モノローグ+プロローグ
「雪は、全てを覆い隠す」
ふと、そんな言葉が浮かんできたのは何故だろう。
過去に蔓延る罪悪感を消してほしかったのかもしれない。
これから起こる事を予知しているからこそ、自分の全てを雪に攫われたかったのかもしれない。
「……そう」
全てを無くしてほしかった。
誰かの罪も、自分の罪も。
「嘘も本当も、」
存在していた過去も、存在するはずだった未来も。
「――――何もかも」
不意に視界に映った白いものを認識した時、思わず私は、ホームから線路へと足を踏み出していた。
これで、全てが終わるはずだから。
この白雪は、到底祝福の花吹雪には見えなかった。降らせるあの分厚い鈍色の雲の方が、自分にはお似合いだと嘲てみる。
汚れた白は、白とは呼ばない。
薄汚れた白を、人は灰色と呼ぶんだ。
だから今日の色は、あの暗澹たる雲の色にしよう。
人の罪を隠すには最適な色だから。
白も黒もつけずに終わらせよう。
それが、一番幸せな事なんだと思うの。
みんなみんな、罪人で。
ぜんぶぜんぶ、白黒で。
そんな世界じゃないって証明する為に、私はこのまま淘汰される。
――それでいい。それが、いい。
「ねぇ、そうでしょう? ハナ」
少女を轢き殺す音がホームにいる人間の耳に届く。
劈くようなブレーキ音と、刹那に上がる悲鳴。そして金切り声に交じり、一呼吸置いて響く無機質なカメラのシャッター音。
駅員が人垣を掻き分けてその惨状を見た時には、頭を抱えて舌打ちをする。
そんなものなのだ。人の命なんてものは。
最期はこうあるべきなのだ。周りの人間に悲しまれず、恨まれながら死んでいく。
@nuknown
[それが自分にはお似合いなのだと、彼女は生前に語った]
■□■□■
SNSが普及した昨今では、それまでとは世界の様相を変え、人と人とを繋ぐコミュニケーションの形態すらも変えた。
どこであっても、スマートフォンに取り憑かれたかのように画面に食いついていて、忙しなく指を動かしている。
霜村美羽もまた、そのうちの一人だ。
下校の電車の中で、ツイッターのタイムラインを親指で上から下へとスライドさせていた。
美羽のフォローした人達の作るタイムラインの情景には写真が多い。それは決して日常の置き場として機能しているとは言えず、そこは実際の生活風景よりも水準の高い、華やかさを前面に押し出した見栄のはり場と化していた。
――リア充アピールに必死だこと。
そんな皮肉を指先に乗せて画面をスクロールする。最寄駅で下車し、駅を出て徒歩十分程度で一軒家の自宅に着く。その間もツイッターを見て歩くのが日課だった。
三月の夕方といえば、夜となんら変わらないくらいに暗い。澄んだ空気が月と星の輝きを伝えてくるくらいに、辺りは静かだった。
雪を踏みしめる感覚を味わいながら歩調を緩め、やがて立ち止まる。高校進学と同時に離れてしまった親友のおかしなツイートが目に入ったからだ。
@山田ハナ
[このアカウントの持ち主、栄祝奈々は死んだ。では問題です。今この文字を打ち込んでいる、山田ハナとは誰でしょう?]
