【二日目午前】オフィスNo.2 その①
来訪者を告げるアラームが耳元で鳴る。浅い眠りの中にいたスノーはすぐに目を覚ました。起き上がり、左耳から外れかけていたコードレスイヤホンを付け直す。枕元に置いたままのタブレット端末へ手を伸ばし、半ば無意識的に操作する。
『AM08:30 セキュリティ解除者 04』
『ゲート通過者3名 03 04 19』
画面に映し出された情報はスノーにとって不愉快なものだった。露骨に顔をしかめ、乱暴に髪をかき上げる。舌打ちを寸での所で押しとどめながら唇を引き結ぶ。感情的になるなと自らへ言い聞かせ、それでも湧きあがる感情を乱れた髪と共にグシャリと握り潰した。
枕代わりにしていた青い斜め掛けジップパーカーに袖を通し、首元までチャックを引き上げる。
簡素なベッドから立ち上がり小脇にタブレット端末を抱えると、狭い部屋のドアを開けた。
「ほら、やっぱりNo.2にいた」
ドアの先の部屋でティアラが勝ち誇った笑みを浮かべる。応接用の三人掛けソファへ我が物顔で座り、足を組んでいる。傍らの一人掛けソファへ座るドロップはすぐに立ち上がると、スノーに向かって頭を下げた。
「スノーさん、はよございまっス!」
スノーは一先ず二人から目を背け、物音のする方へ視線を動かす。開け放たれた給湯室のドアの先で湯を沸かすハクの姿が見えた。
No.2はオフィス街と歓楽街のちょうど境目に立つビルの中にある。組織の実質上の活動拠点であり、今スノーらのいるメインフロアの他に給湯室、会議室、仮眠室、サーバールームが存在し、メンバーの大半がここで仕事を行っていた。またNo.2という名称だけあり、スノーがこの場の管理を行っている。
したがってメンバーの誰がここへ来ようともなんら珍しいことでもなく、スノーが泊まり込みでいるのもいつも通りであった。
再び視線を応接スペースにいる二人へと戻す。不機嫌さを包み隠さない気だるい声が管理人の口から飛び出した。
「朝っぱらから何しに来やがった」
「喜びなさい。仕事よ」
「生憎、休暇申請が通った身だ」
「アタシに直接関わることなの。おあいにくさま」
意趣返しが済んだところで火花が散る。瞬間的に身の危険を感じたドロップは息を潜めて存在感を押し殺す。自分は石、自分は空気と心の中で念じながら事の成り行きを見守った。
次に動いたのはティアラである。なんてことはない事実に皮肉をたっぷりと含ませスノーへとぶつけた。
「アンタも少しは行動パターンを増やすことね。アジトであるNo.1かオフィスであるNo.2のどちらかだもの。今日みたいなフリーの時は大抵No.2ね。ホント根暗な引きこもりなんだから」
「情報屋よりアイドル活動がメインのお前に指図される筋合いはない。デスクワークに対する評価がそれとは嘆かわしい限りだな」
一段と空気が悪くなる。架空の吹雪が舞う中、幾度となく火花が散り、その度に落雷のような音が弾け飛ぶ。
互いに次の言葉を構えている。必死さを見せた方が無様という暗黙ルールに則り、慎重に発言の機会を窺う。勝敗の決め手は相手へ敗北感を与える事だけだ。
そんな一触即発の空気の中、悠々とハクが戻ってくる。
「あんさんら、もっと穏やかに会話しぃや。ドロップが困ってるやんけ」
「ハクさぁーん……」
安堵の涙を滲ませながらドロップは救世主を拝む。ハクは大げさだと笑いながらドロップの肩を叩く。それだけで場の空気が変わった。
水を差された二人は誘導された的へと矛先を向ける。
「「なんでドロップの為に――」」
ピタリと重なる声にハクの笑いは止まらない。自分の思惑通りに事が進むのは極めて爽快だ。まして相手が年下とはいえ、仕事上の先輩だ。面白くないわけがない。ナイトが普段から味わっている全能感はこれに近いものだろうと思いつつ、次の一手を指す。
