少年期
中学生になり、僕はいわゆる思春期と呼ばれる時期に入ったようだ。自分でも多少の自覚はあるのだが、周りの大人が事あるごとに、「思春期だからねぇ」と言うので、ますます変に意識してしまう。あえて気難しく振舞っているつもりもないのだが、そういう印象を与えてしまうのだろうか。
小学五年生の時の、あの事件以来、僕は自分で決めた通り能力を封印してきた。と言うよりも、それを使おうとも思わなかった。そうして二年半も過ぎると、あの時の事件は夢だったような、なんとも現実だったとは思えない感覚になってくる。ただ、僕の周りの変化を考える時、確かにそれはあったと我に返るのだ。
それは、お母さんもお姉ちゃんも、あれ以来特に何も言う訳ではないが、二人と僕との関係が何も変わらない訳でもなかったからだ。
やはりあの一件以来、お姉ちゃんは明らかに僕を警戒しているし、お母さんにも監視されているような気がしている。
まぁ、もしかすると、お姉ちゃんもあの事件の直後に思春期と呼ばれる時期に突入し、男である僕と以前のようには遊ばなくなったことと、高校受験の時期を迎えて、家にいる時は基本、部屋に籠り切りになっていたことがそう感じさせたのかもしれない。
お母さんも同じで、自分と異なる性別の人間の思春期を初めて経験しており、戸惑いと、いつ何時、何を仕出かすやら分からないという、思春期特有の危うげな感覚を感じ取って、ピリピリしているだけなのかもしれない。
いずれにせよ僕の中には、家族と一緒にいても、疎外感というか、前とは違っているという感じが常にあり、二人との間に、少しではあるが、自分から距離を取るようになっていた。
そして思春期になり、大人への一歩を踏み出した自覚というのか、子供を脱してはっきりとした自我を感じるようになったというのか、上手くは表現出来ないが、自分が持っているかもしれない能力が物凄く気になり始めていた。親が駄目と言うからしないとか、自分も怖いから出来ないとか、そういう次元では抑えられない探究心なのかもしれない。
それで、中学二年生になっていた僕は、自分の能力をもっと知りたいという欲求に駆られ、その気持ちをを抑えられなくなってしまったのだ。
だが、いざ試そうにも原理が分からないままだ。家族で試すことはもう出来ない。お母さんにはあの日、「その能力は使わないように」と言われ、それ以来常に警戒されているように感じるからだ。
他の人に知られる訳にはいかないから、誰かに話して協力してもらうこともできない。かと言って、黙って他人で試すとしても、いきなり誰かの額に触るのも不自然だし、ましてや、「うつれ!」とか、「治れ!」とか声に出す必要があるとするなら、変人と思われてしまうだろうから、尚のこと無理だろう。そう考えると実験をするにも、かなりしっかりとした計画を練らないといけないと思った。
それで僕の考えたプランはこうだ。もうすぐ夏休みだ。毎年夏休みにはお婆ちゃんの家に親戚一同が集まる。その時に久志お兄ちゃんを使って実験するのだ。久志お兄ちゃんは今年もお酒を飲んで気持ち良く爆睡することだろう。どうせ男同士ということで僕と久志お兄ちゃんは同じ部屋で寝かせられるだろうから、実験する絶好の機会となるに違いない。僕の顔に引っかき傷でも作って、それを久志お兄ちゃんにうつしてみよう。久志お兄ちゃんと二人になってから自分の顔を引っかけば良いし、久志お兄ちゃんが朝起きて引っかき傷を見ても、「酔って寝たから、痒くてかいたんだろうけど、力加減が分からずに引っかいてしまったんだろうな」ぐらいにしか思わないだろう。もし上手く行けば、久志お兄ちゃんから引っかき傷をもう一度僕にうつしなおすことも出来るかもしれない。そうすれば何の問題もなく実験を終えることができる。
僕は自分で考えたプランの完成度の高さに我ながら満足し、関心した。
夏休みを迎え、いよいよ計画実行の時が来た。今日、お婆ちゃんの家に親戚一同が集まる。
お婆ちゃんは、小田原に住んでいる。僕たち家族は横浜に住んでいて、親戚の中ではお婆ちゃんの家の一番近くに住んでいるので、親戚一同が会する時はいつも、僕たち家族が一番乗りでお婆ちゃんの家に到着していた。
お母さんは毎年、お婆ちゃんの、親戚一同を迎える支度を手伝っており、年齢を重ねるごとにお姉ちゃんも僕も手伝いの当てにされるようになってきていた。
お婆ちゃんは一人暮らしで、盆と正月の、年に二度のこの機会を本当に楽しみにしているのだ。
