少年期(その二)
中学校三年生になり、初夏に修学旅行があった。
修学旅行の夜は危険だ。早く寝た人が犠牲者となる。色々なイタズラをされて写真を撮られるのだ。両方の鼻の穴にポッキーを入れられたり、瞼に目の絵をペンで描かれた写真などが、修学旅行後の教室で公開され、しばらく笑い者にされる。それは先輩たちからも聞いていたし、一年前、中学校二年生の時にあった宿泊学習でもすでに実証されているのだ。
それで、僕はその犠牲者にだけはなりたくないと思い、一日目は徹夜に近い状態で耐えた。しかし、その眠気の中の朦朧とした状態が、僕に最大のミスを犯させた。
二日目の夜になり、同じ部屋になった八人の男子のうち、既に四人は前日からの闘いに耐えられず、眠気に負けて眠ってしまっていた。その結果、早々にイタズラ写真を撮られていたのだが、僕を含めて残りの四人はなかなかと耐えていた。
そのうちの一人、僕が一番仲良くしていた由人が、「一人ずつ好きな人を絶対に言うことにしようぜ!」と言い出した。
修学旅行の夜は、なぜかこういう話になりやすい。眠気覚ましにうってつけの話題なのだろう。
起きている四人のうち尚哉は、同じクラスの疋田さんと交際していると皆が知っていたので面白くもないのだが、僕ともう一人起きていた堅太は口を割ったことがなく、由人はどうしてもこの二人の好きな人を知りたいらしかった。
尚哉はノリノリで、「俺、美奈子!」と言ったが、みんなは冷めていて、由人が尚哉に「お前は黙っとけ!」と大声でツッコミを入れた。
そのことで笑いが起き、言い出しっぺの由人が覚悟を決めたのか、いきなり立ち上がったかと思うと、「俺は田中が好きだ!」と叫んだ。
僕は由人と仲が良かったので知っていたのだが、他の二人は知らなかったらしく、驚いて、「え? そうなの?」とハモった。
堅太が、「田中って、そんなに可愛くはないよな?」と僕に同意を求めてきた。僕が答える前にすかさず由人が、「十分可愛いだろ!」と反論したが、今度は尚哉が、「そうでもねえよ!」と言った。
僕も正直そう思っていたが、田中さんはとても明るくて、誰とでも仲良くできるタイプの、好印象の人ではあった。それで、由人には常々、「良いと思う」と言ってきたのだ。
由人は不満げだったが、自分の好きな人をカミングアウトしてすっきりしたのか、今度は僕に好きな人を教えろとしつこく迫ってきた。
僕は学校の行き帰りも、教室にいる時も、ほとんど由人といつも一緒にいた。はたから見ると親友と映るだろう。僕も由人を親友だと思っている。由人に言わせれば、親友なら何でも隠さず語り合うものだそうだ。だから由人は、自ら田中が好きと僕にも話したのだろう。でも僕は性格上それができなかった。いや、それはもしかすると、リプレイス能力をお母さんとお姉ちゃんに知られて以来、家族にさえ疎外感を感じるようになり、どんなに親しい人も身近な人も信じられなくなっているからなのかもしれない。
まぁ、理由はともかく僕は、由人に好きな人を聞かれても一度も答えたことがなく、由人にはいつも、「友達甲斐のないやつだよな!」と言われていた。
僕がなかなか答えないので由人は、「お前はほんとにノリが悪いよな! でも今日は絶対にカミングアウトしてもらうからな!」と、僕を観念させようとした。そして、「よし。外堀を埋めるぞ!」と言って、標的を堅太に移した。
由人が、「俺も言ったんだからお前も言えよな。お前が言えば優馬は言わざるを得なくなるからな。頼むぞ!」と堅太に迫る。
堅太も覚悟を決めたらしく、「絶対他には誰にも言うなよ」と何度もしつこく念を押してから、「三組の長瀬さん」と白状した。すると尚哉が、「え? 長瀬さん? あの人、二組の岡村と先月から付き合ってるよ」と言った。堅太は、「え~そうなの? ショックから立ち直れね~」と、布団に倒れこんだ。由人が嬉しそうに、「はい! 玉砕!」と叫んだ。
とうとう残りは僕だけになり、三人からの執拗な追及が始まった。僕は由人にさえ言えないことを、まして堅太と尚哉がいる前で言えるはずもなかった。それで当時人気だったアイドルの名前を言ったが、「リアルを言えよ! そんなのダメに決まってるじゃん!」と却下された。
これはどうしても何か言わないと引っ込みがつかない状態だと思った。いつもならそれでも言わなかっただろう。でも、寝不足でまともな思考力が働かなかった。本命の名前は絶対に言いたくないと思っていたので、それは避けたのだが、みんなが納得しそうな人物を適当に言えば、何とかこの場を乗り切れると思ってしまった。それで、先程言ったアイドルに似ていると噂されていた、二組の竹仲さんの名前を出した。
尚哉がまた、「だから! リアルを言えって言ってんだろうが!」とツッコミを入れたが、僕が黙ったままなので本気と受け取ったらしく、一同がドン引きしているようだった。
由人がかなり冷めた口調で、「お前さ、自分の顔、鏡で見たことあんの?」と僕に聞いた。「余計なお世話だ! 何でだよ!」と言い返したものの、理由はわかっていた。
竹仲さんは誰もが可愛いと思う高嶺の花なのだ。しかも本当かどうかは知らないが、今までにたくさんの告白を受けてきたにもかかわらず(その中にはかなりかっこ良い先輩も含まれていたが)、全て断っているということで有名な、前人未到の人物なのだ。
堅太が先程の自分の憂さを晴らすように、「はい。最初から玉砕!」と嬉しそうに言った。尚哉は、「まぁ、確かに憧れるわな」と呟いた。それを聞いていた由人が、「田中にチクっちゃろ!」と言って、「やめろー」と叫んだ尚哉と、ふざけて取っ組み合いを始めた。それがエスカレートして枕投げになり、その話はそのまま終わった。
修学旅行が終わり、例のイタズラ写真が教室中を賑わわせていた。僕は不覚にも三日目の帰りのバスで寝てしまい、結局僕の、鼻からポッキー写真も出回ることになってしまった。
そんな、まだみんなが修学旅行の余韻で盛り上がっている中、僕は同じクラスの野際さんから、「藤見くん、奈穂のこと好きなんだって?」と聞かれた。野際さんのニヤニヤした感じから、これで玉砕何人目かしら……という、意地悪心が見て取れた。
僕は、「いや、好きとは言ってないよ。素敵だと思うっていう意味で言っただけだよ」と野際さんに答えたが、野際さんは僕の答えなどどうでも良いらしく、「奈穂ってホントかわいいもんねー」と言いながら行ってしまった。
野際さんが知っているということは、もうかなり広まっているに違いない。僕は心底、修学旅行の夜に判断を誤ったことを後悔した。
野際さんは広め魔なので、流石にみんなから警戒されているのだが、その野際さんが知ったということは、学年中に広まると思って間違いない。しかも、竹仲さんが好きという格好のネタだ。みんなが面白がって食い付くに違いない。そう考えると、本当にブルーになった。
あの三人のうち、一体誰が秘密を漏らしたのか気になったが、犯人探しをしても解決するわけでもない。まぁ何となく目星も付いたが、追求したところではぐらかされて終わりだろうと思い、それ以上考えないことにした。それよりも、僕の本命にこの噂が伝わることの方が気になった。
更に数日後、恐らくこの噂が学年中に広まった頃、僕は不良グループの一人、同じクラスの高林に呼び出された。授業が終わったら第二グラウンドの体育倉庫裏に来いとのことだった。
僕が通っていた中学校の不良グループは悪名高かった。特に、二年生の滝崎というやつがヤクザの息子らしく、学年を超えて幅を利かせていた。
実際ケンカも強いようで、三年生の不良連中も滝崎には勝てず、二年生でありながら不良グループの頭だった。
僕は常に不良グループとは関わらないように気を張っていた。極力、同じクラスの高林にも接触しないようにしていたし、まして滝崎とは目も合わせないようにしていた。
それがなぜ呼び出されたのかわからない。僕はその後の授業に全く集中出来ないまま放課後を迎えた。
確かに僕にはリプレイス能力がある。どんなに殴られても、後で傷は動物に引き渡すことはできる。お父さんも悟おじさんの代わりに殴られた時、恐らくそうしたのだろう。でも、殴られている最中が痛くもかゆくもない訳ではない。それに顔を殴られたらリプレイス能力が使えない。顔の傷やあざが翌日消えていたら、流石に不自然過ぎるからだ。そのあたりは普通の人間なので憂鬱だった。
逃げようかとも思ったが、悟おじさんにお父さんが言ったという言葉が頭をよぎった。その言葉とは、「行かないといつまでも、何回でも呼び出されるぞ。それに相手を待たせたら、それだけ腹を立てて、ひどくやってやろうと思うだろうから、今回、行った方が良い」という言葉だ。それで、逃げるのはやめた。
高林は僕を見張るように言われていたらしく、僕の後をついて来ていた。どのみち、逃げられはしなかったようだ。
呼び出された第二グラウンドの体育倉庫裏に着くと、やはり滝崎がいた。そして、いつもつるんでいる六人。高林と合わせて七人が勢揃いしていた。何もフルメンバーを集めなくても良いのにと思った。
三年二組の柴田が僕に言った。
「藤見。お前さ、滝崎さんの女に手ぇ出すなんて、バカなのか?」
僕は意味がわからなかった。どんな女子とも付き合ってもいないし、誰にもちょっかいをかけた覚えすらない。僕は、「悪いんだけど、何を言われてるのかわからない」と答えた。
柴田は、「ふざけんじゃねーぞ、コラ!」と凄み、「お前、竹仲さんに『お前のことが好きだ。俺と付き合え』ってしつこく言ったんだろーが! 竹仲さんも迷惑してんだよ!」と言った。
何だそれは? どうしてそんな話になっているんだろうか?
