第3呟「当たり前という怪物は、大切な近くのものをも見失わせる」
「人ってさ、近くのものから見失っていくよね」
中学三年生になったばかりの帰り道、奈々はしゃがんで道端のシロツメクサを指で突きながら同意を求めてきた。
「近くのもの?」
「親しい人とか、日常的な物とかの事。当たり前が、いつしか既視感をも伴わずにただの景色となり果てるみたいな」
「うーん、わかんないなぁ」
美羽は考える事をなるべくしない。というよりも、奈々の難解さに理解するという行為を諦めていた。
「新鮮さが無くなるのに比例して、どんどん風景に溶け込んでいくの。例えば何もない土地にピンク色のド派手な家が建ったら、しばらくは通る度無意識にでも気に止まるでしょう?」
「随分とメルヘンな家だなって、しばらくは忘れられないだろうしね」
「でも、見慣れてしまえば当たり前になって、ピンクの家にフォーカスを当てるのではなく、それを含めた景色として辺り一帯を認識するようになると思うの」
「確かに」
「見慣れてしまえば、景色に成り下がる」
シロツメクサの中に一つだけ黄色が映えていたタンポポの茎をへし折り、摘んだタンポポを美羽へ差し出す。
「それを、今度は人に変換してみる」
それを素直に受け取ると、奈々はもう一度シロツメクサ畑の前にしゃがみんだ。
「どんなに大切な人でも、自分の近くにいる事が当たり前になってしまうと……最初の大事にしようって気持ちが薄れていく。当たり前ではない事を忘れ、有り難みを感じなくなっていく」
また立ち上がった奈々の手には花冠が握られており、それを頭に乗せられる。
シロツメクサと交互にタンポポが編み込まれていた。道端に一本しかタンポポが残っていなかったのは、ただでさえ数の少なかったタンポポが花冠にされてしまっていたからだったようだ。
シロツメクサと等しい頻度でタンポポがあると、先ほど感じた希少性を全く感じなくなった。
「当たり前という怪物は、大切な近くのものをも見失わせる」
花冠で『当たり前』を表現するとは思ってもみなかった。
しかし花冠を作るなんて、小学一年生が最後だった美羽には奈々が子供に思えた。
「あたしにとって大切な人は奈々だね。新しいクラスメイトには上手くやれるように気を使うけど、その分奈々の扱いが雑になってるし」
「まあそこは信頼の証だと思ってるんで!」
文句一つ言わずに、ふざけた口調で他の人にはなかなか見せない無邪気な笑顔を浮かべる。
すぐ怒る短気な自分と比べると、大海原のように広く深い心の持ち主だと美羽は常々思っていた。負けず嫌いなサガが邪魔をし決して口にはしないが、そんな彼女のようになりたいと、密かに憧れていたりもした。
「あ、そうだ。今年はあんまり休まないでよ? 登下校一人になるのはまだいいけど、教室で一日中ボッチは辛いもん」
小学四年生の時、奈々が美羽の家の近くに引っ越しと同時に転校して来て以来、二人は登下校を共にしている。
そして中学に入ってから一度もクラスが一緒になる事はなかったのだが、最後の最後、三年生でやっとその念願が叶った。
けれど、奈々は小学生の頃から休みがちだった。
「あっははー申し訳ないです!」
「すっごい棒読みだなぁ!?」
不登校というわけではないが、酷い時は週に一日の頻度で休む。
親同士の話を盗み聞きした時に知ったのだが、引っ越しの理由が親の離婚らしく、それから体調を崩しがちになったらしい。が、そんな繊細な面を見せられた事がなく、なんとなく疑問だった。
聞いてはいけない事のように思えて今までは触れてこなかったのだが、意を決してこれを機に欠席しがちな事について話題として持ち出す事にした。
「本当大丈夫なの? なんか病気とか?」
「いやぁ、単なるサボりというか……」
「なら学校来いや!?」
奈々のおでこに手刀をお見舞いしようとしたら、呆気なく白刃取りされてしまう。こんな戯れも普通にできる人柄だった。
こうは言うが、サボりにしてはあまりにも定期的で、LINEも欠席した日は抑鬱気味な文面になっているのは見逃せなかった。
「でもさ、休んだ日文面でも元気なくない?」
「理由もなく欠席した事に罪悪感を感じて……うっ……心が潰れるぅ……!」
「はいはい」
「えっ、本当なんだけど! 信じてないなぁ!?」
彼女は笑顔で嘘を言う。抱えているものを隠そうとするそんな防衛反応的な嘘なのか、心配をかけまいとする自己満足的な善意の嘘なのか、その判断は難しい。嘘なのか本当なのかすらも、見分けがつかない。