僕が丁度、酒屋さんがお婆ちゃん家の物置に置いて行った、箱買いのビールを運んでいた時、悟おじさんが到着して僕に話しかけた。
「よう、優馬。また大きくなったな! 学校楽しいか?」
もう何年同じ出足だろう。大人というのは子供を見ると、大きくなったかどうかと、学校のことしか考えつかないのだろうか? そんなふうに思いつつも僕は、「うん。楽しいよ」と無難に返事をした。
悟おじさんの家族は、新潟県に住んでいる。毎年二回、悟おじさんの家族は片道約五時間かけてお婆ちゃんの家に来るわけだ。僕は車に長く乗っていると車酔いするたちなので、おじさん達がここまで来るのは大変だろうといつも思ってしまう。でも、悟おじさんはそんな長距離運転をこなしてきた感を微塵も感じさせず、「お袋! 生きてたか?」と元気にドアを開けていた。まぁ、これも悟おじさんのいつものお決まりのあいさつで、小学生が元気に帰って来た時の、「ただいま!」を聞いているようで笑ってしまうのだ。
悟おじさんと一緒に久志お兄ちゃんも到着した。久志お兄ちゃんは初めての新車を買ったばかりで、どうしても運転して来たかったのと、夏休みが二日しか取れず、悟おじさんとは滞在日程が違っていた為、別の車で来たらしい。片道約五時間、二台の車で連なって本当にご苦労なことだ。久志お兄ちゃんの車の、助手席に乗っていた美代子おばさんを見ると、ようやく着いたか、といった感じで手を伸ばして体を反らせていた。
「優馬! 俺の新車どうだ。一緒にドライブに行くか?」
降りてくるなり、久志お兄ちゃんは僕をドライブに誘った。この人はどれだけ元気なんだか……。半分呆れたのだが、久志お兄ちゃんはどうやら、新車を買ったことが嬉しくて仕方がないらしかった。
僕はそれが分かったのだが、ちょっと意地悪心も働いて、「お婆ちゃんの手伝いで忙しいから無理だね」と玉砕した。久志お兄ちゃんはちょっとムッとして、「お前は相変わらずノリが悪いな。だからモテないんだぞ」と言った。
久志お兄ちゃんの口癖は何かにつけて、「モテないぞ」だ。この人の人生の中で、モテるかモテないかがそんなに重要なんだろうか?
そんなことを考えていると、久美子おばちゃんの家族も到着した。久美子おばちゃんの家族は千葉に住んでいる。比較的近い場所と言えるかもしれないが、久美子おばちゃんの家族に会うのも年に二回だけだった。
久美子おばちゃんも車を降りるなり、「あら優馬、大きくなったわねぇ。学校楽しんで行ってる?」と僕に話しかけた。
やれやれ、また同じ質問だ……。
とにかくメンバーは揃ったので、いつものように賑やかな数日になりそうだ。
久志お兄ちゃんには昔からかわいがってもらっている。年が七歳も離れていることもあるが、全員で五人いる従兄弟の中で、唯一男同士だからだということもあるだろう。そして久志お兄ちゃんが一人っ子で兄弟がいないことも、かわいがってもらえる一因かもしれない。
これまでほぼ夏休みと冬休みの、年に二回しか会っていないのだが、物心がついた時から親戚一同の集まりの際には、久志お兄ちゃんと遊んだ記憶しかない。
僕が小学生の頃は虫取りに連れて行ってくれたり、サッカーやキャッチボールをして遊んでくれた。久志お兄ちゃんが免許を取ってからは、悟おじさんの車を借りてドライブに連れて行ってくれた。父親のいない僕にとって、お父さんとはこんな感じなのかな、と思える存在だし、兄のような存在でもあった。そんな感じで久志お兄ちゃんのことを僕は大好きだった。
そんな久志お兄ちゃんを今回の実験台にするのは申し訳なく思ったが、背に腹は変えられない。ここは心を鬼にして実験に臨まなくてはならないのだ。
夕食の時間になり、親戚一同がテーブルに着いた。食事が始まると悟おじさんがお母さんに言った。
「多恵はまだ再婚しないのか?」
これもいつものおきまりのセリフだ。悟おじさんは漫才師のように、いつも同じ出足しか言わないのだ。
お母さんがすかさず、「するわけないでしょ!」と言った。それに続けて、美代子おばさんが、「あなた! ここで言う話じゃないでしょ!」と言った。実はこれも、毎度繰り返されるお決まりのパターンなのだ。そしてこの会話は必ず、お婆ちゃんが、「多恵はねぇ、健さんが亡くなってからもずっと、健さん一途なのよねぇ」と言い、お母さんが、「そこも母さん譲りなのよ」と最後に言って終わるのだ。
(実はお爺ちゃんも、お母さんが高校生の時に亡くなっており、もちろん僕は一度も会ったことはない)