噂話に尾ひれが付いた結果なのか、こいつらが退屈しのぎに話をでっち上げて楽しんでいるだけなのか、僕にはわからなかった。ただ、かなりマズい事態なことは確かだ。
柴田が続けた。
「滝崎さんと竹仲さんは先月から付き合ってんだよ! それなのに手ぇ出しやがって、お前どう詫びんだよ!」
周りの奴らはニタニタと笑っていた。しかし、滝崎は笑っていなかった。尾ひれのついた噂話を本気で信じているようだ。
恐らくこれ以上僕が何を言っても無駄だと思った。こいつらに聞く耳があるとも思えないし、第一誰かを殴りたくて仕方ないのだろう。こんなチャンスを逃すはずはない。でも、否定しないわけにもいかないので僕は、「竹仲さんにそんなこと言ってないよ。もう一度本人に確かめてほしい」と言った。
それを聞いた滝崎が、「ガチャガチャうっせーんだよ!」と言いながら、いきなり僕の腿を蹴った。強い痛みと衝撃が腿に走り、僕は地面に倒れこんだ。
そこから先はただただ、顔と腹をガードする形で丸まっているしかなかった。複数の足が僕のいたるところを蹴り、踏みつけた。
いつしか痛みも感じなくなるほど、蹴り続けられたと思う。恐らく数分のことなのだろうが、何時間にも感じられた。
滝崎が僕の髪の毛をつかみ、地面から無理やり僕の顔を上げた。滝崎は拳を思い切り振りかぶった。殴られると思ったが、滝崎は寸前で拳を止め、「顔はバレるから殴らねえ」と言ってニヤついた。そして、「明日、十万持ってこい。そしたら考えてやる。持ってこなかったら、毎日こうなるからな。覚悟しとけ」と言って、乱暴に僕の髪の毛から手を離すと、全員でケラケラと笑いながら去って行った。
僕はしばし、丸まったまま動くことができなかった。恐怖から解放された安堵感で痛みが至る所に走り出したし、悔しさや、怒り、やるせなさなどの様々な感情が、頭の中でごった返していた。
三十分程経っただろうか。僕は全身に痛みを感じながら立ち上がり、制服についた足あとや塵をはらい、鞄を拾い上げて、校門に向かいヨロヨロと半歩ずつのペースで歩き出した。
校門を出た所で、由人が後ろから走り寄って来て、「大丈夫だったか?」と僕に話しかけた。
高林に呼び出された時、由人は近くにいて聞いていたらしく、「行かないほうが良い」と言った。それでも僕が行ったので、心配して学校内で待っていたようだ。
僕は由人の心配に、素っ気なく、「ああ」とだけ答えた。
「その歩き方、大丈夫とは思えないんだけどな……。でも、何であいつらに優馬が呼ばれたんだよ」
由人が好奇心や、からかい半分で言っている訳ではなく、本当に心配してくれていることは分かっていた。でも、僕はこういう時に心を開けない。そんな自分が嫌だったが、できないものはできないのだ。
僕は返事もせず、黙々と歩いた。由人はそれ以上何も言わなかったが、僕の家までずっとついて来てくれて、「じゃあな。話す気になったら、何でも相談してくれよ。友達じゃんか」と言って帰って行った。
家に帰ると、まだお母さんもお姉ちゃんもいなかった。お風呂場で服を脱いで確かめてみると、首から下は至る所にあざができていた。リプレイス能力は心の傷は引き渡してくれない。身体の傷を癒したところで、心のボロボロさ加減を考えると、本当の意味で癒される気がしなかった。こんな時はリプレイス能力なんて、何の役にも立たない。
僕は着替えると、自分の部屋に布団を敷いて、頭から布団をかぶって丸まった。
今回の件が何度も何度も頭の中に押し寄せてくる。どうしてこんなことになってしまったのか。修学旅行でのミスを呪ったところで何の解決もしないことはわかりきっているのだが、人間どうしても過去の失敗を思い悩んでしまう。
あの時、最後まで言わなければ。あるいは普通に本命の名前を言っておけば、逆に恋が成就したかもしれない。
広めたヤツが許せないという気持ちにもなった。人はどうして他人の恋愛話が大好きなのか。余計なお世話だと思う。こんなに広まらなければ、こんなことにはならなかった。
竹仲さんにも疑問を感じる。なぜ、僕が言ってもいないことを滝崎に言ったのか。それとも竹仲さんは関係ないのか。じゃあ、一体誰が、僕が竹仲さんに、「お前のことが好きだ。俺と付き合え」ってしつこく言ったと噂を流したのか。
滝崎のグループは本当に頭にくる。滝崎も一人で来れば良いのに、所詮集団でしか動けない弱虫野郎のくせに……。
そんなことを何度も何度もぐるぐると考えていた。
お母さんが帰って来て、ご飯ができたと声を掛けに部屋に来た。僕は布団から出ずに、「調子が悪いから、ご飯はいらない」と伝えた。お母さんは心配したが、僕が、「ちょっと休めば良くなると思う」と言うと、「調子が戻ったら食べられるように、サランラップをかけてテーブルに置いておくからね」と言って部屋を出て行った。
いつまでも、同じことを無限ループで考えてしまう。滝崎は十万円を持って来いと言った。もちろん持って行く気はない。第一そんな大金持ってもいないし、払ったところで解放されるどころか、いつまでもカモにされるだけだろう。ただ、持っていかないと、本当にいつまで殴られ続けるのだろうか。いつになったら、そしてどうなったらあいつらは、僕から手を引くのだろう。
明け方近くまで、色々なことをぐるぐると考えていたことは覚えているが、いつの間にか眠ってしまっていたらしく、気がついた時には答えが出ないまま朝になっていた。今日は学校を休もうかとも思ったが、数日休んだところで、次に行った時に滝崎達に呼ばれるだけだろうし、このまま不登校になってもお母さんに心配をかけてしまう。
家族には知られたくない。介入されたくないという思いがあった。それはプライドゆえか、気まずさゆえかわからなかったが、とにかく知られたくなかった。
昨日の給食以降何も食べていないので、お腹は空いているはずだが、食べる気がしなかった。お母さんが、「具合は少しは良くなったの? 昨日の夜ご飯も食べてなくて、朝も食べないって、大丈夫なの?」と心配していたが、僕は、「大丈夫」とだけ答えて家を出た。
学校に着くまでの間も、行くのをやめようかと何度も思ったが、足を止めるわけでもなく、そのうち学校に着いてしまった。
昨日に引き続き、由人がすぐに近づいてきて、「優馬、大丈夫か?」と聞いてきた。返事をしない僕に由人は、「先生に言った方が良い」と言ったが、僕は、「いや、自分で何とかする」と答えた。由人は、「自分で何とかできる相手じゃないだろ? お前が話してくれないからよく分かんないけど、かなりヤバい状況なんじゃないのか?」と言う。
由人の言う通りかも知れない。僕は出口の見えない闘いに足を踏み入れていると思う。
高林がさっきからこっちを見てはニヤニヤとしている。どうせ滝崎に、「藤見のやつ、ちゃんと来てますよ。また放課後呼び出しますか?」とかなんとか言いに行くに違いない。憂鬱なまま、やはり今日も授業には全く集中できなかった。
給食時間の後の昼休み、いきなり滝崎とメンバー七人が僕の教室に入ってきた。教室内が一瞬ざわついたが、すぐにシーンと静かになった。滝崎はその状態でも堂々と、「十万持ってきたか?」と僕に聞いた。僕は、「持ってきてない。今後も持ってくるつもりもない」と答えた。滝崎の顔が怒りに震え、「ちょっと来いや!」と言って、僕の胸ぐらを掴み、僕は廊下に連れ出された。
