【三日目午前】オフィスNo.2 ???
【ネットスラング】
WTF:What the ●uckの略。「なんてこった!」「どうなってるんだ!?」「ふざけるな」などの強い感情を表している。親しい仲の相手にだけ使うべき言葉。
lol:Laughing Out Loudの略。大笑いしていることを表す。日本でいうところの「www」
oを増やし感情を強く表すこともある。
lulz:日本で言う所の「メシウマ」他人の不幸を笑う様子。
tl;dr:too long; didn't readの略
「長すぎるから読んでいない」
虚空一歩手前の現実世界。エンターキーは始まりの鐘によく似た余韻を残して消えた。瞬く間に白を黒に塗りかえ、空間が闇に包まれる。疾風のごとき闇を追うように光が駆け抜け、世界は何事もないかのように再生成された。
そこは真っ白で何もない空間。方眼用紙を四方へ広げたように淡い線が空間を区切り、世界を定義している。
スノーはそのどこでもない小区画の一つに佇んでいた。肩を回し、指を折り曲げ、体の感覚を確かめる。丈の長いモノトーンのパーカーのフードを被り、申し訳程度に顔を隠す。それから明らかに他人の物である深紅のハイヒールの踵を鳴らした。
オールグリーン。秩序はすでに自身の手中に収まっている。そのまま片手で握り潰すように拳をつくり、権利を行使すべく指を鳴らした。
目の前に開け放たれた窓が現れる。窓の向こうは暗黒だ。通常の検索方法では辿りつけないアンダーグラウンドなサイトである。
スノーが耳を傾けずとも、興奮冷めやらぬ賑わいが聞こえてきた。
『ねえ、今の見た? 日本の心臓が一瞬だけこの世界から切り離された』
『そんなローカルなところ見ているわけがないだろ。停電か?』
『それにしては復旧が早い』
『誰かがケーブルを踏んづけたのよ』
会話は全て英語である。無機質な白い文字が会話と変わらぬ速さで綴られていく。時折、自国特有のネットスラングが飛び出すことを除けば相手の姿を想像することさえできなかった。そんな中で一際個性的な文章が声高に現れる。
『おいおい、皆して何を言っているんだ? これはいつものパターンだろ!』
『Oh,まさか、こんな季節に雪かい? 日本はもうじき夏じゃないか』
『季節なんて関係ないんじゃないかな。雪はいつだって予報を裏切るものさ』
『そうだろう、そうだろう! なあ、そこにいるんだろ!? スノー!!』
キーボードが言葉を綴る僅かな静寂は、言葉を紡ぐ為に息を吸う時間と同じ長さであった。
スノーはごく自然に窓の向こうへと呼び掛ける。
「――呼んだか?」
たちまちの内に歓声が沸き上がった。スノーの目の前に小さな窓がいくつも現れ、視界を埋め尽くしていく。各々がスノーへ向けて個別メッセージを送信した為だ。
『ほらな、大当たり!』
『本物か?』
『今日はどんな遊びをするの?』
『スノー! 俺の新作を見てくれよ!』
『早く私と遊んでよ!』
『おかえり!』
『宴の準備だ!』
スノーは煩わしそうに手を振って小窓を閉める。ぞんざいな素振りであるものの、眉間に皺を寄せることなく苛立った様子はない。いつもと変わらない冷ややかな口調でさえ、どこか軽やかさを纏っていた。
もしここが現実世界であれば、多種多様な国籍の人物がスノーを囲んで出迎えていたことであろう。体温が存在しないこの世界でも人の言葉は感情と同じ温度だ。
「騒ぐな、同時に質問するな。俺はチームではなく個人だと言っている。残念ながら腕が二本しかない」
誰かが画面の向こうで困ったように笑った。
その内の一人が皆の意見を代弁するかのように語る。
『そうはいっても、みんな君を待っていたのさ。特にレインなんかは君がいなくて寂しいと毎日泣きながらウィルスをばら撒いていた。それはとても……うん、いい迷惑だったよ』
『そうなんだよ、そうなんだよ! 木馬を作ってスノーへの想いを詰め込もうとしたら溢れてだして止まらなくなったんだ!』
『ひどいバイオテロだった』
『そんな涙と笑いと愛が詰まったトロイの木馬! スノーなら受け取ってくれるよな!?』