遠くで鳴る十七時を報せる音色が空気に溶けていく。いつもは認識さえしないようなその音楽が、不思議と耳についたのは、きっと彼女のおかしな呟きのせいだった。
「奈々が、死んだ……?」
子供を神隠しにでも遭わせてしまいそうな防災行政無線と相まって、余計に不気味に聞こえる。
しかし山田ハナ――本名栄祝奈々は、本来こういう人間だ。ツイッターに投稿する内容といえば、日々の活動報告や女子高生らしい自撮り写真ではなく、文字だけの冗談じみたものばかりだった。
だからこれも。いつものおふざけなのだと思い、奈々の親友である霜村美羽は呟きの一つして深く考えずに流した。
次に目に付いたのは、同じ学校の友人がほんの数秒前に投稿したものだった。
朝の電車を待っている時の自撮り写真と、人身事故があり人が溢れかえっているホームで撮った写真の二枚が添付されている。その落差はすごいもので、一枚目の笑顔が二枚目ではすっかり真顔と化している。
極端な表情の変化にジワジワと笑いのツボを刺激させられた。
「わかるなぁ、これ」
登校中に人身事故が起きた経験がある身としては頷ける。待たされる事で苛立ちを覚え、更に人のそういった感情が周囲の人間にも伝染していく。その負の連鎖に呑まれれば最後、巻き込まれて心の平穏が脅かされる。
『渦中にいる時、全容の把握は愚か自分の事すらも客観的には見れない』
中学時代、奈々が言った。
どういうシチュエーションで言われたのかは覚えていないが、竜巻に喩えて表現された時には「確かに」と納得した覚えがある。
彼女には人を惹きつける不思議な魅力があり、美人で成績も良いともなればそれはそれはかなりの人気者だった。
けれど、彼女はどこか危うい。
過去、彼女は人が死んでも、誰かの感情に呑まれる事なく、静謐で精巧にできた人形のような顔に微笑を湛えた。
彼女は人の死に鈍感だ。悲しむどころか、奈々は死体を笑って見つめるような人間だった。
この異常性は、美羽しか知らない彼女の本当の姿だった。
「凡人には理解できないだけなのかも」
回想も程々に前方へ視線を移す。双眸が映すのは色彩乏しいモノクロの景色だった。
高校に入学してから初めて迎えた冬。三月になっても雪は降り続ける。東北の公共交通機関は小雪程度で止まるような脆弱な交通網でもなく、電車は今日も人を運んだ。
しかし遅延があったのは、ツイート通りに人身事故があったからだ。
電車に飛び込んだのは女子高生だったらしいが、肉塊になり果てたソレが誰かなんて判りもしないだろう。ただでさえ人が目の前で死ぬ事さえ衝撃的な出来事なのに、顔見知りだったとすれば大層ショッキングな事件である。
自分に関わりがないからこそ、他人事の様に軽々しく口にできるものもある。
美羽にとってもツイートをした人達にとっても、これがそれに該当する。
『人が死んだって、所詮誰にとっても無関係なんだよ』
あまり抑揚がない静かなソプラノの音色。
『だって、死んだのは自分じゃないでしょう? 家族だってね、他人なんだよ。自分の命が奪われたわけじゃないもの。自分だけの命が、自分のものなの』
奈々の声が蘇る。何かそう思わせるような過去があったのかは分からないが、ネガティヴな言葉だと思った。
『まあ、自分が死んだところで、死んじゃってるなら無関係よね』
その言葉の意味が、
『私が死んでも私には関係ない。死んだら何も遺らないもの』
――――美羽には理解できなかった。
彼女の事は、美羽に限らず誰も理解できなかった。
不可解なものや自分と違う感性を持つ人物を、人は安易に「変」と言う。
だから彼女は、短絡的な表現を用いれば「変人」と称されるような人物だった。
けれど、その歪んだ死生観を隠しながら、日常生活に溶け込んでいたのだ。
彼女の正体は、美人で頭が良く、人に優しい人気者なんかじゃない。
「奈々は……」
続く言葉は出てこなかった。不謹慎な人。異常者。冷徹人間。人格破綻者。偽善的。そんな罵り文句さえも正確ではない気がしたのだ。
懐古しながら歩いていると、自宅まではすぐだった。
白い吐息をまといながら玄関に踏み入れる。すると、ちょうど母が廊下にある電話の受話器を置こうとしていたところだった。
「ただいま」
気配に気づかなかったらしい母は、肩を大きく揺らしてから、間を置き、おもむろに振り向いた。
顔が引きつっていて、何か只事ではない事を知らされた直後のようにやや放心状態だ。
「おかえり」とさえも言ってもらえず、美羽は小さく首を傾げながらマフラーを外した。