「滝崎さん、こいつ半殺しまでボコっちゃいましょうよ」と誰かが言うのが聞こえた。滝崎はそれには返事をせず、僕に言った。
「おい! お前死にたいのか。俺が誰だか知ってるよな? 人の女に手ぇ出しといて、迷惑料も払わねえのか、コラ!」
僕が黙っていると滝崎は、クックッと笑い出し、「良い度胸してんなお前。じゃあ、お前にチャンスをやるよ。今日から毎日、昼休みにこの廊下で腕立て伏せ百回と腹筋百回やらせるからな。そんで一ヶ月後に俺がお前の腹を思い切りぶん殴ってやる。そん時微動だにしないで耐えられたら、今回俺の女に手ぇ出したことは水に流してやる。但し、十万は別だかんな。それは迷惑料だから払えよ。絶対持ってこいよ。持ってこねーと、別口でボコるからな!」と言った。
柴田が、「滝崎さんに殴られて立ってるやつなんて見たことないっすよ」と言って面白がっている。
突然、高林が僕のくるぶし辺りを強く蹴って、僕を廊下に転ばせ、「さっさと腹筋始めろや!」と怒鳴った。倒れた僕を残りのメンバーが蹴ってくる。
廊下には遠巻きに沢山の人が集まって、僕を見ていた。誰も止めようとしない。先生を呼びに行くでもない。ある者は顔をしかめて見ているが、ある者はニヤニヤと笑って見ている。
もう腹筋と腕立て伏せをやらないと収まりがつかない状況で、僕は観念した。屈辱感、怒り、悲しみ、色々な思いに涙が溢れ出てきた。メンバーの一人、吉永が、「こいつ泣いてるぞ! 泣きながら腕立てしてやんの! うけるー」と大声で言った。メンバー全員が、わざとらしく大きな声で笑っている。
僕に腕立て伏せと腹筋をさせ終えると、最後に滝崎が、「あ、十万持ってこなかった分のお仕置きは放課後な」と言って去って行った。
滝崎達がいなくなっても、誰も僕に近づいてこなかった。みんな本当に冷たい。でもきっと心配されて声をかけられたところで、僕も受け入れる心はないと思う。僕はうつむいたまま教室に戻り、自分の席に座った。
五時間目が始まった時、僕は授業に出なくて良いので、児童相談室に行くようにと、教科担当の先生に言われた。高林は振り返り、言ったら殺す! とでもいう表情で僕を睨みつけていた。
児童相談室に行くと、教頭先生と、担任の加藤先生がいた。話によると、どうやら見かねた由人が先生に伝えに来たらしい。僕はどうしたら良いのか非常に悩んだが、由人が言っていた、「自分では解決できる問題じゃないだろう?」という言葉を思い出し、恥ずかしい気持ちを抑えながら、洗いざらい正直に話すことにした。
状況を聞いて、教頭先生が口を開いた。
「藤見君ね。困るんだよね、学校で問題を起こされると。これは親御さんとよく相談して解決して下さい。基本は個人間の仲違いは自分達で解決しないとね」
僕は唖然とした。助けてくれるかもしれないと期待した僕が馬鹿だった。担任も、教頭の横で目をつむって頷いているだけだ。結局学校は、波風を立てたくないだけなのだ。特に滝崎はヤクザの息子で、面倒に巻き込まれるのはゴメンだという態度がありありだった。
滝崎には三歳年上の兄貴がいる。噂では滝崎の兄貴がいた時も、滝崎の兄貴が不良グループのリーダーで、酷く痛めつけられたヤツがいたそうだ。それが発覚し、滝崎の親が呼ばれたそうだが、その際父親が手下のチンピラ二人を連れてきて、学校が大変なことになったらしい。当時の校長は滝崎の父親に、「うちの息子はやってないって言ってるのに、どうして信じないんだ。本当にやってたら、俺が息子に落とし前をつけさせる。でも、もし本当にやってなくて、いちゃもんつけられてるだけなら、あんたどう落とし前つけるんだ?」と脅されたという。そして呼ばれた証人の子達も、滝崎の父親とチンピラ二人の威圧感に耐えかね、「何も見てません」と言ったそうだ。結局、校長が指を詰めたとかガセ情報が飛び交ってはいたのだが、収束させるのが大変だったのは事実のようで、それ以来滝崎の家族に対して学校は、当たらず障らずのスタンスを保っているらしい。
そう、学校は面倒に巻き込まれたくないだけだ。所詮大人は信用できないと、この時強く思った。
教室に戻り、放課後を迎えた。由人が、「今日は絶対に行くな。先生達がなんとかしてくれるんだろう?」と聞いてきた。僕は、「いや、助けはない。逃げても無駄だし、打つ手もない」と答えた。
由人は本当の親友だと思う。僕の側が常に親友として行動していないことに、自分で自分が腹立たしく思った。由人には申し訳ないのだが、今は誰にも心を開けなかった。
覚悟を決めて再び第二グラウンドの体育倉庫裏に行った。やはり、滝崎達はフルメンバーお揃いだった。
着くなり柴田が、「滝崎さん、こいつホントにムカつきますよね」と言った。
僕がどうしたって、こいつらはムカつくのだろう。
吉永が僕の後ろから背中に蹴りを入れた。勢いで倒れこみ、そのまま昨日と同じく全員にボコボコに蹴られた。うずくまっている僕に滝崎が、「今日はお前にお土産をやるよ」と言った。
柴田は、「滝崎さんマジっすか? さすがにヤバくないっすか?」と焦っていたが、滝崎は気にした風もなく、「まぁ、腕なら大丈夫だろ」と言った。
他のメンバーは、また楽しそうにニタニタと笑っている。滝崎はタバコを取り出し、それに火をつけると、「根性焼きだー」と楽しそうに叫んだ。
メンバーに押さえつけられ、僕は腕を捲り上げられた。そして滝崎が、僕の右手の、力こぶの辺りにタバコを押し当てた。ジューと小さな音がなり、肉の焼ける匂いがした。物凄く熱くて痛かった。僕は思わず、「ギャー!」と声を上げた。滝崎は三十秒ほど押し当て続けた。そして、「さあて、何個跡が付くかなー。嫌なら明日は十万持ってこいよ!」と言っていなくなった。
もう僕は死にたいと思った。この地獄から抜け出せる気がしなかったからだ。誰にも相談できない。大人も当てにならない。警察はどうだろう? でも、ヤクザ相手だ。もしかしてお母さんやお姉ちゃんに、報復で危害を加えられたらどうしよう。親には知られたくない。ひとり親で頑張ってくれているのに、余計な心配をかけたくない……。
物凄く痛む右手を抑え、僕はしばらく立ち上がることができなかった。
心配して、今日も由人は待っているかもしれない。そう思うと、校門から素直に帰る気になれなかった。由人には悪いが、誰とも会いたくも話したくもなかった。それで、グラウンドのフェンスの破れから道路に出た。
まともに思考が働かない。何もかも八方塞がりのような気がする。怒りや憎しみ、悔しさや屈辱感、そういった様々な感情も、僕の思考を停止させた。
とにかく、身体の痛みが取れれば少しは良くなるかもしれない。昨日までは、身体と心の傷は連動していないと考えていたが、今日のこの状況にまで追い込まれると、もうなんでも良いから、藁にもすがる思いになっていた。少しでも楽になりたい……そう考えて、久しぶりにリプレイス能力を使うことにした。
僕はリプレイス能力を使う時の為に、中学二年生の時に半年程かけ、家の周辺で、噛みついたり吠えて近付けない犬と、人懐っこい犬を調査し、把握していた。