窓の向こうにあからさまに怪しいプレゼントボックスが現れた。てるてる坊主を模した3Dモデルが重たそうにプレゼントをこちらへ運ぼうと押している。
海が割れるように影の人々が道をあけた。関わりたくないと声に出さずとも言っている。よほど手を焼いた代物らしい。
「受け取るわけないだろ」
窓の中へ右腕を入れ、てるてる坊主を指で弾いた。たったそれだけの動作でてるてる坊主が氷漬けになり、動作が停止した。
誰か――おそらくはレインと呼ばれた人物が悲鳴を上げる。
『――っ!? おい! 一体コイツはなんだどうなっている!? 画面が凍り付いちまったぞ! 動かない! みんな、俺の声が聞こえるか? こっちは何にも聞こえねぇ!! WTF! おいおい困るぜ、何したんだよスノー!』
『レインが凍ったlol』
『やあレイン。こっちからは滑稽な君の姿がよーく見えるよw』
『lulz』
気を利かせた一人がてるてる坊主をカーリングの要領で闇の彼方へ葬った。ここではよくある高度な茶番だ。
何事もなかったかのように人々はにこやかにスノーを出迎え直す。彼らは心の底からスノーを待ち望んでいた。
『OK,今のパフォーマンスで充分だ。アンタは本物のスノーに違いない』
『それで? スノー、今日は何しに?』
問いかけの答えを聞き逃すまいと全員が固唾をのんで目を凝らす。期待と注目というスポットライトを一心に浴びるスノーは気負うことすらしなかった。現在時刻を横目で確認し、笑みを浮かべてみせる。いたずらっ子のような悪い笑みにも見え、裏表のない晴れやかな笑みにも見えた。
そして彼は演目を公開する。
「2.5次元へ雪を降らせに。――ほんの小一時間程な」
再び歓声が上がった。彼らは皆、スノーと同じ悪戯心溢れる天才達だ。新しい悪戯は大好物である。次々と手伝いを申し出る声が集まった。お気に入りのマシンを前に遊興の時を待ちわびる。
そんな人々を前に、スノーは静かに首を横に振った。
「手伝いは不要だ。ここへ顔を出したのは共犯者を募る為ではない。俺の生存報告と、今から始める遊びが俺の仕業だと言いふらしに来ただけだ。皆は雪を見ながら酒でも飲んでくれ」
返事を待たずに窓を縮める。そこから数歩離れ、今だ誰も至れない舞台の中央へと立った。
日本時間午前8時15分。約束の刻限だ。
スノーが指揮者のように腕を振るう。たわやかに踊る指先を追従する無数のアイコンが現れ、スノーを取り巻いた。赤い太陽、白い雲、青い空。カラフルなアイコンが渦を巻き、次々に色を変えていく。
それらはすべて雪だるまのアイコンに切り替わった。一瞬にしてあたり一面へ雪の結晶を模したアニメーションが舞い落ちる。
この世界に魔法は存在しない。まごうことなき現実だ。
ちらりと現実世界へ目を向ける。傍らに現れた新しい窓の向こうには駅の改札口が映し出されていた。防犯カメラのリアルタイム映像である。乗換案内を映していた電光掲示板は降雪を知らせた。
『只今、大雪により運転を見合わせています』
別の窓が次々と現れる。
道路情報板で『大雪通行止』と表示されていた。
テレビのテロップが大雪情報を報じる。
電車が緊急停止した。
走行する車もたちまち速度を落とす。
人々は空を見上げた。澄み渡る青空が見えることだろう。
「予定調和」
スノーが足元を見やると、水面下にあるSNSがにわかに騒ぎ出していた。まだ全ての事態を見渡せている者はいない。それぞれがそれぞれの誤作動だと思っている。
瞬く間に水かさが増していく。不確かな情報の海の中で、真実を追い求める声ばかりが氾濫した。公式という真実を知らせる声が荒波に揉まれ沈んでいく。
そのままスノーまでをも飲み込む勢いで書き込みが溢れ出す。腰の高さまで水に浸かったスノーは一歩だけ前へと進む。ハイヒールの高音が響く。隣の小区画に水は無い。所詮は限られたSNSという空間の中で情報が飽和しているだけだ。
肩へ積もっていた雪を払いのけ、スノーは次の手を指そうとした。そこへタイミング良く、見知らぬ誰かから声をかけられ手を止める。
『No.3 行動開始』
