【二日目午前】オフィスNo.2 その②
「なんのことやらさっぱりやな」
わざとらしくはぐらかす。スノーが追及するより早くドロップが戻った。ワカメと書かれた味噌汁をスノーの席へ運ぶ。
二人の間に流れる穏やかでない空気を感知することなく、いそいそと己の役割に従事する。
「この味噌汁、おにぎりと一緒の場所に置いていいっスか?」
「あぁ、構わない」声から毒気は抜けていた。
「せやドロップ、勉強の為にスノーはんの画面見るとええで」
「ういっス。見させていただきやっス!」
スノーの後ろから画面を覗き込む。ハッキングといういかにも情報屋らしい仕事を目の当たりにできると思うと胸が高鳴った。
中央のモニターには掲示板サイトの他に黒いウィンドウが表示されており、英数字の羅列が躍っている。そして右のモニターは報告書を作成する際に使うソフトが起動されており、履歴書のようなフォーマットが完成していた。そこに記載されている事項をドロップは読み上げる。
「えーっと氏名、年齢、住所、職場、家族構成……」
ドロップの表情が変わった。読み上げた項目にはすでに情報が記載されていたのだ。チェックボックスにはレ点が刻まれており、おそらくは裏取りの完了を示しているものだろう。
「これ、特定終わってるじゃないっスか。いくらなんでも早すぎるっスよ! お湯沸くまでの時間っスよね?」
「あーちゃうちゃう。さすがのスノーはんでもそないな短時間でできるわけあらへんで。昨日の夜からや」
ドロップの理解が追いつかない。どこから質問すればいいかも分からないようだ。
早々に見切りをつけたスノーが解説を始める。要点を絞り、丁寧に指を折りながら解説する様は中々にこなれていた。
「昨晩、ハクからの不審車目撃の報告を受け、念のためインターネット界隈で情報収集を行った。その際にこの書き込みを見つけ、特定作業を始めた。姫華の事務所へも明方、俺が一報をいれておいた」
そこへハクが注釈がてらに昨晩の不審車について説明するとようやく合点がいったらしい。ついでに暴走の理由が判明し、ほっと胸をなでおろす。尾行に一切気付かなったことに対して注意力が足りないと叱責は受けたものの、今後ハクと同乗する恐怖が払拭されたのが幸いであった。
概要を理解した上でようやく建設的な疑問をドロップは投げかける。
「特定できてるならすぐに行動しないんスか? 急ぎっすよね?」
「してもええけどしてないんや」
「どういう意味っスか?」
「急ぎゆうても猶予はある。奴さんも警察もワイらの介入は知らんし、ここまで特定できとるのも知らん。ちゅうわけで王手前の小休止や。ワイら全員、ナイトはんから休むよう指示出とるやろ? けどそう簡単に休めないのがティアラはんなんや。せやからこの騒ぎに乗じて今日一日、少なくとも昼前までは確実に休ませようっちゅースノーはんからの優しさなんやで」
「ナイトからの指示だ。俺の意志ではない」
すげなく返し、ハクの説明中に開封したおにぎりを機械的に咀嚼する。自分の意志も興味もないとアピールしているつもりなのだろう。しかしハクからすれば下手な照れ隠しにしか見えなかった。いかに不仲といえどスノーとティアラは互いの能力に理解は示しており、その苦労も報告書を通じ垣間見ているのだ。そこへ業務上の指示という名目の労う機会があるならば、スノーは即刻乗ずるだろう。自分の干渉を最小限に見せる努力もまた、自身と衝突しやすいティアラへの配慮であった。
不器用な優しさを見抜いているハクはにやにやとこれみよがしに微笑みかける。
「そないに冷たくいうてもバレバレやでー? スノーはん何時に寝たん? サーバー接続時間から推測したろか? 監視カメラの映像もあるやろし、ティアラはんの為に遅くまで頑張とったスノーはんの姿が見れるんとちゃう?」
「それ以上、俺に関して首を突っ込むなら縊るぞ。ドロップ、お前もな」
「ひぃ! なんで俺まで!?」
「おー怖い怖い」