今いる所から一番近い犬のところにまず行ってみたが、散歩中なのか犬がいなかった。それで、少し離れたもう一軒の家に行ってみた。そこにはちゃんと犬がいた。僕は家の人に見られないことを確認し、犬に、「ごめんな」と謝ってから、頭を撫でるフリをしてリプレイス能力を使った。僕の手のひらが光った。僕は、徐々に身体の傷が癒されていくのを感じた。この犬は健康体だったようだ。
身体の傷が癒されると、少し冷静に考えることができるような気がした。思った以上に、身体の傷と心の傷は連動しているのかもしれない。
いつもの帰り道と反対方向に来ていたし、あえて、普段通ったことのない道を歩いてみた。もしかすると、気分が変わって良いアイデアが出るかもしれない。
途中、初めて見る公園があった。それほど大きくはない、住宅街の中の公園だった。家にも帰りたくなかったし、僕はその公園のベンチに座り、色々と考えてみようと思った。
十万円の件、屈辱的な筋トレの件……考え始めたその時、後ろから突然、「本当にごめんなさい」と言う声がした。驚いて振り返ってみると、それは竹仲さんだった。
僕は竹仲さんと一度も話したことがなかった。それで、突然話しかけられて驚いたことと、謝られてもなんと返事をして良いのかもわからなかったこととで、すぐに返事ができなかった。でも、謝ってくるということは、やはりガセネタの出処は竹仲さんなのだろうか? 僕が何も返事をしないので、竹仲さんが慌てたように続きを話始めた。
「私のせいで酷いことになってしまって、本当にごめんなさい。でも私、何も知らなかったんです。滝崎から聞いて初めて知りました。本当です」
僕は竹中さんの話がどういう意味か全く分からなかった。滝崎から聞いたとはどういうことなのだろうか? よくよく話を聞いてみると、こういうことだった。
竹仲さんも、僕が竹仲さんに好意を抱いているという噂は、野際さんを通して聞いていたという。しかしもちろん、「しつこく付き合えと言われた」なんて、滝崎に言ったことはないとのことだった。と言うことは、そこは滝崎が尾ひれのついた噂をどこかから聞きつけたのだろう。
竹仲さんは最近、滝崎に、「お前に近づく男は容赦しねぇ」と言われたという。それで今日の昼休みに、滝崎にやられている僕を見て、滝崎が何か勘違いをしているのではないかと思い、問いただしたところ、今回の話を知ったとのことだった。
そしてそれは、今日の昼休みの終わり頃の話だということだった。そして竹仲さんは滝崎に真実を伝えてくれたそうだ。そしたら、たまたま学校帰りに僕を見つけて、驚いたが謝らなければと思い、声をかけたとのことだった。
ただ、僕がその話の中で一つ引っかかったのは、昼休みの終わりに滝崎が真実を知ったとすると、放課後の呼び出しはおかしいということだ。もちろん竹中さんの話を、滝崎が端から信じていない可能性もある。もしくはリーダーである手前、引っ込みがつかなくなったのか、単に僕が、理由はなくともカモにされたということなのかもしれない。はたまた滝崎は真実を知ったが、どうせ僕がそのことを知る由もないと思い、せっかくだからこの機会に金を巻き上げてやろうと思ったのか。僕には分からない。しかし、いずれにしても理不尽な扱いを受けていることに変わりはないと思った。
僕がそんなことを考えていると、竹仲さんが話を続けてきた。
「私、本当は滝崎なんかと付き合いたくないです。でも、あの人怖いんです。『俺と付き合わないと、お前の弟がどうなっても知らないぞ』って言われたんです。あの人ヤクザの息子だから、本当に何するかわからない。すごく怖いです」
そう言って、竹仲さんは泣き出してしまった。
「正直言って、最近は身の危険も感じています。あの人、最近私に、『俺とキスしようぜ』って言ってくるんです。でも一つ許したら、次に何を要求されるか見当がつきます。だから本当に嫌です。でも、いつまでも断っていたら、また弟を使って脅してくると思います。私もう、どうして良いかわからなくて……」
滝崎は本当に卑劣なやつだ。僕に対しても竹仲さんに対しても同じだが、脅しと暴力で人を従わせようとする最低の人間だ。
僕は竹仲さんをどうにもしてあげることはできないが、滝崎は許せないと思った。あいつは止めなくてはいけない。
僕は竹仲さんに、「僕のことは大丈夫だから」と伝え、竹仲さんに何もしてあげられないことを謝って公園を後にした。竹仲さんの方も、何度も何度も僕に謝りながら帰って行った。
時に人は、他人の為の方が強くなれることがある。僕も同じだった。滝崎は人間のクズだ。今までも、自分のやりたいようにやってきて、沢山の人を傷つけてきたやつだ。当然の報いを受けるべきだ。これ以上被害者を出してはいけない。社会悪は叩かなくてはいけない。そう思うと、ちょっと勇気が湧いてきた。
では、どうやって滝崎を叩くのか? やはりリプレイス能力を使うしかないだろう。恐らく、こういう時のために僕に与えられた特別な能力なのだ。そう考え、僕は具体的なプランを立てた。
まず明日の朝、近くの総合病院に行く。そしてそこで、そこそこ具合の悪そうな入院患者からリプレイス能力を使って、その病気を貰い受ける。それから学校に行く。そして滝崎を僕の方から呼び出してやる。滝崎のことだから、「勇気があるなら一人で来い」と挑発すれば、恐らく一人で来るだろう。そして、一度はチャンスを与える。竹仲さんから聞いた情報を伝えて、滝崎が素直に、僕にこれ以上関わらないというなら、病気は引き渡さない。ただ、恐らく滝崎がそう言うはずはないだろう。その時は実行あるのみだ。滝崎も病気の為に入院することになれば、少しは懲りるかと思う。
ただ、万が一、滝崎が僕に関わらないと言った場合と、貰い受けた病気がかなりマズい病気で、滝崎に引き渡す前に、僕の意識が遠のいたり、痛みに耐えきれないなど、僕自身が危なくなった場合どうするかを考えておかなくてはいけない。そうなると動物を学校に持ち込まないといけないが、犬や猫は無理だから、もっと小さくて鳴かない動物である必要がある……。最適なのはハムスターだろうと、すぐに浮かんだ。親友の由人がハムスターを飼っているのを思い出したからだ。
それで、ハムスターを調達しに、僕は家に帰ってお金を持つと、まっすぐペットショップへ向かった。
ハムスターは千五百円程で売っていた。健康なハムスターでなければ、リプレイスで引き渡すことはできない。それで、個体をチェックし、慎重に選んだ。それでも、ふと不安を感じる。選んだハムスターは病気や怪我をしていないだろうかと。
この能力の、こういう中途半端なところは本当に困る。いざハムスターを調達しても、ある意味賭けだ。病気や怪我をしている個体だと、何の意味もなくなってしまう。
とりあえずハムスターを購入したが、学生には痛い出費だ。でも、こればかりは仕方がない。僕と色々な人の将来がかかっているのだ。社会悪を世の中から根絶するためだ。そう思って、自分を慰めた。
ふと、ピーター・パーカーは学生なのに、スパイダーマンの衣装の費用をどうやって調達したんだろうと考えてしまった。こういう大変な時に、なぜ人はくだらないことを考えてしまうのだろう……。