実は僕は毎度のこの流れをいつもドキドキしながら聞いていた。もしも悟おじさんの質問に対して、お母さんが言葉に詰まったり、「そうだね……考えてはいる」とか言ったりしたらどうしようと思っていたからだ。
チラッとお姉ちゃんの方を見たが、お姉ちゃんは顔色一つ変えずに黙々と食事を続けている。でもきっと内心では僕と同じようにホッとしているに違いないと思った。
今度は久美子おばちゃんが、正義おじちゃんに言った。
「あなたそう言えば、悟兄さんにあのこと教えてあげたら?」
「ああ、そうだね。悟さん、前回お会いした時五十肩だと言っていたじゃないですか。その後どうですか?」
悟おじさんが答えた。
「んー、あんまり良くはなんないわな。相変わらず腕を上げようとすると痛いんだよ。まぁ、五十代だからしょうがないわな」
「それなんですけどね」と、正義おじちゃんが続けた。
「どうやら五十代だから五十肩ではないらしいですよ。実は腕が上がる角度が五十度までという意味らしいんです」
美代子おばさんが驚いたように、「え? そうなの?」と言った。
「そうなんですって。僕の通っている整形外科の先生が言ってました。四十肩も四十代でなるからではなく、四十度までしか上げられないということだそうです」
正義おじちゃんの説明に、大人達一同がヘェ~となった。
「それで実は僕も四十肩らしくて、数週間前から痛いんですよ。ただ、僕の場合は病院に行きましたからね。痛みを軽減するストレッチ体操を教えてもらったので、少しは良いんですよ。それで悟さんにもその体操どうかと思いまして」
「いいねぇ、正ちゃんお願いするわ。後で教えてくれな」
そう言って悟おじさんは嬉しそうにまたビールをグイッと飲み干した。
大人たちの会話は退屈だ。健康の話題や老化の話題ばかりだからだ。
その後もお婆ちゃんの腰の痛い話とか、美代子おばさんが最近小さい字が見えなくなってきた話とかで盛り上がっている。
久志お兄ちゃんは大人の会話にもついて行っており、時折ツッコミを入れては場を盛り上げるのに一役買っていた。
さすがは二十一歳。会社でもお調子者の久志お兄ちゃんは、上司に気に入られているらしい。二十代前半は大人にも子供にも合わせられる、絶妙な年齢なのかもしれない。
場の盛り上げも上手く行ってご機嫌なようで、久志お兄ちゃんは最初の乾杯から順調に飛ばして飲んでいる。この調子でいけば、僕の計画は問題無く実行出来そうだ。
久志お兄ちゃんは上機嫌で、毎回言うのと同じく、僕たち従兄弟一同に向かって、「お前ら今日は徹夜で盛り上がるからな! 覚悟しとけよ!」と言った。それを聞いて久美子おばちゃんが、「いつもそう言う久志が一番最初に寝るくせに」と突っ込みを入れ、みんながドッと笑った。
親戚一同が集まっても、お姉ちゃんを含む女三人衆とは大抵別行動だった。久志お兄ちゃんは一人っ子のこともあり、女の子と何をして遊べばいいか分からないようだったし、久美子おばちゃんの所の、僕と同い年の双子は逆に、兄弟に男がいないので男の子との遊び方が分からないようだった。唯一異性の姉弟である僕たちも、子供の頃から物凄く仲が良いという訳でもなかった。どちらかというと僕はお姉ちゃんに、「これをしろ!」とか、「あれを取って来い!」とか、召使いのようにいつも使われていたので、こういう場面ではむしろ、久志お兄ちゃんにべったりになった。
そんな感じで、親戚一同が集まっても、食事が終わると子供たちは、男同士と女同士に分かれて遊ぶことがほとんどだった。だが、久志お兄ちゃんは一応従兄弟の中で一番年上なので、昔から親たちに対して、「私が従兄弟一同をまとめます」的な発言をし、女三人衆にいつもうんざりという顔をされていた。
それがリーダーシップを取らないと、という自覚があるからなのか、まぁ単にお調子者の性格故かは分からない。それでも久志お兄ちゃんはめげずに、毎度夕食後みんなを誘い、トランプとかウノとかカードゲームを始めるのだ。
いつも、始めてから少しは場が持つのだが、女三人衆は直ぐにカードゲームがつまらなくなるらしく、長続きしないで終わってしまい、結局また自分たちだけで遊び始める結果になっていた。そして従兄弟一同のまとめに失敗した久志お兄ちゃんは、「ノリが悪いなぁ。だからお前らモテないんだぞ!」と言って一人でテレビを見始め、そのまま眠くなって寝てしまうというパターンだった。
去年は久志お兄ちゃんがお酒を飲める歳になり、調子に乗って延々とお酒を飲み続け、結果何もしないで寝てしまった。
それらを忘れている程この人は能天気なのか、今度こそはという決意の表れなのかは分からないが、また、徹夜で盛り上がる発言を繰り返してしまったのだ。
