【三日目午前】紅竜満福飯店 その①
赤い暖簾の半歩先。すりガラスの引き戸の前には準備中と書かれたプレートがぶら下がっている。
午前10時前。一般的な飲食店ならそういうものかとティアラは思った。店内に明かりが灯っているのを確認し、ガラス戸をスライドさせる。鍵はかかっていない。ガタガタと音を立てながらくぐり抜ける。ピシャリと戸を閉め、後ろ手に鍵をかけた。
ぼんやりと光る白い蛍光灯の下には四人掛けテーブル席が四つと、六人が囲める座敷席が三つ。出入り口には古い漫画の単行本と最新の週刊少年誌、今日の新聞が数種類取り揃えてあった。それらが収められたカラーボックスの上には年季の入ったレジが鎮座している。奥にある壁一面のメニューを読むことなく、やたらと騒がしい天井へと目を向けた。首を振り続ける扇風機と喋り続けるテレビが会話をしているかのような光景だ。それらもやはり年代を感じさせる古ぼけたものであった。
有り体にいえば一昔前から細々と続く中華料理屋。しかしティアラにとってはドラマのセットでしか見たことの無い景色である。なにもかもが物珍しい。
「おーい、姫はんこっちこっちー」
「お疲れ様っス!」
壁際のテーブル席を占領していたハクとドロップが声をかける。ティアラはようやく二人に気付く。彼らの机上には水の入ったコップと競馬新聞、日焼けした漫画の単行本が何冊か山を作っていた。あまりにも典型的なくつろぎ方をする二人は、ティアラからすれば景色の一部になっていたのだ。
二人と向かい合う席へと腰かける。エキストラと同じ席を囲む新鮮ささえ感じていた。マスクを外し、帽子も脱ぐ。軽く手櫛で髪型を整え、ふぅっと息を吐いた。
「ひとまずお疲れさん。ほい、これメニュー」
ハクから手渡されたメニューを一瞥し、不満気に唇を尖らせる。
「朝からラーメンとか無理なんだけど」
「ちぃと早いランチと思って」
「レバニラ定食とかあるっスよ」
「重いし、においキツイの無理だから」
記憶の中からカロリー表を呼び起こす。総量が予想できない為、あくまで目安にしかならないがカロリー計算をせずにはいられない。しかし心のどこかではこれはチャンスではないかと囁く声が聞こえていた。普段ならば立ち入ることもできない庶民的な店で好きな物が食べられる。せっかくならば店の看板メニューを食べるのが最大限の楽しみ方ではないか、と。
葛藤するティアラの元へ白いエプロンを身に着けた老女がやってくる。盆の上には水とおしぼりがあり、ゆっくりと丁寧な所作で机の上に置いていく。素顔を晒しているティアラを見ても驚いた様子はない。ティアラを支持する視聴者層とずれているのか、何かしらの事情通なのかもしれないと予想ができる。
ティアラは顔を上げ、老女へ微笑みかけた。葛藤するのも時間が惜しいと思ったのだ。
「オーダー聞いて下さる? ミニ海老炒飯と杏仁豆腐。あとは軽い野菜とか――ミニサラダとかあるかしら」
老女は愛想よく頷き、ポケットへ収納していた伝票を取り出すと記入する。そこへドロップが右手を挙げて注文を付け足す。
「ばあちゃん、俺らの注文もオネシャス。Aラーメンの醤油二つと単品チンジャオロース!」
「ワイのおごりや、もっと食ってええで」
「マジっスか! じゃあAラーメンの内一つを大盛りでチャーシュー追加! 以上っス!」
注文を書き留めた老女は一礼し厨房へと向かう。その後ろ姿を横目にティアラはそっとハクへ尋ねる。
「Aラーメンって何?」
「ここの定番メニューや。味は醤油、味噌、塩から選べて、これがラーメンの中に入っとる」
トンッと壁際に掲示されたメニューを指す。当店一押しと明記されている。ティアラはトッピングを読み上げるにつれ青ざめていく。
「通常のラーメンに加えて煮卵一つ。揚げ餃子と揚げ焼売、唐揚げがそれぞれ三つずつ……。一体どれだけのカロリーが一杯に凝縮されているのよ。冒涜的だわ」
「スープがさっぱりしとって案外ペロリといけるもんやで。スープの染みた揚げ物のうまいのなんの。白米へかけるのもおススメや」
「大盛りだと揚げ物が一個増量なんスよ!」
「………………」
絶句するティアラを見て、ハクは心底愉快そうに笑う。
「お姫様にはちょいとばかし過激な内容やったな」
「せ……せめて、ちゃんとした野菜を摂りなさいよ」どうにかそれだけ言葉にする。
「チンジャオロースは野菜やで」
「餃子もほぼ野菜じゃないっスか」
「せやせや。メンマやらねぎやらも入っとるし、ラーメンって健康食ちゃう?」
信じられない発言の数々に眩暈がしそうであった。しかしながら度が過ぎるゆえに彼らの方が理から外れた存在なのだと確信が持てる。自分が世間知らずなせいではないとティアラは己を奮い立たせ毅然とした態度で立ち向かう。