ハムスターを連れて家に帰ったが、お母さんやお姉ちゃんに見つかるわけにはいかないので、小さめのダンボールに入れて家に持ち込んだ。そして部屋に入ってから、昔カブトムシを飼っていた、プラスチックの飼育ケースに入れた。
すぐにご飯の時間になったので部屋を出、食事とお風呂を済ませて部屋に戻ってきた。
明日の計画をもう一度シュミレーションしてみた。その途中、そう言えばハムスターの額はどの辺りなのか確かめておこうと思い、良く良く観察してみた。ハムスターは鼻をクンクンと動かし、愛らしく僕にアピールしているように見えた。こんなに可愛い動物にリプレイス能力を使うことを考えると、ちょっと罪悪感がある。でも、そんなことを言っても始まらないので、ここは心を鬼にしないといけないと自分に言い聞かせた。
ある程度のシュミレーションを終え、僕は床に着いたが、なかなか眠ることはできなかった。色々なことを考えてしまい、目は冴えるばかりだった。それでも、いつしか眠ってしまったらしい。僕の感覚としては、セットしていた目覚ましが、ようやくウトウトしかけた頃に鳴った感じがした。
今は朝の五時だ。僕はパジャマの上から学制服を着ると、大きめのバッグにハムスターを飼育ケースごと入れて家を出た。
お母さんには、学校祭に向けた朝の合唱練習で、参加可能な人だけ呼ばれていると嘘をついた。
近くの総合病院に向かう途中はずっと心臓がバフバフしていた。でも、もう本当に後には引き下がれないという思いで歩を進めた。
総合病院に着き、まずはトイレに行く。そこで学制服を脱ぎ、パジャマになった。これで、あまり怪しまれることなく行動できると思う。
カバンに学制服を入れ、とりあえずトイレの清掃用具室に隠しておいた。恐らくこんな早朝に掃除はしないだろうと思った。
何科の病棟に行けば良いのだろう。たぶん外科は治ってしまえば終わりだし、重症患者だと最初から僕が病院を出られなくなる可能性がすこぶる高いのでダメだろう。そうなると内科系かと思う。内科系なら、上手くすれば滝崎を一生病院送りにできる病気の患者を見つけることも不可能ではないだろう。
そう考えて内科病棟に行ってみると、内科病棟は、病気の種類によって細かく分かれていた。呼吸循環器科、泌尿器科、消化器科、皮膚科、神経内科などなど……。色々あってよくわからない。僕は一番手っ取り早く、呼吸循環器科の入院病棟に行ってみることにした。
呼吸循環器科ということは、肺の病気か心臓病系だろうと思う。上手くいけば確かに、滝崎を一生病院送りにできるだろう。もしそうならなかったとしても、一定の効果のある病気は見つけられるはずだ。キャプテン翼では、心臓病を患いながらも、短時間試合に出場する三杉淳という選手が出てきた。つまり、心臓病は安静にしていれば良い病気のはず。激しい運動さえしなければ命に別条はなさそうだし、暴れると心臓が苦しくなるだろうから、滝崎もおとなしくなるだろう。肺の病気の場合も同じく、暴れると肺が苦しくなりそうだ。もし、退院してきたとしても、以前のような元気は出せないだろう。それに、一生薬を飲まないといけないようになるかもしれないが、それぐらいはあいつが今までしてきた悪事の数々から比べれば、負わなければいけない報いだろう。
僕はそう考えて、呼吸循環器科に入院している患者さんから病気を貰い受けることにした。
ただ、本当に上手くいくだろうか? 段々と不安がよぎってくる。
幾つかの病室を覗いては見たものの、朝の六時近い時刻になると、すでに起きている人もかなりいる。起きている人にはリプレイスできない。その他、鼻からチューブが入っていてぐったりしており、ベッドの周りに様々な機械が置かれている人は論外に危ないだろう。いざ病室を回ってみると、どんな病気で入院している人なのかさっぱりわからない。その人が瀕死なのか、重病なのか、ちょっとした不調なのか……。
そんな風に病室を覗いているうちに、ようやく、ターゲットになりそうな人物を見つけた。
お爺ちゃんと呼ぶにはまだ若いと思うが、お母さんよりは年上と思われる、五十代ぐらいの男性だった。ベッドの横には心電計のみが置かれており、その男性はいびきをかいて眠っていた。四人部屋だが三人しか部屋にはいないようで、一つのベッドは空いていた。後の二人はしっかりとカーテンを閉めており、中は見えない。その男性だけがカーテンを開けており、しかも入り口のすぐそばのベッドだった。
まだ検査中なのだろうか、それとも退院間近なのか? 症状ははっきり言って全く分からなかったが、とにかくもうこれしかチャンスはないと思った。
一瞬ならやれる。額に触れるのはほんの一瞬で良いのだ。僕は覚悟を決め、一度大きく深呼吸をして、病気を貰い受けよ! と心の中で叫び、一瞬のみ、その男性の額に触れた。
焦っていたし、本当に一瞬だったのでよく見えなかったのだが、いつも白く光っていたはずのものが、今回は綺麗な虹のように、なないろにひかって見えた気がした。
急いで病室を出ようとしたところで、看護師とばったり出くわした。
「あなた、この科の患者さんじゃないわね。ここで何してるの?」
いきなりの質問に僕は言葉が詰まった。こういう展開は想定していなかったからだ。
「ええと、あのー」としか言えない僕に看護師は、「太田さんとお知り合いなの?」と更に質問してきた。この男性は太田さんというらしい。
僕はなんと答えようか頭の中をフル回転させていたのだが、ようやく苦肉の言い訳を思いつき、「病院内を散歩していたら迷ってしまいました。ごめんなさい」と言って、乗ってきたエレベーターの方に向かって急いで歩き出した。
途中で僕が振り返ると、看護師は不審そうにこちらを見ていたが、追っては来なかった。すごく危なかったと思う。
エレベーターに乗った僕は、ヘナヘナとその場にしゃがみこんでしまった。
今考えると、さっきのはまともな言い訳とは言い難い。やはり様々なイレギュラーを考えておかなくてはいけなかったと思った。
でもそれより、あの看護師に光は見られていなかったのだろうか? そのことは聞かれなかったので大丈夫だろうとは思いつつも、やはりもっと用心が必要なのだと改めて痛感した。
ようやく着替えをしたトイレまで戻り、もう一度学制服に着替えると、僕は病院を後にした。
ところで、太田さんは身体のどこが悪いのだろう。今のところ心臓が苦しく感じることもなければ、呼吸が苦しい訳でもなく、正直何の変化も感じない。これは失敗なのだろうか? もしかして、走るなどの負担をかければ心臓か肺か、どこか苦しくなるのかもしれないが、それで動けなくなっては意味がないので実験もできない。少なくとも、看護師にばったり会った時、心臓がドキドキしたのだが、その程度ではなんでもなかった。
そしてもう一つ気になるのが、あのなないろのひかりだ。見間違えではないとすると初めてのことだ。僕の過去の分析によると、貰い受けることができなかったとすれば、光もしないはずだし、哺乳類以外なら二度光ってリプレイス能力が発動しないということは確証済みだが、これは何の合図なのだろう?