しかし今回久志お兄ちゃんは、飲み潰れて寝てしまうという失態を演じなかった。飲み会で訓練されて、アルコールにも少し強くなったらしい。そしてまた夕食後にみんなでトランプをしようと言い出した。
またいつものパターンかと思いきや、今回は何故か、双子姉妹の結実と結莉がかなりの乗り気だった。どうも学校で大富豪が流行っているらしい。結実と結莉がハモって、「大富豪ならやりたい!」と言った。
予想外の展開だったがトランプ大会は盛り上がりを見せ、本当に徹夜でトランプ大会になりそうな気配がしてきた。
日付も変わり、大人達は皆それぞれ、割り当てられた寝室にすでに移動していた。
初めて俺は従兄弟一同をまとめ上げているぞ! という満足感を得ているからだろうか。久志お兄ちゃんもハイテンションですごく嬉しそうだ。とても寝そうな雰囲気じゃない。このままでは僕の計画が実行出来ないで終わってしまうかもしれない。もちろん、チャンスは今日だけというわけでもないのだが、期待した分それが延期されることが、ものすごくもどかしく感じられた。
いい加減もう何時間も大富豪を続け、時間も夜中の三時をまわっている。流石に僕も飽きてきたし眠くなってきたが、今ここで久志お兄ちゃんから離れる訳にはいかない。トランプ大会が終わって久志お兄ちゃんが就寝部屋に行くのも面倒臭くなり、このままここの居間で寝られては困るし、僕自身トランプをやめたら睡魔が襲って来るであろうことも分かり切っている。
しかし飽きてきているのは久志お兄ちゃんも同じだったようで、いきなり、「今度は豚のしっぽやろうぜ!」と言い出した。
ここで白けて、もうやめたと、女三人衆が言い出すのではないかと期待したが、真夜中になって上がりっぱなしのテンションのまま三人は、「いいね! やろうやろう!」と答えたのだ。僕は眠気と疲れで、三人のその返事に心底がっかりしたが、ここまで来たらもう付き合うしかないと、半分投げやりに覚悟を決めた。
大富豪に引き続き、豚のしっぽも盛り上がりを見せた。バチバチと互いの手を叩き合い、「痛い!」とか、「やめてー」とか、ゲラゲラと笑いながら女三人衆も楽しそうだ。
しかし、終わりは突然にやってきた。お姉ちゃんの手が久志お兄ちゃんの手の甲に爪を立てた形で乗っかってしまい、上から次々に振り下ろされる手に押さえつけられた。爪が手の甲に刺さって、痛いと思った久志お兄ちゃんが手を引き抜こうとしたところ、お姉ちゃんの爪で手の甲を思い切りひっかく格好になったのだ。
お姉ちゃんの爪は伸びていたので、久志お兄ちゃんの引き抜いた手の甲は、かなり酷いミミズ腫になっていて、線状についた四本の傷からは出血までしていた。
「美夏! 痛ってーよ!」
そう言って久志お兄ちゃんは傷ついた右手をブンブン振っている。お酒が入っていることもあり、かなり苛ついた感じだ。しかし女三人衆はそれを全く意に介さず、結実と結莉は久志お兄ちゃんの手を指差してゲラゲラと笑っているし、当のお姉ちゃんもふざけ半分で笑いながら、「こりゃ、すまん」と言った。それを見て久志お兄ちゃんは怒り出し、最後には、「もうやーめた。はいお開き」と言って、就寝部屋に行ってしまった。
時刻はもう四時を過ぎており、外は薄っすらと明るくなっている。女三人衆はひとしきり笑い終えると、「私たちも寝ようか」と言って居間からいなくなっていった。
一人居間に残された僕はすっかり目が冴え、心臓が高鳴っていた。これでようやく計画を実行出来る。明け方になり、全員が寝静まったことが逆に好都合になった。
僕は残っていたコーラをごくごくと飲み干し、就寝部屋に向かった。
僕と久志お兄ちゃんが割り当てられた就寝部屋に行くと、久志お兄ちゃんは電気を消し、すでにいびきをかいて寝ていた。ついさっき居間からいなくなったばかりなのに、五分も経たずにもう眠っているとは驚きだ。のび太かよ! と心の中で一人ツッコミを入れながらも、久志お兄ちゃんが本当に寝ているのか念入りに確かめてみた。
小さな声で、「久志お兄ちゃん」と呼んでみたが返事はしない。ドキドキしながらも今度は普通の声で呼んでみた。が、やはり返事はなかった。今度はちょっと体を揺すってみたが、それでも起きる気配はない。どうやら本当に熟睡しているらしい。
それでも僕は、これからしようとしていることが、誰にも絶対に知られてはいけないことだという緊張感から、あと少しだけ待って、久志お兄ちゃんの熟睡を確認することにした。