「ま、美羽寂しがり屋さんだもんね? 私いないと寂しいんだよね!?」
「そんな満足気にニヤニヤしながらいじめないでよ」
「ほらぁ、どうなの? 寂しいんでしょう、うりうり」
肘で横腹を突いてくる。
「はいはいそうね」
「照れて冷たくなるとか美羽クーデレ? 照れんなってぇ!」
「照れてないわ! 呆れてんだわ!」
「またまたぁ。好きっていいなよ」
美人が顔芸に勤しむ姿は親近感を沸かせる。
「突然のキメ顔やめてくれる? イケメンにしか見えない」
「え、イケメン!? ありがとう!」
「都合の良いとこだけ抜粋すな!」
今度こそチョップをお見舞いした。文句を言われるかと思ったのだが、きょとんとした瞳が顔より上を凝視している。やがて、真顔で頭部を指差してくる。
「……美羽、頭に蝶々が止まってるよ」
「ウソ!? やだ取ってよ!」
虫嫌いな美羽は半分パニックで頭を振る。
「うん、嘘」
「ちょっと早く……え?」
「嘘だよ」
「もう奈々ぁッ!」
「ごめんって! んはは!」
呼吸をするかの如く冗談を言い、笑顔で毒を吐くような、飄々とした掴み所のない人物。
親しい人の前でしか見せない奈々の姿は、人前で見せる優しく静かで、しかしクールな一面と一八〇度異なっていた。
「そうだ。高校さ、奈々はどこに行くの?」
「うーん、美羽みたいにまだなりたいものが明確になってないから、とりあえずは進学を視野に普通科のある高校に行こうと思ってるんだよねー」
「奈々の頭ならどこでも入れそうだもんなぁ」
「そうでもないよ。それよりさ、高校生といえば可愛い制服だよね!」
「気合い入るよなぁ。とりあえず巻いたりできるように今から髪伸ばさなきゃ!」
巻いたりできるように。それも確かにあるが、一番は奈々への憧れだった。奈々への羨望が、容姿を似せようという行為に直結していた。
「美羽が行きたいって言ってる高校、巻くの校則でオーケーなんだもんね。いいなぁ」
「オシャレするのも最初の内だけだったりしてね。あたし飽き性だから」
「あー、ありそう」
「そこは否定してよ!」
「だって美羽が三日坊主なのは事実じゃん?」
「うっ……まあそうだけど!」
――――二人で笑い合う日常が鮮明に思い出された。
こんな楽しい日があった。将来を語って笑い合える日々が。
奈々の言葉通り、近くの一番大切なものを見失ってぞんざいに扱ってしまっていた。
見失うどころか、失ってしまった。
安心していたのだ。いるのが当たり前になっていた存在に、日常に。
その有り難味を忘れた天罰のように、いつまでも続くと思っていた日々を一瞬にして奪われた。
傷を抉るような行為かもしれないが、中学の卒業アルバムを引っ張り出して一ページ一ページ、隅から隅まで目を通す事にした。
三年一組。それが美羽と奈々のクラスだった。出席番号順に並んでいる個人写真を丁寧に指先でなぞる。
奈々の次が、自分だった。
腰まであった綺麗な黒髪は絹のように美しかった。風になびくと艶が日光を反射して、ふんわりとバラの香りを振りまいた。
人混みの中でもすぐに見つけられるような存在感もある。人とは一線を画しているのだと、言語化せずとも一目でわかる。
非の打ち所がない、まるでアンドロイドのような完璧すぎる人だった。
清く正しく美しくとは、ああいった人の事を言うのだろう。
けれど、それは美羽の目以外から見ればの事だ。
「奈々は……普通じゃない」
そう思わせるきっかけとなった出来事が、今目にしているページにある事を思い出す。
感傷に浸るひと時に、突然心臓を鷲掴みにされるような一枚があった。
「内藤圭介……」
美羽にとって、友人を失うのはこれで二度目になる。
中学三年で仲良しグループだった内の一人だ。美羽と奈々と美羽の彼氏である直人と、そして内藤圭介。休み時間はいつもこの四人でいた。
「それなのに、奈々は……」
彼が亡くなった事を学年集会で知らされた時、笑ったのだ。
その頃から奈々はやつれていったように思う。
刺々しく、すごく冷めたような目をしていた。その虚ろな目が、凍てついた視線が、美羽は怖かった。
当時より二年前、奈々は曽祖父を亡くした時にものすごく落ち込んだ。気づけば涙目になっていて、しかし悟られないよう配慮するような子供だった。
本来の彼女は、心優しく正義感に溢れていたはずだ。
いつしかそれが過去のものになったのを、美羽以外は気づけなかった。
もう一人の親友、菜緒さえも気づかなかったというのに、他の誰があの奈々の違和感を察知できるというのだろう。