からからとハクが笑い、心底怯えているドロップへ唇の動きだけで話しかける。急な合図に驚きつつも習いたての読唇術を駆使し、一文字ずつゆっくりと読み取った。『話ヲ逸ラセ』おそらくはそう言っている。途端に昨夜、記憶のノートへ書き込んだことを思い出す。ごく自然な流れを装って話題を切り替える方法。その初歩として相手に質問を投げかけていたのをしっかりと覚えていた。
何かないかとモニターの中を探し、右のモニターの報告書へ目を付ける。欄外にある数字にはなんの説明書きもなかった。
「えぇと、スノーさん、この数字はなんスか?」
スノーの視線がまっすぐにドロップへ注がれる。直感的な違和感を憶えたのだろう。しかしすぐに視線をモニターへ戻す。話題転換には気付いていたが否定する理由もないと言いたげでであった。ドロップは背中を伝う冷や汗を感じつつもほっと息を吐く。やはりハクのように易々とはいかないものだ。
スノーは指摘された五桁の数字の詳細ををこともなげに言ってみせた。
「コイツの口座残高。複数の口座があると思って走り書きしたが、どうやらこれ一つだけらしい。すぐに整理しておく」
「――ってことは銀行にも侵入したんスか。めちゃくちゃハイレベルっスね!?」
「そこらのセキュリティよりかは各段に堅牢だが破れないものでもない。ただ今回は正当な手続きで確認させてもらった。コイツのIDとパスワードを入手し、正面から入っただけだ」
「そんなのができるんスか」
「コイツは給料日になると残高の確認をインターネット上で行う。その日にコイツのパソコンへ入力された文字列を抜き出し、日本語として成り立たない任意の文字列を探す。セキュリティ対策に機械が生成した文字列は特徴的だからな、すぐに分かる」
簡単そうに言ってのけるが、ドロップには到底真似できそうにない。それでも勉強の為と思い直し、質問を重ねる。
「ええっと、給料日のめぞ? はなんとかなるとして、なんでこの人が入力した文字列を見れるんスか?」
「目途、な。その質問は単純な話。俺が許可を求め、コイツが承認したからだ。お前も引っかかりそう手だから気を付けろ。くれぐれも規約を読まずに『同意する』を連打するなよ。見知ったサイトの通知に偽装するのも簡単だからな」
「りょ、了解っス! にしてもこんなことしてバレないんスか?」
珍しくスノーが唇の端を持ち上げてみせた。自嘲気味に、それでいて自信を滲ませる笑みだ。
現代社会においてコンピューターの進歩はめざましい。日々進化を続ける技術に対し、利用する人間はほぼ同じスタートラインに立っている。大人も子供も皆平等に何も知らないところから最新技術と触れ合っていく。それゆえにこの分野には年齢による習熟度の差はほぼ存在しなかった。むしろ柔軟な子供の方が新しい技術に目を輝かせ、直感的にも理論的にも理解を深めやすいのかもしれない。
スノーはそんな世界の中で他者を圧倒する力を持っていた。たゆまぬ努力の賜物だろうか。いや、違う。努力だけでは到底足りない。論理的かつ自由な発想力と少しばかりの悪戯心。それがなければこの技術を道具として使うだけの凡人で終わるのだ。道なき道を進む航海者にはなれない。
「俺より頭の良い奴がコイツのパソコンに触ったらバレるだろうな」
「かっこいいっスね! 俺もそんなセリフ言ってみたいっス!」
二人の会話を黙って聞いていたハクは冷静に評価を下す。分かっていたことだがドロップは嘘が下手だ。感情が声と表情に直結し、相手にも伝わりやすい。裏を読む必要が無い為、警戒心を抱かせずに人と距離を詰めるには効果的だ。しかし情報屋としては致命的。雑談を交えて情報収集を行うという芸当は難しいだろう。
どう育成したものか。悩みは尽きない。いっそ利己的な思考だけを貫かせれば何か変わるだろうか。あれこれと考えてみるもピンとくるものはなかった。しかし突き詰めてしまえばナイトにさえ気に入られればいいと極論が生まれる。技術的なものは全て教え、ナイトに差し出すのも悪くはない。ドロップの持つ素直さならば洗脳もしやすいだろう。そうだ、そうしようと思い至ったハクにはドロップに対する愛情の欠片も無かった。