「ホンマ似た者同士やなぁ」
苦い顔をしたままの二人は反論の言葉を飲み込む。互いの言葉が再び重なる気がしてならなかったのだ。
ハクはのんびりと応接スペースの机へ台拭きをかける。さながら喧嘩の仲裁をする母親のような口調と態度であった。
「スノーはんは寝起きで機嫌が悪ぅて、ティアラはんは仕事のドタキャンで機嫌悪いだけやろ? 子供やないんやし、しょうもない理由で八つ当たりし合っとるんやないで」
台拭きが机上にあるコンビニ袋の手前で止まる。それに気付いたドロップが袋を掴むと、スノーの方へ見せつけた。きっちりと頭を下げハキハキと喋る姿には長年の使い走り精神がしっかりと染みついている。
「スノーさん、勝手ながら朝メシ買ってきたっス! 好きなおにぎりとインスタント味噌汁選べるっスよ!」
それまで眉間に皺を寄せていたスノーが視線を落とす。それと同時に吹雪も止んだ。ドロップの方を見ずに努めて淡白な声で回答する。
「あるなら梅と鮭、ワカメの味噌汁」
その瞬間、ティアラが再び勝ち誇った笑みを浮かべる。残る二人がまばらに手を叩いて栄誉を称える。
当初の空気の悪さは消え、安穏たる空気が場を満たす。ナイトの姿はなくとも、ナイトにとって心地の良い世界が成り立つのは、彼女が選んだ人物の集まりだからだろう。
ティアラが堂々たる振る舞いで勝利の宣言をした。
「はい。梅とワカメを当てたアタシの勝ち」
「ワイもええ線いってたんやけどなー。スノーはん梅は確定やから」
「俺のイメージはあさりの味噌汁だと思ったんスけどねー」
「お前ら俺の嗜好でゲームするんじゃねぇ」
一人憤慨するスノーをハクが宥めた。怒りの度合いは極めて控えめ。適当に話題を逸らしていけば問題ないと見当をつける。
「まあまあ、そう怒らんといて。スノーはんはパンやパスタやら買うてきたらいらん言いよるし、何も食べへんとイライラしよるやん。食事の好みも情報開示せんからこうやってネタにされるんやで」
「御託はいい。領収書をよこせ。――第一、手配してもらった物に文句を言った覚えは無い。パンやパスタはたまたまその時必要なかったから断っただけだ。空腹程度で感情の差分を出したつもりもない」
「ほいじゃ今後は全部ナイトはんの好みに合わせて買うてくるわ。あんさんら大抵セットなんやし、それでええやろ」
スノーが沈黙した。自身で言ってしまった以上、ハクの言葉へ同意を示すのが道理であったが素直に頷けない。
ナイトの好みという物は明確には存在しなかった。彼女の持って生まれた記憶力は味覚に関する面では大きなデメリットを抱えている。一口食べればその味を記憶し、二度と忘れることはない。どれほど期間をあけようともその感想は二口目から変わらないのだ。毎食同じ物を食べ続ければ誰でも飽きがくるだろう。それと同じ感覚を常に味わい続ける。ゆえに彼女は食べたことの無い物を好む傾向があった。定番商品を好むスノーとは対極である。
「今やとラザニア風ナポリタンドリアとかいう訳分からんもんとか大喜びしそうや。スノーはんにはそれと似たグラタン渡せば、ナイトはんが一口欲しがるんちゃう? 仲良く食べればええやん」
煽られていると理解しつつ、スノーは渋々答える。分が悪いと悟り、なるべく醜態を晒さぬうちに話を切り上げようと画策した。
「白米と味噌と適度な野菜でいい」
「そないな言い方ちゃうやろ? スノーはんは威張り散らしたい人やないやん」
「白米と味噌と適度な野菜がいい」
「素直でええ奴やな。ワイ好みや」
スノーは怒りを抑える。ここで舌打ちの一つでもしようものなら手痛い追撃がくると分かっていた。これみよがしに大人の対応をされると、素直でない自分の態度が幼稚に扱われる。それがひどく不快であった。
自身から一番近い位置にあるキャスター付きの椅子を引寄せて座る。毛足の短いカーペットが敷き詰められた床を蹴り、パソコンデスクの前へ移動した。
