまくった人間が集まってるっス。ってことは誰がどんな仕事を任されるか予測できるはず。今だって俺しかここに来れないっス」
「確かに。貴様の性能が不明な以上、予測は難しい。その思考回路を含めて、私の考えを上回っていた」
「とにかく、俺はウィザードさんを疑っているっス。俺の予想通りならナイトさんが危ないし、ウィザードさんは裏切り者っスよね」
ドロップが辿り着いた答えがここだ。
ティアラへ刺客を差し向け、他のメンバーを動員させる。全ては誰にも邪魔をされない空間維持の為。
決定的な証拠はない。しかしドロップが行動を起こすには充分だ。彼は警察でも探偵でもない情報屋。そしてナイトが危機に瀕している可能性があるならば、動かない訳にはいかなかった。
ウィザードからの返答はない。同じ時間軸にいるとは思えない程の隔たりを感じる。堪え切れず、追及を重ねた。
「なんで何も言わないんスか。煮干し、じゃない。煮びたし……ええっと」
「図星」
「それっス。図星って奴っスか」
「そう結論を急くな。いずれにせよナイトが目覚めれば分かることだ」
「時間稼ぎじゃないっスよね?」
含みのある笑み。何気ない所作で眼鏡を押し上げ、そのまま右手を顔の横へと動かした。イヤホンマイクへ指が届く――。
考えるより早く、ドロップの体は動いた。