発信元を辿るまでもなく、文面だけで無機質なメッセージに色がつく。デバイスの持ち主はカズモリナムラであったがその名を知らぬスノーではなかった。短い返事を済ませ会話を終わらせる。こちらも予定調和とデウスエクスマキナの代わりに呟いた。そのまま次の行動へと移る。
そっと耳を澄ますとここより少し離れた場所から誰かの囁きが聞こえてきた。
『今、首都圏ヤバイらしいよ』
『雪が降っているんだって』
『サイバーテロ? らしい』
『ヤバイヤバイ。これから夏なのに雪とかヤバすぎ』
圏外にも情報が広がり始めている。いち早い情報収集者へスノーは手を伸ばした。
情報収集が得意な人間は拡散力も並以上。彼らの持つ権限を凍結させ、雪だるまアイコンの自動プログラムに置き換える。botと呼ばれるものだ。彼らはもう自分の意思では喋ることができない。代わりにプログラムされた情報を喋り始める。
『こちら大阪府、道路板に雪マーク出現!』
『雪ウィルス、新潟県でも確認。首都圏から伝染してる!?』
『テレビ雪! 皆見て! 6ch乗っ取られてる!』
『拡散希望 現在首都圏を中心に降雪の誤報が広まっています 情報求む』
スノーが選択した範囲は首都圏のみ。無論デマだ。都市名はデバイスの位置情報を表示するようプログラムされている。デバイスの現在地をリアルタイムで拡散するウィルスに改良を重ねたものだった。
日頃から確かな情報を発信する人間からの情報だ。それを鵜呑みにし拡散していく人物も多い。デマ情報が流布し、さらに混乱は広がっていく。スノーが雪を降らさずとも虚偽の雪が降り始めた。
吹雪の只中にいる公式アカウント達が、誤報やバグの発生を声高に叫ぶ。しかし解決の見込みのない情報は糾弾される。憶測が飛び交い、無駄に回線を重くさせた。
雪は止まない。人間は未だ自然の脅威には勝てないのだ。それが人工的な自然災害であっても。
スノーが先程までいた小区画は無駄な情報で満たされていた。飽和したキューブへスノーは腰かける。次の遊びが始まった。
手近な線の隙間へ手をねじ込む。その先もまた別の世界だ。複数の映画フィルムのようなシートをを引きずり出す。それらは防犯カメラの映像であった。街中、マンション、ホテル、駅、空港……ありとあらゆる場所に設置されたカメラの過去からリアルタイムまでの映像。情報元は防犯セキュリティシステムを取り扱う大手四社だ。
ポケットからハサミを取り出し、フィルムを切り刻んでいく。情報を引きずり出されたセキュリティ会社が悲鳴にも似た警告を発しているが、聞こえないフリでやり過ごす。何本ものフィルムがスノーの手によって切り刻まれたが、やがて奇妙な現象が起こりだす。
ハサミから手を放してもハサミの動きは止まらない。ひとりでにフィルムを切り刻んでいく。そればかりかフィルムさえも自ら進んで刃の間を通過していった。ポケットから全く同じハサミを取り出し、宙へと投げる。一つが二つ。二つが四つ。あとは二の二乗分。ハサミが増殖し、プログラムに従って作業を開始した。
しばらくの間、プログラムの動作を確認する。正常に作動しているようだ。
ふいに来訪者を告げるチャイムが鳴った。No.2の方ではない。この世界だ。
大きなガラスの割れる音がしたかと思うと、スノーのいる位置から離れた空間の一部が砕け散った。現れたのは白い鎧を纏った人型のロボット五体。ゆっくりとこちらへ前進を始めた。人型のロボットはスノーよりも背が高く、手には白い警棒を握りしめている。
スノーは立ち上がり、一切の警戒もなくロボットへと近づいた。何もない空間を足場に、踊るような動きでロボットの全身を観察する。
「サイバー犯罪捜査官だな。以前よりいくらかマシになったと見た」
重力を感じさせない動きでスノーはロボットを取り囲むように観察を続けた。ロボットはスノーに気付いた様子もなく、慎重に辺りを見回している。ちょうど目の位置にあたるであろうゴーグル部分にスノーが手を振ってみても無反応だ。
観察を終え、届かない声で語りかける。
「俺からの攻撃を予想した重装備だ。わざわざ出向いてもらったが、今日はあんたらと遊びたくて騒いでいる訳ではない」