「名目上はアンタ達との会食。タダで健康診断してくれるヤブ医者とお兄ちゃん想いの可愛い弟、その両方がアタシの報告書を読むわよ。いいの?」
今度は彼らが青ざめる番であった。二人は同時に立ち上がり、厨房へ向かって声高に叫ぶ。
「ばあちゃん、さっきのミニサラダ大盛りでオネシャス!」
「取り分け皿も頼んます!」
厨房から手を振り返され、二人は胸を撫で下ろして席に着く。
ハクはハンカチで目元を拭う素振りをしてみせた。
「ワイらの健康気遣ってくれるなんてお優しい姫はんやなぁ」
「別にそんなんじゃないわよ。アンタ達はナイト様から必要とされている存在なんだし、その自覚を持って行動しろって意味。あのヤブ医者が健康管理してくれる理由と同じよ」
手元のメニューをハクへと押し返す。そのついでのように机上の灰皿をドロップから遠ざけた。さりげない所作ゆえにドロップの反応は遅れる。灰皿を取り上げられたドロップはしゅんっと項垂れ、ぽつりと呟く。
「先手打たれたっス」
「人前で煙草吸ってる人なんてうちの組織じゃアンタくらいだわ」
「マジっスか」
「正規メンバーは未成年が多いの。完全に年齢不詳もいるケド」
ドロップがメンバーを思い浮かべながら指折り数える間に、ハクはせやなと同意した。
「成人確定はワイとウィザードはんだけや。情報屋になる前の高校生の人脈考えれば当たり前やけど」
「うお、メッチャ少ないっスね!? 活動できてるの奇跡じゃないっスか! 運営? 営業? ってどうなってるんスか?」
ティアラが非難の眼差しをハクへ向ける。教育が足りないと咎めるのと同時に、単純にその話題を嫌っているという意味合いだ。ハクは交わった視線を逸らし、とぼけることを決める。ハクにとっては取るに足らない話であった。
「オフィス――No.2があるやろ。あそこが情報セキュリティ会社っちゅー、ふわっとした会社になっとるんや。そいで表向きはウィザードはんが社長ポジションで、ワイが副社長ポジやねん」
「へえー。ってあれ? ハクさんの方が加入早いんっスよね?」
「元々ワイが長やっとったんやけど、ほらワイが裏の方でちょいとばかし有名だったりするやん? 無駄なごたごた起こるのもよくないっちゅーわけでウィザードはんが加入してから交代したんや」
「なるほどっスー」
「闇医者も大概だけど」
むくれた顔でティアラが嫌味をこぼす。その真意を知るハクは宥めるように笑い、ウィザードの顔を立てた。
「ウィザードはん表向きは投資家やろ? ワイよりはるかに噛みついてくる奴も少ないしええやんけ。なにより本人たっての希望やし、ナイトはんも了承しとる以上、とやかく言えへんわ」
「意外っスね。ウィザードさんって学級委員長タイプには見えないっス」
「アンタ、本当に馬鹿ね」
「いや、まあ、バカっスけど。なんでっスか?」
ティアラが髪を耳へかける。出来の悪い生徒に辟易する教師の気持ちが今なら分かりそうだった。先々の見通しが甘いと言い放ち、ドロップの思考の手助けをする。
「ナイト様が成人したらどうなると思う?」
「フツーにナイトさんが社長ポジになるんじゃないっスかね?」
「お飾りの肩書といえどそれなりの権力が備わっているものをウィザードが簡単に譲り渡すかしら」
「あの人ナイトさんのお願いならなんでも聞くじゃないっスか」
「甘いわね」
一度、言葉を区切る。ティアラがこの話題を嫌う理由がそこに存在していた。気が滅入りそうになりながらも、とある可能性を提示する。
「ウィザードならそれをネタに結婚を迫るわ」
ドロップは二の句が継げない。自身の予想を遥かに上回る思考へ恐れおののいた。そして否定できない言動をまざまざと見せつけるウィザードへ畏怖の念を抱く。およそ凡人にはできない考え方をする人物を人々は奇異の目で見つめる。さらに凡人では成しえないことを成し遂げる人物を古来から魔術師と呼んでいた。
ややあってドロップが感嘆とも詠嘆ともつかない声を漏らす。井の中の蛙が初めて大海を目にしたかのようであった。
「ひょえー…………。あの人、マジでヤバイっスね」
ハクは平然としている。自身と大切な弟へ影響を及ぼさない事象にはさして興味を持たないのだ。もし彼の手元に煙草があれば、長々と煙を吐きだしていたことだろう。
「ゆうて数年先の話やろ。ワイはスノーはんかウィザードはんのどっちかに副社長押し付けて楽させてもらうで。その頃にはドロップもええ役もらえたりするんやない?」
「いいっスね、それ。そうなるように頑張るっスよ」