全く想像がつかなかったが、ここでハムスターを使って確かめてしまうと、僕の苦労は水の泡になってしまうので、とにかく滝崎用に取って置くことにした。
病院から真っ直ぐ学校に行った。すると、またしても、僕の計画を狂わせるイレギュラーな事態が起きた。何と朝から校門のところで、高林と柴田が僕のことを待っていたのだ。柴田が僕に言った。
「お前はよほどのアホなようだな。滝崎さんをマジで怒らせてどうすんだよ。お前もう、半殺し程度で済まねーぞ。本当に殺されるかもしれねぇ」
一体何がどうなっているのだろう。昨日の今日で何が起きたというのか。考えあぐねていると、柴田が続けた。
「藤見、朝一で滝崎さんがお呼びだ。一緒に第二グラウンドの体育倉庫裏に来いや」
逃げられもしない状況で、僕は柴田に連れられて滝崎のところに向かった。
第二グラウンドの体育倉庫裏に着くと、滝崎がいきなり殴りかかってきた。腹に一発パンチを入れられ、また太腿を思い切り蹴られた。あまりの痛さに僕はその場に四つん這いに倒れこんだ。
滝崎が、「お前、あれだけされてまだ俺の女に手ェ出しやがって! ぶっ殺してやる!」と言った。
僕は必死に、「何もしていない!」と訴えたが、滝崎に聞く耳はない。柴田が僕の髪の毛を掴んで顔を上げさせこう言った。
「何もしてないじゃねぇんだよ! 昨日、お前が竹仲さんと田崎公園でデートしてるとこ見たヤツがいるんだよ! 滝崎さんの顔潰しやがって、どう落とし前付けんだよ!」
こいつらは中学生にしてすでにヤクザだ。一般人は暴力と脅しになす術はない。あまりに非情だと思った。何を言ったところで、こいつらは一切耳を傾けもしないだろう。あくまで一方的に決めつけて、やりたい放題やるだけなのだ。
この状況を打開したくとも、柴田がいてはリプレイス能力も使えないし、今回はそれでなくても有効かどうかさえ分からない。
そう考えているうちに、今度は高林が竹仲さんを連れて来た。
滝崎は竹仲さんにも怒鳴った。
「てめえ、優しくしてりゃ、いい気になりやがって! お前にも思い知らせてやるからな! この馬鹿女!」
そして、柴田と高林の方を向いて、「お前らは誰か来ないか見張っとけ」と言った。
柴田と高林がいなくなると、滝崎は竹仲さんの首根っこを掴み、僕の方を向いて、「藤見、よおく見ておけ! こいつは俺の女だからな! 誰にも手出しさせねぇ」と言って竹仲さんに無理やりキスをしようとした。
竹仲さんはそれを察知して、滝崎の顔に唾をかけた。
「このアマなめやがって!」と滝崎が叫び、竹仲さんを思い切りビンタした。
竹仲さんは叩かれた衝撃で地面に倒れこんだが、叩かれた頬を押さえたまま滝崎を睨んでいる。
それを見て滝崎は更に逆上し、今度は竹仲さんに蹴りを入れようと足を上げた。
僕はもう我慢できなかった。もうどうなろうが知ったことじゃない。
僕は、「滝崎やめろー!」と叫んで滝崎に飛びかかった。そして左手の手のひらを滝崎の額に押し当て、お前に引き渡す! と心の中で念じた。
ところが無我夢中で興奮していた為、実際には声に出てしまった。
瞬間、なないろのひかりが僕の手のひらと滝崎の額の間を明るく照らした。
滝崎は一瞬怯んだ。突然のことで何が起きたのか分からなかったからだろう。
竹仲さんもまた、僕の声をはっきり聞いていたし、起きた事を見ていたので驚きを隠せない様子だった。
僕は、呆然としている竹仲さんに、「早く逃げて!」と叫んだ。
竹仲さんはハッと我に返ったように、その場から逃げ去って行った。僕もここは逃げるが勝ちだと思い、カバンを掴むと、竹仲さんとは逆方向のグラウンドのフェンスのやぶれに向かって走りだした。
竹仲さんが走って逃げて行ったのを見たからだろう。柴田と高林が戻ってきて、逃げている僕に気付き、滝崎と一緒に追いかけて来た。
フェンスのやぶれをくぐり、途中までは三人が追いかけて来るのが見えていたが、そのうち見えなくなった。僕は全力で走り、逃げ切ることができた。
三人は竹仲さんではなく、僕を追いかけてきたので、竹仲さんも逃げ切ることが出来たはずだ。
僕は、今日は学校に行くのをやめ、家に帰ることにした。
家までの道のりも落ち着かなかった。何度も追いかけては来ていないかと振り返った。角を曲がったら待ち伏せされているんじゃないかと、恐る恐る確かめながら道を歩いた。
ようやく家にたどり着いたが、今のところ大丈夫なようだった。お母さんは仕事だし、お姉ちゃんも学校に行っているので、家でおとなしくしていることにした。
ただ、後数時間もすればお母さんに、僕が学校に来ていないと連絡が入るだろう。今日は学校で朝練と言っていたのに、行っていない事がばれてしまう。そう考えると、この問題は素直に話した方が良いのだろうか? それとも、何らかの言い訳をやはり考えるべきか?
そう考えていた時、突然、電話が鳴った。僕は飛び上がるほど驚いた。滝崎達の呼び出しだろうか? それとも学校からか?
電話は数回呼び出し音が鳴ってから、留守番電話に移行した。だが、電話をかけてきた相手は留守電にメッセージは入れず、電話を切った。
再び沈黙が訪れる。
僕は自分の部屋に行き、布団の中に潜り込んだ。
とりあえず僕は、素直に話すのではなく、言い訳する方を選択した。やはりお母さんには知られたくなかったからだ。素直に話すとなると、リプレイス能力を使ったことも話さなければいけなくなるだろう。一部真実で、一部虚偽は考える方が大変だし、真実を含めると嘘の部分がバレる恐れがある。それなら最初から嘘で固めた方が良いと思った。
それで考えたのは、学校に行く途中で具合が悪くなり、近くの公園で休んでいた、ということにする案だ。動いたら吐きそうだったから、家にも学校にもどちらにも行けず、ベンチで安静にしていたと言えばいい。そして、ようやく少し良くなって家に戻り、寝ていたと言えばいい。とりあえず今日の言い訳はそれで何とかなるだろう。
問題は明日からだ。学校に行きたくない。もう、解決策が見つからない。結局、リプレイス能力も不発だったみたいだし……。
あの、なないろのひかりは何だったのだろう。太田さんという人から貰い受けた時も、滝崎に引き渡した時も、なないろに光った。でも、僕は貰い受けている間もどこも悪いと感じなかったし、引き渡した後も何も感じなかった。もしかして、ほぼ完治している場合の光り方なのだろうか? それなら、何の意味もなかった。わざわざ様々な努力を払って病院に行き、ドキドキしながら病気を貰い受けに行ったことに、何の意味があっただろう。
色々なことを考えているうちに、僕はもう全てが面倒臭くなってきた。こういう時はとりあえず寝るに限る。朝が早かったことと、緊張が続いたこともあり、僕はすぐに眠りに落ちた。
夕方、もう一度鳴った電話で目が覚めた。学校からだろうか? それとも、学校からの連絡を受けたお母さんからだろうか? もしかしたら今度こそ、滝崎達の呼び出しかも知れない。
しかし、今回も留守電にメッセージは入らなかった。
それから一時間程して、お母さんが仕事から帰って来た。やはり学校からの連絡があったようで、なぜ学校に行かなかったのか尋ねられた。僕がさっき考えた言い訳を言うと、お母さんは一言、「ふーん」と言って、夕食の支度を始めた。あれは完全に信じていないな、と思ったが、僕もそれ以上は何も言わなかった。
お姉ちゃんも帰って来て、夕食になった。お母さんは怒っているのか、僕に何かを言いたくても言えないのか分からなかったが、何も話さずに黙々と食べている。そのお母さんの様子を見てお姉ちゃんが、いったい何したのよ! とでも言いたげに、何度も僕を見た。
僕は今この状況よりも、明日からのことが気掛かりでしょうがなかった。学校に行きたくないことを、どうやって正当化するか、そればかり考えていた。
また電話が鳴った。僕の心臓の鼓動が大きくなる。滝崎達だろうか? お母さんが電話に出た。
「もしもし、藤見でございます。え、優馬ですか? 居ますよ。代わります」
お母さんが僕に受話器を差し出した。
「優馬、お友達から」
僕の心臓の鼓動が、お母さんにもお姉ちゃんにも聞こえるのではないかと思うぐらい、ドックンドックンと音を立てている。堂々と電話してくるということは、滝崎にとって、相手の親など関係ないのだろう。自分の親の方が絶対的に強いと確信しているからなのだろう。もう、本当に逃げ場がないのか? チェックメイトなのか?
僕は恐る恐る電話に出た。
「……もしもし」
「お、優馬か? 今日、学校に来なかったけど大丈夫か?」
由人だった。僕は一気に脱力した。
「なんだ、由人かよ」
「なんだとはなんだよ。で、大丈夫か?」
僕はチラッとお母さんの方を振り返り、お母さんに話した言い訳と同じことを由人に話した。お母さんはやはり、黙々と食事を続けている。
由人が話を続けた。
「そうだったのか、大変だったな。昨日の滝崎達の件があったから心配してたんだよ。俺さ、昨日もお前のこと待ってたんだけど、お前来なかったからさ。こっ酷くやられて、登校拒否になったかと思ったよ」
「まあ、正直そうしたいぐらいだよ」と、僕は自分の気持ちを素直に話した。
「だよな。先生もムカつくよな。滝崎の親にビビりやがってよ。でもな優馬、お前に朗報があるぞ」
朗報? この状況で何があるというのだろう? どうせ由人が考えた、滝崎達から逃れる為のしょうもないプランだろうと思った。
「今朝な、学校に救急車が来たんだよ。そんでな、何と滝崎が病院に運ばれました!」
僕は耳を疑った。リプレイスが成功していたのか? 途中で追いかけて来なくなったのはそういうことだったのか? きっと太田さんという人は心臓か肺が悪くて、長時間の運動に耐えられなかったのだろう。それが滝崎に引き渡され、無理ができなくなったに違いない。やったぞ! 社会悪を成敗してやったぞ!
