第1呟「77は死んだけど、87は生きてる」
次の日、目を覚ましたのはカラスの鳴き声でだった。スズメだったらのなら、もう少しこの心の靄が晴れたかもしれないのに。そう思いながら気怠い体を起こす。
制服姿だったのに気付き、皺くちゃになってしまった生地を手で伸ばした。
――あのまま寝ちゃったんだっけ……。
室内だというのに溜息が白い。目の前で姿を失っていくのを見届け、スマホに目をやった。
ロック画面に現在の時刻が表示されている。
もうすぐ十時になる。休日とはいえ、少し寝すぎてしまったと後悔する。
淡い日差しが雲の合間から漏れ、しんしんと降る雪を反射していた。
白。それは汚れのない色のように思える。
しかし、それは今の自分が、こんな状況に置かれていなければの話だった。
美羽には死者へ手向ける花に見え、あるいは祭壇の装飾や鯨幕の一部にも見えた。
――白に染まった遺体の肌とか。……なんてね。
降り積もるだろうこの白雪は、きっと嘘も真実も隠してしまう。
そんな予感がしてならない。
言い知れぬ危機感が、左胸の辺りをじんわりと不快感で満たした。
LINEの通知数は二十を超えていた。一体何人からそれぞれいくつのメッセージが送られてきているのかは知らないが、開くのすら億劫だ。
視線を隣のツイッターに移すと、自然と人差し指もそれを追っていた。口から出そうな心臓をどうにか落ち着けて、最新のツイートを見る。
@山田ハナ
[77は死んだけど、87は生きてる]
死んだはずの彼女は、今日も生きていた。
77とはつまり奈々の事で、87とは山田ハナの事だろう。
「山田、ハナ……」
心臓を握り潰されるような感覚に陥る。
とてつもなく忌々しいものに感じたからだ。
死者への冒涜に感じたからだ。
悲しんでいる自分に対して嗤笑されているように思えてならない。
するとなんだかとてつもなく悔しくなり、気づくと、怒り任せにリプライを送っていた。
@霜村美羽
[@山田ハナ あんた誰? 勝手に奈々のアカウントで遊ばないで]
それを見たらしい小学生の頃からの親友三人組の一人、鈴木菜緒から間髪入れずにLINE電話が来る。
応答ボタンをタップし電話に出ると、第一声が『起きてんじゃん。心配したよ』だ。
その落ち着いた懐かしい声に涙が溜まっていく。
溢れかけた涙を袖で拭うと、やっと返事ができた。
「うん、今起きた」
『ねえ、どういう事だと思う』
涙声は菜緒も同じで、食いつくような二言目の意味は、奈々についての事だろう。美羽と菜緒と奈々は、小学生時代からの親友だ。気にかけないはずがなかった。
「どうって……」
沢山言いたい事がある。菜緒が知るはずもない事だって気休めに聞きたい。自殺ではないよねと言い合い、本当に死んでしまったのなら、彼女が自ら死を選んだなんて悲しい憶測を否定してほしい。
『とりあえず会おう。今すぐに。駅前のカフェでいい?』
「うん」
流されるままに約束を取り付けられた美羽は、ベッドの上へスマホを放る。クローゼットを開き、何を着ようかと漁った。
湿気が衣服を微かに濡らし、触る手に不快感を抱かせた。部活三昧だった美羽は、私服をあまり着ない。この懐かしい祖父母の家のような香りは、冬のため湿度が高いせいと、なかなか開く機会がない事から発生したカビのものだろう。
気が重いと、自然と選ぶ色も暗くなるらしい。もともとボーイッシュな服しか持っていないが、黒のスキニーパンツとグレーのニットを選んだ。黒のワンレンボブヘアが更にフェミニンさを吸い取る。
ここまで来てお風呂へ入っていない事に気づくが、待たせてはいけないと柑橘系の香水で誤魔化した。
全ての準備を済ませ、玄関を出る。庭先の雪をかいていた母に会うと、困ったような笑顔で「どこか行くの?」と問うてきた。
「うん、菜緒に会いに行く」
「そう。雪の下、氷張ってるから滑らないようにね。遅くならない内に帰ってくるのよ」
心配されないよう意識的にいつもより明るく返事をすると、母は小さく手を振った。
歩き出すと、氷にぶつかり靴底から音が鳴る。確かに雪を踏みしめる感触が足裏に伝わってきた。
「氷張ってるところまで雪で隠れてちゃ、気をつけようがないよ」
心配そうにしていた母の表情が、まだ脳裏に焼き付いている。
心配をかけていると思うと申し訳なくなった。
そういえば、今日は自分の顔を見ていない。顔を洗った時も髪に寝癖が付いていた事が気になったくらいだが、酷い顔をしていたのかもしれない。
駅前に一つしかないカフェへの道のりは普段よりも長く思えた。
冬の朝の空気の肌触りは鋭利だ。暖かい場所に一刻も早く辿り着きたい。そう気持ちが急くのに呼応して早る足を、転ばないようにとどうにか宥め歩いた。
やっとの事で到着すると、店内を見回し菜緒を見つけた。軽く会釈をしながら歩いていく様子を見て、控えていた店員は礼だけをしてお冷を取りにまた下がっていく。
それを尻目に着席すると、菜緒は泣きそうな顔で目を充血させていた。きっと泣いた後だった。