廊下の電気を付け、部屋のドアを少しだけ開けて明かりを取った。こういう時の時間の流れは恐ろしく遅く感じる。まだ一分しか経っていないのに、もう何分も待っている気がする。楽しい時はあっという間に過ぎるように感じるのに、こういう時はとてもゆっくり流れているように感じる。時間とは不思議なものだ。
今から久志お兄ちゃんで実験する前に、僕は過去自分に起きた二例の不思議な出来事をもう一度思い返してみた。そしてお母さんが分析した、法則と言えるかもしれない幾つかの点と、今日確かめるべき点を再確認し、これからすることを脳内シュミレーションした。
そして、さっき計画外でついた、久志お兄ちゃんの手の甲の傷を僕にうつしてみるか、最初の計画通り、僕の傷を久志お兄ちゃんにうつしてみるか、どちらを選択すべきかを考えてみた。と言うのは、小学校五年生の時のことを考えると、一人の人に対してどちらかしかできない、つまり、うつすか、うつされるかしかできない可能性が高いからだ。それで、優先順位を決めておかなければいけないと思ったのだ。
僕の中では、自分の病気や傷をうつすことは、小学校五年生の時に、すでにお姉ちゃんで実証済みと思っている。そうであれば、僕の記憶がない三歳の時に起きた、相手の病気や傷を自分にうつす方を試すべきだろうと思った。それをするなら、今回、偶然にもついた久志お兄ちゃんの手の甲にある引っ掻き傷は、最適の条件ではある。
しかし気になることも幾つかあった。一つの問題は、手の甲の傷を久志お兄ちゃんから僕にうつして、その後戻せなかった場合(もちろんその可能性の方が高いのだが)、久志お兄ちゃんの手の甲の傷が突然消えたことと、僕の手に傷がうつっていることをどう処理するかだ。そしてもう一つの問題は、小学校五年生の時のことを考えてみると、意図した病気や傷だけをうつせる訳ではないという点だ。もしそうだとすると、久志お兄ちゃんが病気を持っていたり、身体の別の部分にも傷がある場合、それもうつってしまうということだろう。
いずれもかなりリスクと解決の難易度が高い問題だと思った。でもこのチャンスを逃すわけにはいかない。何としても今日、実行に移さなくてはいけない。何か良いアイデアはないだろうか……。
少し考えた末、こう結論した。とりあえず、久志お兄ちゃんが持っているかもしれない病気が、僕にうつってしまう可能性については諦めるしかない。病気に関しては、外見を見ただけでは分からないからだ。傷については、久志お兄ちゃんの外見をざっと見た所、手の甲の他にはない様ではあるが、病気と他の傷という点に関しては、うつることも仕方がないと、覚悟を決めるしかないと思った。
問題はやはり、手の甲の傷が久志お兄ちゃんから消えてしまう件の方だ。お姉ちゃんも結実、結莉も、久志お兄ちゃんの傷を見ている。急に消えていたら、特にお姉ちゃんには僕が能力を使ったことがばれてしまう。
この問題は、どれだけ考えても答えが出ないように思えた。それでここはもう、申し訳ないが、もう一度久志お兄ちゃんに同じ傷を負ってもらうしかないだろう。つまり僕が爪で久志お兄ちゃんの手の甲を引っ掻くのだ。当然久志お兄ちゃんは痛くて起きてしまうだろうけど、大丈夫かなと思って触ってしまった、と言えば、酔っているし寝ぼけているだろうから、なんとかごまかせそうだ。僕の方にうつった傷は、適当にずっとポケットに手を突っ込んでいたら、お婆ちゃんの家にいる間ぐらいはなんとかなるだろう。その後のことは、その時また考えるしかないだろう。
もうこのプランで行くしかないと思う。これ以上考えたところで、これを上回るアイデアは出てこないだろう。では、これでやるしかない。僕は本当に覚悟を決めた。
もう一度久志お兄ちゃんにゆっくりと近づいてみる。やはり、いびきをかいてぐっすりと眠っている。もう様子を見だしてから十五分以上が経過しているが、流石にこんなに長く寝たふりする暇人もいないだろう。
久志お兄ちゃんの額に手を置く。自然と僕の利き手である左手を置いた。本当に再現出来るのだろうか。三歳の時に起きたという出来事、そして小学校五年生の時の出来事は現実なのだろうか。
迷いはあったが、久志お兄ちゃんの傷が僕にうつれと心の中で思ってみた。
……。
しかし、何も起きない。やはり声に出さないとダメなのだろうか? いや、お姉ちゃんに風邪と傷をうつした時は、声は出さなかった。今回と何が違う? 考えてみろ、と自分に言い聞かせてみる。本気度だろうか? 疑いを持たず、心からそう願わないとダメなのか?