「ママ?」
「あ、あぁ……おかえりなさい」
わずかに開いた口から漏れるように、掠れた声がやっと返ってきた。しかし挙動は不審で、何かを言いあぐねているように見えた。右手が左手をさすっている。自分を落ち着けるための行為だと、美羽は知っていた。
「どうかしたの?」
なんでもないようにローファーを脱ぎながら、軽い口調で訊いてみる。
「……落ち着いて聞いてほしいの」
その前置きは、酷く重く感じた。早くその内容を聞いて、なんだそんな事かと安心させてほしい。
自分にとって良くない事だろうというのは、もう前置詞として提示されたから。ならばせめて、早く聞いてしまいたかった。
「今、奈美さん――奈々ちゃんのお母さんから電話があったの」
言いながら、母は背を向けリビングに入っていく。ついて来いという事らしい。
少しでも暖かい場所で心を落ち着けようとしたのだろう。それに従い美羽もリビングへ行くと、母はソファに腰掛けて膝頭を力強く握っていた。そのせいでスカートに皺が寄っている。
テーブルを挟んだ目の前に座ると、左耳に夕方のニュースが流れてくる。緊張で母の息遣いも聞こえてくるような、聴覚が誇張気味になる感覚に陥った。溜息をする前のように大きく息を吸い込むと、母は震えた声を絞り出す。
「奈々ちゃんが……」
耳に届いた名前に、心臓がどきりと鳴った。息が詰まるような感覚に耐えていると、母の目から涙が溢れ落ちる。
「奈々ちゃんが今朝、亡くなったって……」
信じられない。それが一番初めに抱いた感想だった。
次に思ったのが「ありえない」だ。
「だって奈々は」
――奈々のアカウントは、さっきまで生きていた。
山田ハナ、つまり奈々のアカウントの呟きを思い出す。あのツイートの内容は本当だった。
だとしたら、山田ハナとは一体何者なのだろうか。
『今朝八時頃、南町駅で人身事故がありました』
BGMにもなれなかったテレビから流れる音声が、厭に耳に飛び込んできた。
今朝の電車を止めた人物、人身事故を起こしたのはつまり。
「奈々、なの……?」
親友の死を告げるニュースを聞きたくなくて、美羽はリビングを飛び出し階段を全速力で駆け上がる。鼻の奥がツンとして視界が滲み出す。自室の扉を後手に閉め、苦しくなった呼吸を必死に落ち着けようとした。
「そん、な……嘘だよね……? どうして奈々が……自殺? 事故? なんで……なんで……」
震える手で心臓あたりの服を鷲掴みにした。鼓動が制服越しに伝わってくる。項垂れながら整えるわずかに暖かい呼気が、手の甲を撫でた。
物理的に生きている実感を得ても尚、まるで現実味はなかった。まるで一人称視点の映像を見ている気分だ。
急いでポケットからスマホを取り出し、奈々のアカウントを探す。スマホ自体にパスコードロックをかけているため打ち込むが、慣れているはずなのに焦りで打ち間違える。三度目でやっと解くと、すぐに「山田ハナ」と検索した。
やはりあれは、幻覚でも夢でも妄想でもなかった。
紛れもない事実が、画面に張り付いていた。
「このアカウントの持ち主、栄祝奈々は……死んだ……。では、問題です」
ふざけた文章だ。人の死の直後にクエスチョンを提示するような、戯けた人物がいる。
「今この文字を打ち込んでいる、山田ハナとは誰でしょう……」
このアカウントで呟いている人物は誰なのか。
「山田ハナは、奈々だったんじゃないの?」
頭の中で何度も何度もツイートの内容を反芻した。
けれど、謎は謎のまま謎めいている。
深まるだけの疑問を無視して終止符を打つ事なんて到底できなかった。
今まで整然と積み上げてきたものが、脈絡のない大地震によって一瞬で瓦礫にさせられてしまった心には、喪失感を味わわされる。
信じられない。信じたくない。
本当なのに、本当であってほしくない。
奈々の事だ。いつかひょっこり姿を現して、何事もなかったかのように、日常を与えてくれそうに思えて仕方がなかった。
――だって奈々は、そういう人だから。
「奈々は……自殺なんかしないよ」
それが彼女への冒涜だとは気づけずに、美羽は止める事のできない涙を溢しながら、喉の奥が締まる感覚を引き連れてベッドに倒れこんだ。
「山田ハナは一体誰なの。奈々は、どうして死んでしまったの……」
うつ伏せになったまま、鈍く暗闇を照らす画面の光へただ呆然と、悲しみに満ちた視線を投げかけた。
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