「こっちの机来ぃひんの?」
「俺に仕事なんだろ。さっさと終わらせるから話せ」
そこはスノー専用の席であった。
モニターが六枚設置された広い机で、ワイヤレスキーボードとマウスが二つ用意されている。それ以外にもレーザーキーボードがスタンバイしているが今はまだ出番がないようだ。
中央下と右下のモニターをつけ、パスワードを入力する。雪の結晶が回転するロード画面の後に殺風景なデスクトップが表示された。時折ファンシーな壁紙やブルースクリーンの画像へと様変わりするが、犯人が入院中の為余計なアクシデントは起きていない。とても平和であった。
仕事モードのスノーをよそにハクはマイペースを貫く。
「そう焦らんとゆっくり食べればええのに、せっかちやな。ドロップはどれ食べるんや?」
「俺、カップ焼きそばもあるんでおにぎり一個でいいっスわ。ツナマヨほしいっス!」
「ええで。ほんで残ったのは……昆布とたらこか。ティアラはんはホンマにおにぎりいらんの? もっとちゃんと食べなアカンで?」
ドロップの持つ袋とは別の袋からティアラの朝食が並べられる。パスタサラダとビタミン豊富なゼリー。そして普段から愛飲しているサプリメントが数種類。ハクの心配も頷けるラインナップであった。
ティアラは黙々とサラダを口に運ぶ。食事を楽しむつもりもなく機械的に腕を動かした。
「カロリー計算して食べてるから放っておいて。ていうかさっさと仕事の話してよ。遊びに来たんじゃないんだから」
「ほいほい。ドロップはお湯沸いたら三人分の味噌汁よろしくな」
「了解っス!」
ドロップはせっせとインスタント味噌汁の開封を始める。仕事を命じられている間は余計な口を挟まないよう指導されている為、突拍子の無い介入は未然に防がれた。
ハクが台拭きを机の端に置き、スマホを取り出す。慣れた手つきで画面をなぞりながら概要の説明を始めた。またしても彼によって空気が変わる。自然と背筋が伸びるようなきつすぎない緊張感が場を満たす。
「今日、ティアラはんのライブリハやったのは知っとるやろ。それが中止になったんや。マネージャーから待機を命じられて未だ事情説明ないんやと」
「人材、機材トラブルならすぐに連絡が来るわ。マネージャーも私の性格分かってるしその辺りはハッキリ説明してくれるの。それなのに今回は説明無し。もう少し待ってての一点張りよ」
「で、ちょろっと調べて見つけたんがコレ」
パソコンモニターにハクからのメッセージが表示される。メッセージ内のURLをクリックし、リンク先へ移動した。URLから察しのつく通り、匿名性大型掲示板サイトである。
内容を理解したスノーが短く嘲笑う。書き手の感情を読み取り、わざとらしい怒りを装って読み上げた。
「『アホ姫 killす 俺は本気だ』ねぇ……」
「いまどき掲示板でも言うたらアカン台詞やってのに、やんちゃな奴や。殺すって言わへんあたり検索避けのつもりなんやろな」
「『リハなら一般人いないしセーフセーフ 狙いはアホ姫オンリー』犯行声明文の勉強が必要だったようだな」
「コイツどこでそないなガセネタ掴んできたんやろ。他の奴らからは煽り半分、同情半分ってところやな。『アホ姫言うお前が一番アホ』ちゅー台詞がワイの中でMVPに輝いとるわ」
とあるキーワードが積み重なるごとにティアラの柳眉が徐々に逆立っていく。プラスチックのフォークでレタスを突き刺すも、その怒りは収まらない。いわれのない汚辱に対し、噛みつかんばかりの声で会話へ加わった。
「アホ姫っていうのやめてくれる? その書き込みだって、リハーサルの場所と日時が同じだから私の事だろうと推測できるけど、どこにも姫華なんて書いてないの。認めたくないわ」
「せやかてこれは百パー姫華のこと言うとるで」