僕は目をつむり、自分には能力が必ずあると、自分自身に強く言い聞かせた。その上でもう一度、今度は疑わず真剣に、久志お兄ちゃんの傷が僕にうつれ! と強く念じた。
途端に僕の左手と久志お兄ちゃんの額の間が光った!
やった! 成功だ! やはり現実に僕は特別な能力を持っているのだ!
数秒経ち、僕の右手の甲に薄っすらと傷が滲んできた。そして、傷が濃くなってくるとともに、ジンジンとした痛みも段々と強くなってきた。傷も痛みも時間の経過と共に徐々にうつってくるようだ。それに対して久志お兄ちゃんの手の甲の傷は、どんどんと薄くなってゆく……。
忘れられない不思議な光景だった。正確に測った訳ではないが、五分程で傷は完全に僕にうつり、久志お兄ちゃんの手の甲の傷は完全に消えた。
実験の第一段階は成功したが、ここで困ったことが起きた。傷がうつってくる約五分間の過程で、僕は目の前がグワングワンし、具合が悪くなってきていたのだ。どうしてなのか分からない。久志お兄ちゃんは何かの病気を持っているのだろうか?
少し悩んだが、僕はすぐに理由を理解した。なぜなら、自分の吐く息がお酒臭くなっていたからだ。そう、僕はお酒に酔っているのだ。
そう言えば以前、学校の道徳の時間に、なぜお酒は二十歳を過ぎてからなのか話されたことがある。体の中ではアルコール分は毒と認識される。アルコールは体内でアセトアルデヒドという毒に変化するらしいが、それを肝臓が分解してくれるそうだ。子供はまだ、肝臓の機能も未発達の状態なので、肝臓の分解能力が低く、急性アルコール中毒になる可能性が高いため、お酒を飲んではいけないという説明だった。そのことを考えると、アルコールの入った体は、いわゆる毒に汚染された状態ということなのだろう。それで、傷と一緒にアルコール分も病気として僕にうつってきたと考えるのが妥当だろう。
でもこれは厄介なことになった。久志お兄ちゃんはお酒をかなり飲んでいたと思う。このままだと僕は急性アルコール中毒でぶっ倒れるんじゃないだろうか? それに、アルコール分が僕にうつってきたということは、久志お兄ちゃんがすでにしらふになっているということであり、第二弾を実験しようとして額に触ったら、しらふ故に熟睡度が下がり、すぐに起きてしまうのではないか? ましてや、久志お兄ちゃんの手の甲に引っかき傷なんてつけられないだろう。
こんな緊急事態なのに、どんどんと思考能力が低下していくのが分かる。お酒とは恐ろしいものだ。それでもグワングワンする頭で何とか考え、とにかくもう一度久志お兄ちゃんに、傷とアルコール分をうつせないかやってみることにした。酔ったせいか、バレたらバレたで仕方ないと気も大きくなっていた。
再度久志お兄ちゃんの額に手を置き、僕の傷とアルコール分が久志お兄ちゃんにうつれ! と念じた。状況ゆえに本当にそうなってくれと心から願った。しかし、何も起きなかった。
ある意味思った通りだったが、それでも僕はショックを受け愕然とした。どうしたらよいのだろう……。傷……酔い……。でもそれと同時に、また一つ法則をはっきりと理解したという満足感もあった。
お姉ちゃんにうつした風邪と傷は、あの時僕に戻すことができなかった。あの時とは逆だが、つまり今回は、自分に傷をうつしてみたのだが、いずれにしても一度うつしたものを元に戻すことはできないという法則が、この能力にはあるということだ。だからあの時も何度も、色々な方法を試しても、お姉ちゃんを元に戻せなかったのだ。
だが、満足感に浸っている場合でもない。この状況をなんとかしなければいけないのだ。だがもう想定できるプランは他になかったし、頭がグワングワンしっ放しで、まともにこれ以上考えることもできないと思った。それで最終手段として、もうどうにでもなれ! という思いで、久志お兄ちゃんの手の甲を思いっきり引っ掻いた。
久志お兄ちゃんは、「痛てー!」と叫んで飛び起きた。そして、「優馬何すんだよ!」と言って電気をつけた。久志お兄ちゃんが、血の出ている手の甲を見ている。僕は、「さっきの傷は大丈夫か見ようと思って触っちゃったんだ。ごめん」と言った。
久志お兄ちゃんは僕の話を聞いていないようだ。しばし手の甲を見つめ、「あれ? 左手だったっけ?」と言った。
まずい……。かなりまずい……。
僕は頭がグワングワンして、思考力が低下していた為、右左を間違ったらしい。痛恨のミスを犯してしまった!