最初から感性が人と違う面もあったが、離婚をきっかけに性格が歪んでいったのかもしれないし、思春期ならではの精神的不安定さがズレた死生観を生んだのかもしれない。
様々な可能性が思い浮かぶが、複合的でいろいろな要素が複雑に絡み合って形成された事なのだろう。
卒業アルバムを閉じ、薄っすらと埃のかぶった本棚に戻す。
重い気持ちに引きずられ、体すらも怠く感じる。どこかに行き場のない気持ちを吐露したいのに、菜緒とは気まずくなってしまった。
彼氏は金曜日に熱を出して早退してからというもの、返信がこない。
既読はついている事から、打ち返せないくらい熱で寝込んで辛い状況なのだろう。だとすれば返信を催促するのも忍びない。
奈々が亡くなった事も辛い体には毒な情報だ。
「誰か」
誰かとは呼ぶが、呼べる名前なんて残されていなかった。
適当な友達にでも悲しみをぶつければ良かったのかもしれないが、分かった気になって同情されるのもなんだか嫌だった。
広く浅く築き上げた交友関係はこんなにも薄っぺらく頼りないなんて。と、なんだか惨めな気分になる。
そして解決法を思いついた。ツイッターの裏アカウントだ。
気持ちが落ち込んだ時――俗に言う病んだ時に愚痴を呟くアカウントで、今の気持ちを吐き出せばいいのだ。
裏アカウントは中学時代に流行り、そしてそのブームは年々廃れつつあった。
美羽もそのアカウントにログインするのは一年ぶりくらいだ。
「そういえば奈々もやっていたような……」
しかしフォロー、フォロワーを見る限り奈々の裏アカウントはなかった。IDを記憶していれば探せたかもしれないが、覚えているわけもない。
――アカウント、消したのかな。
中学や高校の友達の裏垢とばかり相互フォローになっていて、けれどそこに奈々はいない。いる数人も、最近は使っていないらしかった。
@みう/裏垢
[奈々も死んでしまった。私と仲の良い人は、皆死んじゃうのかな]
どちらも仲の良かった人だ。二人とも、親友だった。
じわじわと記憶の内から染み出して、やがて体全体を覆うようにして這ってくるこの感情の名前は、一体なんなのだろう。
形容できる言葉を持ち合わせず、悍ましく嫌悪感を抱くそれを引き剥がすようにリビングへ降りた。
その日は日曜日だというのに家には誰もおらず、もぬけの殻だと知らずに意気揚々と攻め入った兵士のような虚を突かれた気分になる。
リビングのテーブルに書き置きがあった。触れた食卓は冷たい。まるで血の通っていない死体のようだった。
「奈々ちゃんの家に行ってきます……か」
家族ぐるみの付き合いだったのだから親が行くのも当たり前かと思ったのだが、一言声をかけてほしかった。それとも、親同士の大切な話しでもあるのだろうか。声をかけずに出かけたのは、子供を親友の死に向き合わせるのを酷に思ったからだろうか。
「どちらにしろ、独りにされる方が辛いよ……」
昨日菜緒に奈々の死の真相を暴くと啖呵を切ったばかりだというのに、すぐに弱音を吐いてしまう。そんな自分が情けなかった。
そこに、母から電話が来る。どんな話かも想像がつかないままに出た。
「もしもし」
『ああ起きた? ……今日ね』
少し躊躇うような気配が電話越しに伝わってくる。奈々の事なのだろうと確信し、言葉を待った。
『奈々ちゃんの、お通夜なんだって。美羽は行く?』
先ほど、中学三年生の時のクラスのグループLINEでも今日がお通夜だと知らせがあった。だからこそ思い出を掘り返していたのだ。
「うん、行くよ」
『夕方から夜にかけてあるから、気をつけて行ってきてね。それともお母さんがついてく?』
「いいよ。一人で行ける」
『そう……。あ、お母さん達今から帰るからお昼ご飯待っててね!』
「はーい。じゃあね」
通話が終わってからツイッターを開いてみた。奈々が亡くなったと知らされてから二日経った今日のツイッターの景色は、悲しみに彩られていた。
もちろん中には不謹慎な連中もいるが、それは少数派だ。
同じ中学校出身ではなくとも、地元の高校生達は友達の友達という事で奈々の死に影響されていた。
中学の時の友人程、当時仲が良かったから悲しいとアピール合戦をしている。
「あんたらは奈々とそれほど仲良くなかったじゃん」
友達を想う優しい自分に酔っているだけにしか見えなかった。
「こういう時だけ、友達面しないでよ……」
込み上げてきた怒りは、嫉妬という感情に似ていたのかもしれない。
次の投稿は昼頃です。