「アンタはとりあえず正規メンバー入りからでしょ。何かしらの特技はあるわけ? ナイト様の役に立てないならすぐに捨てられるわよ」
差し迫った問題を突きつけられ、ドロップは意気消沈とする。当たり前のように数年先を予想できるほど安定した立場ではなかった。今がずっと続くわけでもないが明日ぐらいならば変わらないだろうと楽観視する自分がいる。それでも現状は役立たずの部類に入っているという自覚もあった。
「そうなんスよね……。っつかナイトさんがチートすぎるんスよ。あの人、やろうと思えばなんだってできるじゃないっスか」
ナイトの持つ記憶力というのはそう言わしめるだけの力を持っていた。一度得た情報は決して忘れない。記憶の中にある風景ですら容易に見返し、その時に認識しなかったことですら改めて思いだせるのだ。例えば四年前に訪れたコンビニでお茶を一本買ったとする。入口を抜けてすぐ左手へ。窓際に並ぶ雑誌を横目に移動し、コールドドリンクのコーナーでお茶を選び、お菓子コーナーを通ってレジへ行く。その道すがらに見た全ての商品を記憶している。その記憶を見返せば何の雑誌が何冊あったか、当時期間限定で販売されていたお菓子は何か、店内に流れていた曲さえも確認できるのだ。
それだけの記憶力がある以上、暗記するだけなら六法全書でも聞き慣れない外国語でも一度見聞すれば可能である。彼女自身も新しい情報を積極的に取り込む姿勢がある為、彼女の代わりに新しい学問を納めるのは得策ではない。分野によってはドロップが専門家レベルに達するよりも早くナイトが理解してしまうだろう。
そんなナイトから必要とされる存在になるにはどうするべきか。ドロップには想像すらできなかった。
ティアラもドロップの悩みを理解しているだろう。だが情けをかけるべきではないと判断していた。曲がりなりにも彼は大人だ。義理立てする理由もない。諦めるならそれまでと淡白な口調で告げる。
「ナイト様はなんだってできるわ。それでもね、ナイト様の命も人生も一つだけ。得られる情報だって有限よ。アタシはナイト様の選ばなかった可能性の一つを実現してお伝えするの。世界を魅了し続けるアイドルのリアルタイムなんてそう簡単に得られる情報じゃないでしょう?」
「ティアラはんは芸能情報メインっちゅーのもでかいわな。需要が高い情報は高く売れる。うちの組織の稼ぎ頭やない?」
「否定しないけど俗っぽい言い方はよして。アイドルは夢を売るのも仕事の内なんだから」
「えろうすんまへん。褒めてるんやでー」
ハクの視線が遠くへと向く。無造作に手元の新聞を折り畳む。ドロップが新聞と漫画をまとめて持ち、立ち上がった。
ティアラは振り返ることなく、背後の会話へ耳を傾ける。
「ばあちゃん、一度に運ぼうとするのは無茶っスよー」
ドロップが器用に盆を三つ持って戻ってきた。盆を一つ持った老女が後へ続く。
手際よく料理を並べるドロップの姿は様になっている。バンダナの一つでもしていたらアルバイトスタッフに間違われそうなほどだ。
「失礼しやっス。これがハクさんので、こっちが俺の。あとチンジャオロースとサラダっス」
続いて老女がティアラの注文した炒飯と杏仁豆腐、三人分の取り分け皿を置く。ドロップへ礼を述べ伝票を置き、粛々とその場を去った。
ハクが着席したドロップへ割り箸を手渡し、にこやかに宣言する。
「ほな食べるで」
「いただきまっス!」
「いただきます。……それ、ホントに食べきれるの?」
ティアラの言うそれとはドロップの注文したラーメンのことだ。大盛り専用のどんぶりはティアラの顔より大きく、底も深い。ぎりぎりまで満たされた醤油スープを逃さんばかりにチャーシューがふちの半円分をせき止める。もう半分は揚げ物が浮かび目には見えずとも刻一刻とスープを吸収していた。チャーシューと揚げ物の間でネギやメンマなど通常のトッピングが肩を寄せ合っている。
ドロップは箸の中央を咥えて割り、いそいそと麺へ息を吹きかけた。
「これくらいよゆーっスよ。ティアラさんはジロー系とか知っているんスか? これよりヤバイっスよ」
「写真は見たことあるわ。あれは、そうね……。アタシの知る食べ物という括りを超えていてコメントできないわ」
「俺もさすがにアレの大盛りは無理っスねー」
「ほい、サラダ。先に野菜から食うと身体にええらしいで」
三等分されたサラダが配られる。ティアラはそれを受け取ってから、厨房の方へと振り向く。先程の老女の姿はない。いつ戻ってくるかは分からずとも、呼ばない限りはこちらへやってくることもないだろう。会話を聞かれない程度に声を落として、二人の方へ向き直る。
「食べながらでいいから聞いてちょうだい。仕事の話よ」