しかし、久志お兄ちゃんは、「ま、いっか……。痛いんだからさ、触らないでくれよな!」と言って僕を軽くどついた。そして僕をじっと見て、「おいおい、随分顔が赤いな。え? 優馬お前、酒臭いぞ。まさか飲んだのか?」と言った。
もうここは飲んだことにするしかない。
「ごめんなさい。どうしても飲んでみたくなって。でも、みんなには言わないで」
「どうしてもって……。そんなにか? まぁ、俺も子供の頃いたずらして飲んだことはあるけどさ。ちょっとだぞ、ちょっと。優馬、お前はどんだけ飲んだんだよ!」
あんたがどんだけ飲んだんだよ! と思ったが、言っても通じる訳がない。
久志お兄ちゃんは、「とにかく水飲んで薄めろ」と言って、台所に水を取りに行ってくれた。
酔っていて、本人も引っかかれたのが右手か左手か覚えていなかったのか、もともと深く追求しない楽天的な性格故か、いずれにせよ、とにかく助かった。でもまさか左右を間違えるとは……。本当に危ないところだった。
久志お兄ちゃんが持ってきてくれた水を無理矢理沢山飲んで、僕は横になった。
久志お兄ちゃんは、「とにかく寝るのが一番だ。誰にも言わないから安心しとけ」と言って電気を消した。そして布団に入ってからボソッと、「俺、アルコール抜けるの早えー」と呟いた。
僕はグワングワンと闘っていたが、気が付くといつの間にか眠りに落ちていたようだ。
どれぐらい眠ったのだろう。起きると今度は頭がガンガンしていた。これはきっと二日酔いというやつなんだろう。中学生で二日酔いを経験する人もそうはいないだろう。そんなことを考えながら、壁にかかった時計を見ると、夕方の四時だった。どうやら半日眠っていたようだ。
しばらくボーッと天井を見ていると、部屋に久志お兄ちゃんが入ってきた。
「目、覚めたか? どんな感じだ?」
僕は、「頭がガンガンしてるよ」と答えた。
「そうだろう。それな、二日酔いって言うんだぞ。ひどい時は三日酔いまで行くからな」
久志お兄ちゃんは得意げに説明している。知ってるよ! と思ったが、黙って聞いていた。
「まぁみんなにはさ、優馬が徹夜して、きつそうだったから起こさないでやってくれって言ってあるから大丈夫。お前が酒飲んだことは言ってないから」
久志お兄ちゃんは本当に優しい。
「俺、今夜の夕食のケンタッキーと寿司買って来いって言われてるから行くわ。優馬連れて行こうと思ったけど、その様子じゃ無理だわな。もう少し安静にしてろ」
そう言って、久志お兄ちゃんは部屋を出て行った。
僕が本格的に立ち上がることができたのは、翌日の朝九時頃だった。前日の夜、一度お母さんが様子を見に来て、食事を食べないのか聞いてきたが、とにかく眠いと言ってやり過ごした。正直、具合が悪くてトイレ以外立ち上がりたくもなかったし、頭が割れそうに痛かったからだ。
二十八時間寝たので、流石にアルコール分も体から抜けたらしく、頭が痛かったのも治っていた。これだけ寝ると、寝る前の出来事が夢なのか現実なのか分からなくなる。もしかすると僕は本当にお酒を飲んで、酔って空想の世界に行ってしまっただけなのだろうか? などと、まだ覚醒し切れず、ぼーっとした頭で考えたりした。
しかし右手の甲に目を向けると、久志お兄ちゃんからうつした引っ掻き傷がしっかりとあり、その傷がようやく僕を現実へと引き戻してくれた。
そういえば、久志お兄ちゃんの方の手の甲の傷は大丈夫だったろうか。お姉ちゃんや双子姉妹が久志お兄ちゃんを見て、傷がついた手が右から左に変わったことに気付き、僕が寝ている間に大問題になったりしていないだろうか。
そんな不安を抱えつつ、右手をズボンのポケットに入れて、僕は居間へと出て行った。
恐る恐る居間のドアを開けると、お婆ちゃんが僕を見て、「あら優馬、おはよう」と言った。近くにいたお母さんも僕に気付いて、「徹夜なんかするからよ。全くもう。何か食べる?」と聞いてきた。僕は、「うん」とだけ答えた。この雰囲気だとバレてはいないようだ。僕はホッと胸をなでおろした。
悟おじさんは新聞を見ているし、正義おじちゃんはテレビを見ている。親族一同が集まった日の、いつもの朝の光景だ。ただ、おばさんたちと女三人衆、それに久志お兄ちゃんがいない。僕はお母さんに、「他のみんなは?」と聞いてみた。