観察と考察を終え、そろそろ会話へ加わるのが自然だろうと見当をつける。
スノーの調べ上げた事項へさっと目を通し、自分らしい意見を述べた。
「個人情報は割れても動機に直結しそうなのは見当たらへんな。直接聞いた方が早いならワイの出番になりそうや」
「おそらくはそうなる。ただ、少しでもハクが仕事のしやすいようにしておく。手札の用意は任せろ」
「ほな、お言葉に甘えて。さーてそろそろティアラはんも戻ってくるやろうし、ワイらはまだ何も知らないフリをさせてもらうで。ドロップは今の話をティアラはんには黙っておくんやぞ」
「ういっス」
「まぁどうせ全部終わって報告書提出したらバレるんやけどな。今のうちだけでもお姫様には優雅に休んでもらいましょか」
ハクが自分用のおにぎりへ手を伸ばしフィルムを剥ぐ。ドロップはインスタント焼きそばのお湯を捨てるべく給湯室へと向かった。
そこへティアラが戻ってくる。しわくちゃになったゼリー容器を捨て、先程の席へ腰を下ろした。他三人は一切関心を寄せていないものの、唇にはグロスが塗り直されているあたり、彼女の乙女たる徹底さが伺える。常に人から見られているという意識がそうさせるのだ。
「ハク、15時前に事務所へ行くわ。濱千代さんメインでキススキの収録してるらしいからそこへ加わるカンジね」
「OKやで。それじゃスノーはんにお任せしとる間に、昨日できひんかったナイトはんのお見舞いでも行こか? ウィザードはんの所でデータ受け取ればええやろ」
ハクとしてはこれ以上ない名案のつもりであった。宝ノ木 姫華は公の場で羽を伸ばすのは不可能であるし、ハクとしてもショッピングの荷物持ちはさすがに業務外である。そして現在入院中のナイトはまず間違いなく暇を持て余していることだろう。なによりティアラの扱いに最も長けているのはナイトだ。この二人を引き合わせることによって自身が楽できるのは明らかである上、誰も不幸になりはしない。
しかしティアラは首を横に振る。
「ここでできる仕事をするわ。今のアタシじゃナイト様を楽しませる情報がないもの。昨日の帰り道で気付いたわ。ナイト様が一番喜ぶ手土産も無しに会えないって」
「今のティアラはんの状況、ナイトはんならめっちゃ喜ぶで? 殺害予告されてライブリハも潰されて怖い言うて甘えればええやん」
「余計な心配かけたくないのよ。それに中途半端な報告をしたら、私も手伝いたいとおっしゃるに違いないわ。ナイトさまのご厚意は嬉しいのだけれど身体に障るようなことをさせたくないの」
ティアラの意見ももっともであった。話を聞いたナイトが大人しくしているはずがない。リハーサル会場へ現場検証しに行きたがるだろうし、スノーが特定作業を行っていると聞けば手を出したがる。特定が終わっていると判明するやいなや犯人と直接会いたいと言いだすに違いないのだ。
当然反対するであろうウィザードの取り押さえと脱出の手引きをするのはおそらく自分。情報を求め続けるナイトは手段を選ばない。ナイトに強要されるならウィザードに恨まれる覚悟で遂行せざるを得ないだろう。ナイトの命令こそ最優先ではあったがその後の人間関係を考えると可能な限り避けたい事態であった。
自身の考えの至らなさに反省しつつ、ティアラを心の底から称賛する。
「さすがティアラはん、ナイトはんのことよう理解っとるなぁ」
「アンタより付き合い長いし当然だわ。そういう訳だからドロップ、……あら? どこへいったの?」
「あ、はい! ただいま!」
湯切りを終えた焼きそばを手にドロップが駆けつけた。
ティアラはサッと目を背ける。100グラムあたり500キロカロリー前後。可愛げもない見た目で写真映えもしない。庶民派アイドルならまだしも天下の宝ノ木 姫華が食べているところを見られようものなら炎上必須。悪魔のような存在がそこにいた。ちなみにコンビニサラダはセーフという謎ルールも存在するが今は深く語る時ではないだろう。