「どうして言い切れるのよ」
「ここ姫華のアンチスレやし。要は姫華のアンチファンの溜まり場や。公式や純粋なファンの検索に引っかからへんように姫華の事をアホ姫呼んどるの。一種の暗号ネームやな。宝ノ木 姫華の前に『あ』を付けて阿呆の姫。略してアホ姫って成り立ちなんやで」
怒りで顔がみるみる紅潮する。絶対的な人気を確信している姫華には認めたくない現実であった。自身の人気に嫉妬する人間が存在する以上、ごく一部の反乱分子が生まれるとは予想していた。しかしそんな存在などちっぽけなもので、自分の実力でねじ伏せればよいと考えていたのだ。だからこそ自身に関する情報は何か問題が起きない限りは聞くつもりが無く、他のメンバーへ管理を任せていた。まさかその反乱分子が集い、このような事態を招くとは夢にも思っていなかったのだ。
「なにそれ、ふざけんじゃないわよ!」
「お怒りはごもっともなんやけど落ち着いてーなー。ちゅうわけでスノーはん、明らかコレが原因っぽいんやけどどう思う?」
「妥当――……だな」
「なんやねん、その間」
スノーが答えるよりも先にティアラが直感的に核心の表面を突いた。
「意味分かんないことが多すぎなんだけど」
「せやな。ティアラはんはどこに引っかかる?」
「そうね……。まずその書き込みはいつ?」
「昨日の夜、ティアラはんがナイトはんのお見舞い行ってたあたりやから日付変わる前やな」
「その時間から今朝までにうちの事務所が書き込みを見つけてリハーサル中止にまで踏み切ったんでしょ。情報伝達が早すぎない?」
「考えられるんは事務所のエゴサーチが優秀。もしくは同じ犯行声明が事務所へ送りつけられたんとちゃう?」
「それにそもそもなんで殺人予告するわけ? こんな真似したら私は受けて立つつもりはあれど、周りがそれを許さないでしょ。殺す気あるの?」
「犯人に訊いてみんと分からへんな」
長考。
ややあってティアラがサラダを口に運ぶ。現在の時点ではあまりにも手掛かりが少なすぎた。感情が先立ち、思考力と判断力が低下しているのも自覚している。冷静になれと自身へ言い聞かせ、今何ができるかを模索した。
残り少ないサラダを一息に片付け、数種類のサプリメントをまとめて飲み込む。いくらか感情が落ち着いてきた。おもむろに立ち上がり、納得させるように現状を語る。
「考えても埒が明かないし、犯人に直接問いただすに限るわね」
「せやね」
「で? 書き込み元の特定はいつまでかかるわけ?」
スノーがちらりと時計を確認した。まだ三人が来てから30分も経っていない。
ハクがスノーの分のおにぎりを机上に置き、意味ありげに微笑んで見せた。もちろんその表情は背後にいるティアラには見えない。煩わし気にスノーが息を吐く。言われなくとも分かっているという意味だ。
「昼前には完了する」
「そんなに?」
「人違いするわけにはいかないだろ。裏取り含めてその時間だ。嫌なら自分でやれ」
同じ情報屋と言えど得意分野は異なる。ことコンピューター関連についてはスノーの右に出る者はいない。そのスペシャリストが昼までかかるというなら他のメンバーではそれ以上に時間を要するだろう。特に今回は時間を優先している以上、彼に頼むほかないのだ。
スノーから視線を外す。人間的な相性こそあれ、彼の技術は信用していた。ただ素直に頼みごとをするにはプライドが許さないだけだ。
「そぅ……。アンタに任せるわ。私はマネージャーと電話してくる。リハーサル再開の目途が立たないなら別の仕事したいもの」
未開封のゼリーを手に隣の会議室へと移動する。タイミング良く湯の沸く音がし、ドロップが給湯室へ駆け込んだ。
残された二人の視線が交わる。何か言いたげなスノーの視線をよそにハクははぐらかすように目を背けた。
「ハク、喋りすぎだ」