僕の心はいっぺんに晴れ、急に元気が沸いて来た。
由人が、「それでさ、うちのクラスの高林も意気消沈しててさ。あいつら滝崎がいないと何もできねえクズだからさ。もうきっと、しばらくは心配ないよ。だから明日は学校来いよ」と言った。
僕は、「ありがとう」と言って電話を切った。
リプレイスが成功していたのなら、滝崎はしばらく入院だろう。もし滝崎が学校に来ても、今後はそれ程暴れることはできないと思う。滝崎達の勢力は弱るのではないだろうか。
いずれにせよ、滝崎が入院している間は平穏に過ごせそうだ。その後のことは、またその後考えれば良い。
僕は当面の可能性が開けたことにホッとした。
翌朝、お母さんは、「今日はちゃんと学校に行けるんでしょうね?」と聞いてきた。僕が、「もちろん大丈夫だよ」と答えると、お母さんはようやく笑顔になり、「それなら良し!」と言った。
僕の学校までの足取りも昨日までよりずっと軽かった。もちろん、少しは高林達の動向は気になったが、滝崎が絡んでいなければなんとかなると思った。滝崎がいなければ、あいつらは本当に何もできないやつらなのだ。
学校に着くと、教室はいつものような穏やかな雰囲気だった。高林が登校してきたが、僕の方をチラッと見て、目を逸らした。これなら大丈夫と確信した。
先生が教室に入ってきて、今日の一時間目は急遽、全校集会になったとクラスのみんなに伝えた。
すぐに体育館に移動になり、校長先生が話を始めた。
「今日は、皆さんに悲しいお知らせがあります。二年B組の滝崎広樹君が、昨日の夕方、亡くなりました。昨日の朝、友達と追いかけっこをしていた時に突然、心臓が苦しくなって倒れたそうです。学校に救急車が来たことを知っている人も多いかと思います。正しい病名を言うと、急性心不全、または心筋梗塞です。本来、あまり若い人のなる病気ではないのですが、詳しい原因はまだ分かっていないとのことです。皆さんも健康管理には十分に気を配ってください」
校長先生の話は続いていたが、僕の耳にはもう何一つ音は入って来なかった。
滝崎が死んだって? 僕は人殺しになってしまったのか?
強烈な恐怖と、罪悪感が胸に湧き上がってきた。それは僕の胃を急激に締め付けたので、強い吐き気が襲ってきた。僕は震える手で口を押さえ、先生の制止を振り切ってトイレへと駆け込んだ。
吐きながら何度も、殺すつもりはなかった。殺すつもりはなかった。殺すつもりはなかった。と、繰り返していた。
あのなないろのひかりは、致死的な状況にあるということを知らせる光り方なのかも知れない。そんな風には考えもしなかった。今更わかっても、後の祭りだ。
(でも、滝崎は社会悪だった! 死んで当然の人間だった!)
自分にそう言い聞かせようとしたがダメだった。身体はその考えを拒否し、明らかに、お前は人殺しだ! 犯罪者だ! と、事実を僕に突き付けてきた。
息をするのも苦しい。まともに呼吸ができない。心が押し潰されてしまうのではないかと思う程、心臓が締め付けられるように苦しかった。しばらく動くことができず、トイレから出られなかった。
僕がトイレから出た時にはすでに、全校集会は終わっており、皆は教室に戻って授業を受けていた。先生が、「藤見、大丈夫か?」と話しかけてきた。僕はとりあえず、「はい」とだけ答え、席に着いた。
席に着いたものの、未だ手の震えが止まらない。冷や汗も止まらない。まともに何も考えることができず、僕は先生に早退したいと伝えた。先生も僕の様子を見、「具合がだいぶ悪そうだな……。安静にしておけよ」と言って、早退させてくれた。
どうやって家まで帰ってきたのか、それすら覚えていなかった。僕は家に着くとすぐに布団を頭から被って、布団の中に丸まった。身体の震えが止まらず、頭の中で、「人殺し」という言葉が何百回も繰り返された。
脳が苦悩のあまりおかしくなるのを防ぐ為か、突然眠りに落ちる。しかし、数分でまた目覚め、自分を責め始める。しばらくその繰り返しだった。
夕方、お母さんが帰って来て、「ただいま」と言いに部屋に来た。僕は布団にくるまって静かにしていた。お母さんはしばらく立っていたようだが何も言わず、部屋のドアを閉めて出て行った。お母さんはそれで何かを察したのか、夕食を誘いにも来なかった。お母さんにしてみれば、ここ数日の僕は、様子がおかしいと思っていたに違いない。そっとしておこうと思ったのだろうか。
僕は恐怖と不安に怯え、眠れぬ夜を過ごした。それは、人を殺してしまったという、とんでもないことをしでかしてしまったという思いと、警察に捕まり、罰を受けなければいけないということへの恐怖と不安だった。
竹仲さんは、僕がリプレイス能力を使うところを見ていた。それを誰かに話すかもしれない。そこから僕が殺人犯だと分かってしまうだろう。高林達はどうだ? 直接見てはいないものの、倒れる前に滝崎から何か聞いているかもしれない。朝、高林が目を逸らしたのは、何かを知っているからなのかも知れない……。
恐怖は次々と、悪い方へ悪い方へと僕の考えを混乱させた。
翌朝も僕が布団から出ても来ず、一向に学校に行く準備も始めないので、お母さんも困っていたようだ。お姉ちゃんと何やら相談しているようなひそひそ話が聞こえた。部屋のドアが開き、「具合が悪いの?」とお母さんが僕に尋ねた。僕はまた返事をしなかった。お母さんは、「話があるならいつでも聞くからね」と言うと、部屋のドアを閉めた。
お母さんとお姉ちゃんがそれぞれ家を出て行ったので、また家の中が静まり返った。
昨日から同じことを考え、脳が耐えられなくなり眠ってしまい、またすぐに目覚めるということを繰り返していた。出口のない迷宮のようだった。何も食べる気にもならない。たしかもう三日ぐらい、まともな食事を食べていないが、空腹感がないのだ。僕は、このまま死んだ方が楽だと思った。
本当に最低限の食事と、後は布団にくるまりっぱなしの二日間が過ぎた。毎日、いつ警察が家に来るかとビクビクしていたし、何よりも自分は人殺しだという罪悪感に苛まれ続けていた。
僕の尋常じゃない姿を見て、お母さんもお姉ちゃんも、どうしていいか分からないようで、話しかけてこなかった。
夕方、お母さんもお姉ちゃんも出かけて居ない時に、玄関のベルが鳴った。この二日間で、僕以外誰もいない時に何度か訪問者が来たが、一度も出なかった。今度こそは警察が来たのではないかと、ベルが鳴る度、電話が鳴る度、心臓が飛び出すかと思うほどドキッとしていた。
今回の訪問者は何度かベルを鳴らした。そして今度は玄関ドアを叩いている。今までとは違い、しつこかった。まるで、家の中に誰かいると知っているというふうに執拗だ。僕はいよいよ警察が来たと思い、カーテンを締め切りにしてある自分の部屋の布団の中で身動き一つせずにいた。
すると訪問者は、一つ一つの窓を叩き、何か叫びだした。女性の声だった。
いよいよ、カーテンを締め切りにしてある僕の部屋まで来たようだ。窓を叩きながら、「藤見くん、いるんでしょ?」と言う声が聞こえてきた。それは竹仲さんの声だった。
僕はどうしようか非常に迷ったが、竹仲さんの声が穏やかだったことと、あの一件以来、学校が一体どうなっているのか知りたいという思いから、カーテンを開けた。
竹仲さんは僕を見て(正確には僕の存在を感知して)、「良かった。ずっと学校に来てないって聞いたから。今少し話せる?」と、曇りガラス越しに話しかけてきた。僕は、「分かった。玄関に来て」と伝えた。
玄関を開けて僕を見た竹仲さんは、とても驚いているようだった。それほど僕は短期間でやつれ、変わって見えたのだろう。竹仲さんの第一声は、「大丈夫?」だった。
僕は、「うん」とだけ答え、竹仲さんに逆に質問した。
「……学校はどんな様子?」
「どんな様子って? 特にどうもなってはいないけど。前と変わってないよ。強いて言うなら滝崎がいなくなってから、不良グループがおとなしくしてる感じかな」
竹仲さんの答え方から、僕は何となく竹仲さんが僕の聞きたいことを分かっているのではないかと感じた。それで僕は、少し踏み込んで質問することにした。
「警察が来たりしていなかった?」
「ないよ。だって、滝崎の死因は病気だったんだもん。藤見くん、自分が殺したとでも思ってるの?」
あまりに確信を突かれ、僕はなんと返事をしていいのか全く思いつかなかった。あれを見ていた竹仲さんは、どういうつもりで言っているのだろう?