ドロップの手元をなるべく見ないよう、ティアラは指示を出す。
「食べ終わってからでいいわ。車に積んである段ボールをひと箱持ってきてちょうだい」
「ういっス! すぐに行きやっス!」
ティアラの前にある机に焼きそばを置いて、ドロップは駆けだした。
見慣れぬ物を警戒する猫のような表情で焼きそばを凝視する。よほどおぞましいのか、眉間に皺が寄っている。そんなティアラを気遣う素振りを一切見せず、ぶっきらぼうな声でスノーが呼びかけた。
「そうだ、訊きたいことがある」
「なにかしら?」スノーへ向ける表情は相変わらず不愛想だ。
「常盤 咲幸を知っているな」
「えぇ。事務所の先輩アイドルだわ。私より全然売れていないけどね」
「そいつと最近何か会話をした覚えは?」
「いいえ。特には」
「常盤 咲幸の最近の活動について情報はあるか」
「大してないわね。あの人、歌もそんなに上手くないし、ドラマも大きな役はなかったはず。モデルと営業ばかりじゃないかしら。アタシより公式サイトの方がよっぽど詳しいわよ」
「そうか、ならいい。後でまとめて報告する」
「分かったわ」
「それと――」
「まだあるの?」
イライラし始めたティアラへ、スノーは一呼吸を置く。なるべく感化されないよう落ち着いて話す。
口を挟む代わりにおにぎりを頬張るハクは内心けらけらと笑っていた。素直に言えばいいだけだというのに、どうしてこの二人はそれができないのだと不可解かつ愉快で仕方ない。
「ナイトからメンバー全員の業務を軽減するように言われている。お前も例外ではないからな」
「そう。ナイト様の命令なら従うわ。でもこの件が片付いてからね」
一度だけティアラが目を伏せた。すぐにスノーへと向き直り、今まで抑えていた感情を吐き出す。
それはアイドルとしての誇り。揺るがないプライドを傷つけられた怒りであった。
「私がアイドルをする為の舞台が台無しにされて、心穏やかに休むなんてできないわ。本当にありえない。私はアイドルでいなければナイト様から必要とされないのに! それだけじゃないわ。私のファンにだって迷惑かかっているのよ。絶対に後悔させてやるわ」
痛いほどの感情。脅かされる自分の存在価値。
宝ノ木 姫華はたとえ死んでもアイドルとして永遠に生きるだろう。しかし誰もかれもから見放され、そしてナイトから必要とされなくなった瞬間に消えてしまうのだ。死よりも恐ろしい終焉。そんな恐怖に屈することなく立ち向かう少女のなんと強く美しいことか。
逆境ですら自らを照らすスポットライトに置き換える。だからこそ宝ノ木 姫華は愛されるアイドルでいられるのだ。
スノーは唇の動きだけで任せろとだけ言った。
ティアラも髪を靡かせるついでといわんばかりに手を振った。
二人の間柄には他に何も必要ないのだ。
フロアの外から物音が聞こえてくる。
ハクがドアを開けると聞き慣れた感謝の声と共に段ボールが現れた。
「お待たせしたっス!」
「机に置いてちょうだい。丁重にね」
「ういっス!」
幅50cm前後の段ボールが机上に置かれる。重量感のある音が鈍く響き、解放されたドロップはようやく額の汗を拭った。
「ご苦労様。じゃあそこの焼きそば持ってここから離れてくれる?」
「了解っス」
焼きそばを手にドロップはスノーの方へと近づく。
スノー専用の席の近くには他のメンバーが使うパソコンと机が島になっており、その中からスノーに一番近い席へと着席する。くるくると回転するチェアーに体を預けながら箸を割り、ソースを入れるだけの調理に戻った。
「ハク、食べ終わってるなら手伝ってくれる?」
「いつものアレな。ええで」
味噌汁を一息に飲み干し腰を浮かす。
それをみたドロップが反射的に立ち上がった。
「俺もなんかするっス」
「ドロップはとりあえず飯食うてからや。こっちの机にソース飛ばしたらワイとティアラはんが怒るから離れてなー」