「久しぶり。会うのは一年ぶりくらいかな」
「って事はさ、奈々とも卒業式以来会わないままだったんだね」
「そう……だね」
今更気づいた。その事実を菜緒に気づかされ、言葉が詰まった。
「……会ってたつもりだった。ツイートで普段の生活とか知れたしさ」
SNSで近況が知れるから、友人の今を分かった気でいる現代人。
所詮SNSなんてものは、見栄張り合戦する場なのだ。
自分は幸せだ、これだけ充実しているんだってアピールして。人よりも上だって示しながら、わざわざ優劣つけたがる人達の自己承認欲求を満たす場でしかない。
本当の姿なんか、そこにはない。
「そうだね……。美羽は最近どうだった?」
「大会が終わって三年の先輩が部活引退してからはバレーも楽しいかな。期末試験の結果はあんまりだったけどね。彼氏とはもう一年以上続いてるし順調だしさ!」
「ああ、直人君! ラブラブなんだねぇ。お熱いこと」
いたずらな視線でニヤニヤしている菜緒の顔は、奈々の死を感じさせない懐かしい日常風景だった。
しかし、それは持続する事なく突然萎んでいく。プラスの雰囲気を帯びていた彼女の姿の輪郭が、みるみる崩れ去っていった。
「奈々が自殺するくらい悩んでた事なんて……それこそ知らなかったよ」
「菜緒は自殺だと思ってるの?」
その問いに片眉を上げ、どういう意味かと怪訝な顔をする。美羽は言葉足らずだったかと補足した。
「奈々が電車に轢かれたって、本当に自殺だったのかなって」
「警察の判断だと事故らしいよ。周りの人の証言で特に怪しい人もいなかったらしいし。……でも、うちは自殺だと思うよ」
今度は美羽が首を傾げる番だった。
「どうして自殺だと思うの」
「どうしてってなぁ……勘だよ」
苦笑を浮かべながら後頭部をかくのは、菜緒が困った時にする癖だ。張り詰めていた空気がいくらか緩むと、先に頼んでいたらしいミルクティーに口をつけた。美羽はお冷を持ってきた店員にカフェオレを頼む。
「でもだよ? 自殺するような人かな、奈々は」
菜緒の言葉にしばらく記憶の中にいる彼女を思い起こすが、彼女自身の自殺を肯定するようなものばかりが浮かんでくる。
「奈々ならあり得るよ。自分の事を顧みないところがあるじゃん。中学の時から奈々、少し変になってったし」
「変って?」
「なんていうかな。暗くなったっていうか、笑わなくなったっていうか……。菜緒はそう感じなかった?」
「うちの前では特に変わらなかったけど」
強めの口調で否定する彼女に、美羽は疑問を覚えた。その反面、そうなっても仕方がないと思う。親友の死に直面し、少しの事で苛立ちを覚えてしまうのかもしれないと自己完結する。
そして、提案という形で宣言をする。
――親友の死を曖昧にしていいとは思えなかったから、
「……あたし、調べようと思う」
しかしその言葉に菜緒は眉根を寄せる。
「調べるって、何を?」
「奈々が自殺なのかそうじゃないのか、白黒ハッキリさせる」
「どうしてさ」
菜緒は食いさがるような目で、不機嫌な声音をミルクティーの間に忍ばせた。
「どうしてって……自殺なんじゃないかとも思ったけど、警察は事故だって言うし……でも、奈々のアカウントだって動き続けてる。何が本当なのか分からない、何が何だか分からないんだもん」
迷いを打ち消すように、美羽は目力を込めて結論を口にする。
「自分で確かめるしかない」
しかし、
「そんなの、ただの自己満足だよ」
直後に思わぬ言葉が飛んできた。いや、浴びせられたという野蛮な響きこそが適切だと思えるくらいに冷たい音色だ。
横っ面を張られたような動揺を湛えフリーズしていると、菜緒は手に持つカップの水面から徐ろに視線を上げる。その瞳の奥に、怒気を見た。
「安らかに眠ってもらおう。もう奈々は、充分すぎるくらいに頑張った」
何を頑張ったというのだろう。
何を知っているのだろう。まるで美羽の知らない奈々を知っているような口振りだ。
まさか反対されるとは思っていなかった美羽は困惑が隠しきれなかった。
「どういうこと? 何か知ってるの?」
菜緒は頷かない。
「なんも。……なんも知らない。でも、奈々は知られる事を望んじゃいないはずだから」
独り善がりにも聞こえる言葉を残し、横にある窓から白く染まっていく世界をただただ物憂い気に眺めた。
――ああ、この目、雰囲気、奈々に似てる。
ふと彼女を連想させる親友の姿に、涙が込み上げてくる。親友同士似てくるという現象はありがちだが、それとはおそらく別だった。
前までの菜緒とは違う。
その変化をもたらしたのは、恐らく『死』だ。
奈々の死。それは多分、小さくも大きく、やがて津波になるような出来事だった。
「奈々は死んだのに、どうして山田ハナが生きているのか……」
一番の謎を口にした菜緒は、それきり口を閉ざしてしまった。
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