一度、言葉を切った。もしも会話が成立していたら当然投げかけられるであろう問いを待つ。いつだって大人は理解するつもりもないくせに理由ばかり問う。どんな理由であっても怒るくせにと子供ぶって悪態を吐く。そして自分なりの、自分らしい言葉を返す。
「突き詰めれば意味なんてないのさ。もっと効率的で目立たない方法も、その他大勢へ迷惑をかけない方法だってある。ただ、そういうのは仕事でやるものだろ?」
日頃のストレスは降り積もった雪の数。降り積もれば積もる程、思いきり喚き散らしたい時もある。
雪には似合わぬ晴れやかな顔で、スノーは結論を述べた。
「休みの日ぐらい、好きに遊ばせろって奴だ」
ロボットの一体が警棒を振るう。スノーは軽く跳んで距離を置く。追撃は無い。一瞬で引き上げた警戒レベルを下げ、つまらなそうな顔をした。見破られたならばフードを被るのも無意味と考えたがその必要もないようだ。
「なんだ、手当たり次第に振っただけか。雑な仕事だな」
左手の人差し指を立て頭上に上げ、円を描く。そのまま垂直に腕を振り下ろすと、ロボット達の真上から大量の雪が降り注いだ。雪が降り積もる床の座標を変更しただけの至極簡単な操作である。だが絶大な効果を発揮した。重装備のロボットの動きが各段に鈍くなる。
「足止めならこっちも役に立つか」
振り向きざまに指を鳴らすと、切り刻まれたフィルムの残骸がロボットへと吸い込まれるように集まっていく。さらにロボットの足元から無傷のフィルムが腕を伸ばして絡み付く。ロボットはそれが何であるか判別することなく警棒で破壊した。ハサミを使うよりも効率的かもしれないとスノーは笑う。
雪は止まない。積もった分はロボットの真上に転送されるも、そこからあぶれた分がスノーの指定した範囲へと雪崩れ、再びロボットの真上に降り注ぐという循環を繰り返している。スノーは思いつきで選択した範囲を暗号化させた。もし誰かがこの範囲に足を踏み入れた時、自動的にロボットの真上に転送されるという一種の落とし穴が完成する。
「さてと、あとは自動プログラムでいいか」
両手を二回叩き、20cmほどの砂時計を呼び出す。砂時計の中には粉雪のような白い砂がサラサラと流れ、指定された時間を司る。
先程椅子代わりにしていたSNSのキューブの上へ砂時計を置き、小さくしていたアンダーグラウンドサイトの窓を呼び寄せた。窓の向こうでは興奮した文章が立ち並び、お祭り騒ぎになっている。そこへスノーは呼びかけた。
「やることはやった。俺はもう帰る」
『もう!? つまらないこと言わないで!』
『レインだってまだ融けてないのに、後で絶対うるさいぜ』
『たまにはゆっくりしていきなよ。ここは君の作ったサイトだぜ?』
不満げな声に、仕事が忙しくてとはぐらかす。それでも引き留める声が上がる事実に対し、スノーは素直に喜んだ。
窓枠に触れ、コードを書き換える。窓をそのままに氷のようなプレートが縦横へ伸び、窓付きのドアへと姿が変わった。古典的な鍵穴の上にカウントダウンを行うデジタル表記を取り付ける。
「俺はいないが俺の用意した雪原で遊ぶといい。今なら探し物遊びができる」
『ホント? ルールは?』
「どこかに砂時計が埋もれている。中には鍵があり、実行すると全て元通りになるのさ」
『スノーの奪った権限を奪えるのか。面白そう』
『砂時計ということはタイムリミット付きだね。タイムオーバーになるとどうなるの?』
「結果は同じ、全て元通りだ。雪がやみ、やがて融ける。鍵を手にした奴が持ち逃げしたら困るだろう」
『なるほど。本当にただのお遊びだ』
「元々が遊び半分だからな」
遊んだらある程度の片付けをするのも彼の性分だ。それに加えて自身も利用する公共交通機関や流通サービスの妨げはほどほどにしておくべきだと考えていた。
ドア越しに語らいを続ける最中、背後で小規模な爆発音が響く。振り向かず、ログだけで何が起きたのかを把握した。警察以外の侵入者がものの見事に落とし穴へ嵌り、ロボットの頭上へと転送されたらしい。当然、不審者とみなされロボットと乱闘を繰り広げているようだ。スノーは笑いを噛み殺しながら話を続ける。