「さーせん。じゃあすぐ食うっス」
ストンっと座り、豪快に麺を啜りながら二人を観察する。
ハクは事務机の引き出しからサインペンとテーピングテープを取り出し、ティアラの元へ。ティアラがサインペンを手に取り、その上からハクがテーピングを施す。
それから互いに向かい合わせに座ると、ハクが段ボールを開け中身を机上へ並べていく。中身を見たドロップは道理で重かったと納得した。
「それ……全部色紙っスか?」
「せやで。全員宛名入りかつ姫華の公式ロゴ入りの特注品」
ティアラの前に色紙を置く。数秒でサインが完成し、次の色紙へと入れ替えられる。右から左へとサイン色紙が量産されていく光景は壮観であった。
「すげぇっスね。ロボが餅つきしてる見たいっス」
「格好のつかない例え、やめてくれる?」ティアラが顔も上げずに返事をする。
「さーせん。にしても羨ましいっスわ。姫華のサイン」
「欲しいならハガキを送りなさい。いくらでも書いてあげる」
「ハガキ? どこへっスか?」
「姫華のファンクラブ窓口や。そこへハガキを出すと宛名入りでこれが送られてくるんやで」
「マジっスか! ハガキとかレトロっスねー」
ゆったりと会話を続ける中、二人の手の動きだけはハイペースだ。会話のしながらでもティアラはサイン色紙一枚一枚に対して想いをのせる。今までに数えきれないほどのサインを書いてきたが、目の前の一枚はいつだって新鮮な気持ちで書いていたい。応援しているファンへ自分だけができる行為だ。蔑ろにするつもりは一切なかった。
「SNSで気軽に募集もできるけど、その分馬鹿も増えるから。それとファンの個人情報を守る為よ」
「ファンならたとえ五百円しか小遣いのない子供でもサインが手に入る。転売避けも兼ねとるし、真っ当なファンを選ぶ篩としても優秀や。ま、ゆうてサイン以外のグッズはネットで手に入るんやけどな」
「めっちゃ考えてるんスね。さすがっスわ」
カラになった焼きそばの容器の中で箸が転がる。ドロップはおにぎりのフィルムを剥がし、味噌汁と交互に口を付けた。
段ボールから取り出した分が終わり、次の山と入れ替える作業をハクが始める。ちらりとティアラの表情と手を交互に確認し、決まり文句のように彼女を気遣う。
「休むのも仕事の内なんやから適当に切り上げるで? 今もわりと腱鞘炎やろ」
「ご心配なく。少ししたら台本を読むつもりよ。もう覚えている範囲だけど撮影当日に読み返しの一つでもしなきゃ演技が鈍るわ」
「休め言うとるんや。仕事から離れんかい」
「じゃあ……学校の勉強。芸能活動のせいで馬鹿になりましたとかありえないもの。たしか考査が近かったはずだわ」
ティアラはナイトやスノーと同じ、現役の高校三年生である。
芸能活動に理解のある高校でレポート提出や隙間時間の補習を行い、出席日数を補っていた。芸能活動だけならまだしも、今後情報屋を続けていく上では必要になるだろう大学進学も視野に入れている為、学業もおざなりにはできない。
当然ハクもその辺りの事情を知っている。自身が幼かった頃と勝手が違うのも理解していた。それでも心配が絶えない。いつかパンクするのではないかと気が気でないのだ。宝ノ木 姫華とて、一人の人間なのだから。
「仕事片付いたら休むんやで。ナイトはんからの命令やろ」
強く念を押すと、ティアラは珍しくしおらしい顔をする。日常に悩む年相応の少女のようであったが、彼女の抱える戸惑いは一般人とは異なっていた。
「だって……急に休めなんて言われても困るわよ。ナイト様が気遣ってくれてるのはわかるけど……」
しゅんっと項垂れるティアラ。
ハクは慌てた。どこからともなく突き刺さる非難の眼差しが背中に突き刺さった気がしたのだ。何も悪いことをしていないにも関わらずそう思わせてしまうのが、美人の恐ろしいところであった。自身の能力を総動員させて取り繕う。
「せや、ナイトはんや、ナイトはん! 後でナイトはんとのお出かけプランでも作ろうや! ナイトはんとしたいことならいくらでもあるやろ? それの準備したらええんとちゃう?」