「あのね、藤見くん。私、確かに藤見くんが滝崎に何かしたことは知ってる。でもね、殺そうとした訳ではないことも知ってるの」
どうして竹仲さんはそう考えるのだろうか? 普通あれを見たら、誰でも僕が殺人犯だと思うはずだ。
「私、全校集会の時に藤見くんが、口を押さえながら体育館を出て行くところを見たの。あれ、目立ってたから。それに藤見くんが早退したことも、翌日からずっと学校を休んでいることも、野際さんから聞いて知ってた。だから私、藤見くんは殺そうとしたわけじゃないって、そう思ったの。だって、最初から殺す気だったら、動揺したり悩んだりしないでしょ? 今、藤見くんに会って、その姿を見て更に確信したわ」
僕は、「ありがとう」と答えた。その答えが正解なのかは分からない。ある意味それは事実を認めたと言うことになるだろう。つまり、殺す気はなかったものの、殺してしまったということだ。
ただ、確かに竹仲さんの僕の心情に対する推理は正しく、否定することができなかった。それに、そう言ってくれるということ自体、少なくとも今は、僕の味方になってくれるのだろうと思った。
しかし疑問が残るのは、それ程親しい訳でもないのに、なぜ僕の家までわざわざ来て、僕を気遣ってくれるのだろうか? ということだ。それで僕は、「でも、なんでわざわざうちまで来たの?」と尋ねた。竹仲さんは少し考えるように、視線をずらした。そして、「心配だったから」と答えた。それから慌てて、「誤解しないでね。藤見くんが罪の重さに耐えきれなくなって、自殺でもしたら大変と思ったの。藤見くん、私の命の恩人だから。今度は私が助ける番だと思って。あの時、助けてくれて本当にありがとう」と付け加えた。
誰にしても、心配してくれるのは嬉しかった。僕の置かれているこの状況を分かってくれる人がいたことに、僕は少し救われた気持ちになった。そして、どうやら警察沙汰になっていないことにも安心した。でも、人を殺してしまったという罪悪感は拭えない。
今度は竹仲さんが僕に質問した。
「聞き辛いんだけど……藤見くん、滝崎に何をしたの?」
僕はどう答えたら良いのか迷った。真実を話すべきなのかどうか。でも、あの状況を見ている竹仲さんに嘘や誤魔化しが通じるはずもなく、現時点で唯一の味方だという安心感もあって、僕は真実を話す覚悟を決めた。
僕の話が終わっても、竹仲さんはしばらく黙っていた。信じていないというよりは、頭の中を整理しているように見えた。そして、「私、信じる」と言った。それから竹仲さんは更にこう続けた。
「いい、これは事故よ。だって、藤見くんもどうなるか知らなかったんだから。それに滝崎は本当に悪い人だった。因果応報よ。これまで滝崎がしてきたことがよっぽど酷かったってこと。これは藤見くんがしたことじゃなくって、滝崎が自分で招いた結果なのよ。藤見くんは自分と私だけじゃなく、きっと今まで滝崎から苦しめられてきた人や、これから苦しめられるはずだった沢山の人を助けたのよ。だから、悩むことなんかない。罪の意識を感じることもない。藤見くんは私と皆の救世主だから」
そう言って、竹仲さんは帰って行った。
竹仲さんが帰った後、僕は竹仲さんが言ったことを何度も思い返しては考えてみた。
(因果応報か。確かにそうなのかもしれない。元の病気の持ち主である太田さんは死んでいなかったし、僕が貰い受けていた間も、僕は死ななかった。滝崎に引き渡した途端にこういうことが起きたというのは、滝崎がそうなるべき人間だったという見方もできるかもしれない)
この時僕は、自分で自分を騙していたと思う。きっと自分が殺人者だという事実に耐えられなかったからだと思う。原因を他人に擦りつけることによって、罪悪感から解放されたかったのかもしれない。
翌日から僕は学校に行くことにした。これ以上休むと、流石にお母さんも黙ってはいないだろうし、学校側も不審に思うだろう。せっかく学校で何も追求するような事態になっていないのならば、おとなしく通学した方が無難だと思った。僕は起きた出来事も、リプレイス能力も、永遠に封印すると心に決めた。そして、これ以上考えないようにと自分に言い聞かせた。
学校に行くと、由人がすぐに駆け寄ってきて、「優馬、心配させやがって! 随分痩せこけたように見えるけど大丈夫か?」と言った。由人は本当に優しいし、友達思いだ。自分が由人に取った態度を本当に申し訳なく思う。
由人は僕を心配して、何度も電話してくれていたそうだ。僕がびくびくしていた電話の何回かは由人だったのだろう。僕は由人の親切と気遣いに心から感謝した。
由人はこんな情報も僕に教えてくれた。
「なんでかは知らないけど、高林がお前のことを厄病神だと言ってるぞ。まあ、近づいて来ないだろうから返って助かるけどな。優馬も不良グループからようやく解放されたな。良かった、良かった」
確かにそれ以後、高林達不良グループの誰も、僕に近づいて来なかった。恐らく滝崎は僕を追いかけるのに必死で、僕がしたことを高林に話す暇もなかったのだろう。だが、僕と絡んだ直後に滝崎が死んだので、疫病神だと揶揄しているに違いない。現に竹仲さんのことも疫病神だと言っているらしかった。でもそこには野生の勘というか、恐らく何かを感じて僕達に近づいて来ないのだと思う。高林達が僕を見る目に、一種の恐怖が表れていることを僕は察知していた。
そして高林達は、現場に僕と竹仲さんがいたことを先生達にも、誰にも話していないのだと思う。話せば自分たちが恐喝や暴力を振るっていたことがバレてしまうからだろう。それは全校集会の時に校長先生が、滝崎が友達と追いかけっこをしていたと言っていたことからも推測できる。
数日後、お母さん達も滝崎が死んだことを聞いたようだ。この手の話が広まらない訳はない。僕の行動がおかしかったことと、滝崎の死因が若いのに急性心不全だったことなど、お母さんもお姉ちゃんも何かを感じ取ったに違いないと思う。でも、二人とも僕に何も聞いてこなかった。問い詰めても、僕が真実を話さないだろうと踏んだのか、もしくは、二人は僕を恐れたのかも知れない。触らぬ神に祟りなし、といった所だろうか。そういう雰囲気は感じ取れた。以前にも増して僕を警戒しているようにも感じられた。気のせいかもしれないが、高林が僕を見るのと同じ目で、つまり、恐怖の目で二人は僕を見るようになったように感じた。
準備していたハムスターだが、由人が欲しいと言ってくれたので譲った。ハムスターを見る度に滝崎事件のことを思い出してしまうので、自分で飼うわけにもいかず、かといってどこかに放すのも、すぐに猫にでも食べられてしまうだろうと思ったので気が引けた。それで困っていたのだが、由人が、「後一匹増えても平気」と言ってくれたので、この件は上手く片付いた。
それからは卒業まで、僕は意識的に普通を装って過ごした。
竹仲さんとはそれっきり、お互いに話すこともなかった。そのまま卒業を迎え、竹仲さんとは高校も別だった。話によると、竹仲さんは県外の高校に行ったらしかった。
そういう状況で、僕は徐々にこの事件のことを考えないようになっていった。もちろん最初の数ヶ月は何度も悩み、眠れぬ夜も過ごしたが、努めて考えないようにした結果、自分の意識の中から、自分が殺人者であるという事実を締め出していった。夢だったような、いつか聞いた怖い話のような、実体験ではないもののような感覚になっていったのだ。特に高校生になってからは、学校の環境も友達もがらりと変わり、本当に僕の中でこの事件は封印されることとなった。