「日本の警察とも競争ができる。どこぞの野良クラッカーも遊びに来ているらしい」
『ケーサツ? こわーいこわーい☆』
『面白いね。参加しよっと』
『妨害はもちろんありだよな?』
『ダメだと言ってもやるくせに』
ドアの向こうからいくつものノックが聞こえてきた。ノブが何度も回り、ガチャガチャとやかましい。
予想以上の規模になりそうだとスノーは考えを改めた。せっかくだからとさらなる趣向を凝らしたい気持ちが湧いてくる。
手始めに砂時計の位置情報を書き換えた。とぷんっと音を立て、砂時計はSNSのキューブの中へと沈んだ。そしてダミーの砂時計をランダムに配置。中身は開けてみてのお楽しみ。
先程観察を終えたロボットに似せた雪像を配置し、稚拙なAIを埋め込む。
ついでといわんばかりに、監視カメラの映像を引きずり出した穴を固定しする。穴を見つけた人物の出入りは自由だ。セキュリティ会社側が乗り込んでくる可能性もあり、クラッカー側が遊びにいく可能性もあった。
短時間ながらも面白いものができたとスノーは満足げに頷く。
「じゃあ、またな。楽しく遊んでくれ」
返事を聞かずにドアから離れる。あと数分もすればドアも開き、ゲームが始まるだろう。
スノーは一人、果てしない空間の先へと歩き出す。吹雪の中を進むと、次第に何も存在しない元通りの空間へと辿り付いていた。しかしスノーの耳にはひたひたと嫌な足音が聞こえている。
騒ぎに乗ずることなく、騒ぎを起こした人間を追う者も少なくない。それなりに尾行し慣れているのか、何層か次元をずらしてついてくる。
警戒心を顔に出さず、自然な動作で歩いた。一人の正体を突き止めている内に、背後から何をされるか分からない。どこで撒くべきかと思いあぐねていると、どこからともなく子犬が駆け寄ってきた。スノーの足元をくるくる回りながらついてくる。雨雲のように黒い犬で、黄色いレインコートを羽織っていた。当然ながら本物の子犬ではない。
ハッハッと舌を出しながら、子犬は饒舌に喋り出した。
『Hey,スノー! さっきはよくもやってくれたな。こっちのマシンを使うのは久々だ。スペックがいまいちなもんで、君に追いつくだけで精一杯だぜ』
「レインか。相変わらずしつこい奴だな」
スノーは前だけを見つめ、すたすたと歩く。本物の子犬はともかく、レインならば蹴飛ばし、踏みつけてもいいと判断していた。
ちょこまかと子犬は巧みに駆け回り、上機嫌に纏わりつく。
『今日こそ君を特定させてくれよ。住みつきたいし、監視したい。君が新たにプログラムを生み出す瞬間を見せてくれ。さぞかしファンタスティックな光景なんだろうね。君の家の中なら、君を丸裸にしたっていいだろう? もちろんベッドの上でも構わないよ!』
「tl;dr.足元をちょろちょろするな。鬱陶しい」
『足跡を辿るのに必死なんだぜ!』
「そうかそうか」
スノーは立ち止まり、ハイヒールを脱いだ。もちろんそれは他人の靴である。スノーにとっての安全性は確認したものの、持ち主についてはスノーさえも知らなかった。しいていうならばパソコン初心者だろう。
世界の果てに向かって靴を投げる。子犬が全速力で走り出した。
『HAHAHA!! 突然走り出すなんて単純な手だな! コイツはアレか? ビーチで追いかけっこをする恋人の戯れか! 可愛い奴だな、愛してるぜハニー! FOOOOOO!!』
子犬に釣られ、その他の気配もハイヒールを追いかけていく。
スノーは暫らくの間、周囲を警戒し何の問題もないことを確かめる。それからため息交じりに頬を掻く。いい加減、自分は男だとカミングアウトすべきだろうか。悩んでみても、それでも構わないと返事をされる予感があった。そもそも情報を誤認させる為のコードネームだと思い直し、誤解されるなら好都合と考えることにする。
スノーは憂いを捨て、心を一度カラにする。足跡一つ残さないよう静かに身体を雪へと変え、その場を去った。
後に残るのは最初と同じ、虚空一歩手前の現実世界。
彼は最後にこう呟いていた。
――さあ、リアルへ帰ろうか。