雲の切れ目から陽が差すようにティアラの表情が明るくなる。それと同時にサインを書くペースが加速した。きらきらと目を輝かせ饒舌に語りだす。
ハクは別の意味でしまったと思った。しかしもう遅い。
「たしかにそれいいわね! メーカーから貰った服でナイト様に似合いそうなワンピースがあったからそれを着せて、双子コーデでお出かけとか! たしか紫陽花の綺麗な寺社があったはずよね。まだ見頃かしら? あの付近においしい窯出しホットケーキを作っているお店があって、最近ワッフルを始めたそうなの」
「あぁ、ええんとちゃう?」
「それから音楽ね。最近ナイト様がやっと楽器に関心を寄せてくれたの。せっかくだしヴァイオリンやピアノを楽しんでもらいたいわ。あ、でもナイト様ならどんな楽器も似合っちゃう! フルートかサックスとかでもいいわね。どんなに拙くてもいいからセッションしたいわ。ナイト様が望むならアタシはいくらでも歌うし、奏でるわよ」
「うん、うん……」ハクの相槌に早くも疲れが見えてきた。
「でもナイト様はまだ全快というわけでもないでしょうし、もっと落ち着いたことをすべきかしら。パジャマパーティーとかしてみたいの。都内のスイートルームの情報収集をして予約を取らなきゃね。ナイト様が退屈なさらないように趣向を凝らさないと。ねぇハク、有益な提案を求めるわ」
「ちゃんと考えるから待っててな……」
「例えばほら――……」
繰り広げられるマシンガントーク。台本を諳んじているわけではないのに次から次へと言葉が飛び出し、話題は変わる。相槌が無ければ話を聞いていないと怒られるのはハクの対応からも明白であった。
ドロップはおにぎりの最後のひとかけらを口に放り込み、余波から逃げるようにスノーへ向き直る。ハクを手伝うつもりではいたものの、あの中へ加わる隙間が無いように感じたのだ。スノーはすでに食事を終え、なにやら作業を始めていた。邪魔をするのも気が引けたが、ひそひそ声で話しかける。
「THE 女子ってカンジっスね……。俺、昼まで何してやしょう?」
「雑務なら山ほどあるが、とりあえずこの間の報告書を書き直せ。あんなのナイトに見せられるか」
「さーせんした」
「共有連絡ファイルにも目を通しておけ。誰がどのページを閲覧していないかは、こちらですぐに分かることだ」
「ういっス」
「返事」
「はい! あ、ゴミ片付けるっス! それとコーヒー飲むっすか?」
「……いや。……自分でやる。お前を給仕係として雇ったわけじゃない。やるべきことをやれ」
置かれたままのコンビニ袋へスノーは手を伸ばした。食べ終わったゴミを入れ、ついでにドロップの分まで片付けると立ち上がる。ドロップが礼を言う間もなく、給湯室へ。備品の揃った棚の中から清潔なタオルを取り出し、流し台の近くへ置く。豪快な水の音と共に顔を洗う姿をドロップはぼんやりと眺める。徹底した彼の仕事ぶりは先程のモニターを見るだけで理解できた。決して少なくない睡眠時間が費やされているだろうとも読み取れる。
ドロップはこれまでの上司と呼ばなければならなかった人物を思い起こす。
耳が痛くなるほどの大声で威張り散らし、脅し文句だけは一人前の上司。
人を人と思わぬような命令ばかり出し、挙句の果てにびた一文も支払わない上司。
機嫌が良ければ食事を奢るも、悪ければ人をサンドバックにする上司。
罵声。怒声。上にへりくだり、下を這いつくばせる。失敗は人に擦りつけ、手柄は全て自分の物。重症レベルの体罰は愛の鞭で、力尽きれば根性なしの烙印と共に道端へ捨てられる。
嫌な記憶しかなかった。殺意を抱いた数は受けた暴力の倍以上の数。
それが当たり前だと思っていた。それが社会というものだと身をもって学んだ。
溢れ出した記憶をどうにか押し込める。今はできる仕事をすべきだ。
感情の欠片をぽつりとこぼし、パソコンの電源を入れる。
「……まともな上司って存在するんスね」