「美夏達はついさっき、久美子さんと四人でショッピングモールに買い物に行ったわよ。美代子さんと久志はもう帰ったわ。今日の夕方、久志が彼女とデートの約束してるんだって。あの子も隅に置けないわね」
「え? 久志お兄ちゃん帰ったの?」
僕に何も告げずに帰るとはなんて冷たいんだ。それに彼女がいるなんて、僕には一言も言わなかった。まぁ確かに自分に彼女がいるなら、「だからお前らモテねーんだぞ!」発言も説得力があるな、などと、どうでも良いことを思った。
今回は実験台にもしてしまったし、本当は僕が飲んだ訳じゃないけど、お酒のことも内緒にしてくれたし、ずっと寝ていた自分のせいでもあるから仕方がないか。
そんなことを考えながら出された朝ごはんを食べていると、悟おじさんが、「優馬、今日はおじさんと一緒に寝るか? 男同士の話でもしようかな」と言ってきた。
僕が、「美代子おばさんは、なんで久志お兄ちゃんと一緒に帰ったの?」と聞くと、悟おじさんは、「明日の朝の久志の弁当を作らないといけないからだと。子離れ出来ないんだよなー」と呆れたように答えた。
美代子おばさんも帰ってしまったし、きっと寂しいのだろう。それに悟おじさんは昔からお母さんに、「男の子には父親が必要だって!」と言っていた。そして年に二回の、親族が集まるこういう時はいつも、僕を気にかけてくれ、お父さんのように接してくれていた。久志お兄ちゃんと同じで、悟おじさんも、お父さんとはこんな感じなのかな? と思える、すごく優しい人なのだ。
それでも素直になれない僕は、「考えとくから」とだけ答えた。
食事を終えてシャワーに入ることにした。ずっと寝ていたせいだが、もう二日もお風呂に入っていない。でも第一の目的は、裸になって、久志お兄ちゃんの体から別の傷や病気がうつってきていないか、それを確かめたかったからだ。体に感じる異常は今のところないが、何か外傷があるかもしれない。
恐る恐る服を脱いで、全身を確かめていった。鏡に映った顔から首、背中とお尻、今度は目視で肩から胸にかけて、腹、腿から下……、特にどこにも外傷は見当たらない。
と、視線が足元まで行った時、「やられた!」と思わず声が出た。久志お兄ちゃんは水虫だったようだ。足の皮の至るところがめくれていて、特に右足の中指と薬指の間はちょっとジュクジュクしていた。気づいた途端、僕は無性に足が痒くなった。急いでシャワーに入り、何度も水虫を擦ったが、どうにもならなかった。とてもがっかりしたが、いつまでもお風呂場にいても仕方がないので、とりあえずお風呂場から出た。
お風呂場から出てきて、僕は気晴らしにおばあちゃん家の周りを散歩することにした。水虫の件を考えると凹むので、じっとしていたくなかった。
お婆ちゃんは犬を飼っていた。熊五郎という名前で、柴犬っぽいのだが雑種らしい。ご近所さんの犬が子供を産んだ時に貰ってきたそうで、もう三年くらい飼っている。
僕は熊五郎を借りて散歩することにした。
お婆ちゃん家を出て少し行くと大きな川がある。その川沿いが公園になっていたり、グランドになっていたり、大きな原っぱになっていたりするのだ。小学生の頃は毎度、久志お兄ちゃんとここに来てキャッチボールやサッカーをしてもらっていた。
他に人がいなかったので、僕は原っぱになっている場所で熊五郎を鎖から放してやった。熊五郎は勢い良く川の方へ駆けて行き、川縁を走り回っている。
熊五郎を見ながら、この、手の甲の傷をなんとかしたいと思っていた。ずっとポケットに手を突っ込んでいるのも限界がある。傷が治るのにもそれなりの時間がかかる筈だろうから、最後までお姉ちゃんに発見されずになんとかなるとは思えない。それに久志お兄ちゃんで実験したことがお母さんにも伝わったら、大目玉を食らうに違いない。そしてずっと警戒されて、お互いに居心地が悪くなってしまうだろう。現状、只でさえ警戒されているように感じるのに。そしてこの水虫もいらないのだが……。僕は深くため息をついた。
熊五郎はひとしきり走り回ると、ハアハアしながら僕のところに戻ってきた。そして原っぱの土手になっているところに座っていた僕の前にちょこんとお座りした。
「お前は悩み事がなくて良いなぁ……」と、僕はポツリと呟いた。熊五郎が落ち込んでいる僕を慰めてくれるかの様に、僕の顔を舐め始めた。まるで、「おいらが悩みを解決してあげるよ!」と言ってくれているようだ。いや、これは単に希望的見解だろう。それでも僕は熊五郎に、「ありがとう」と言って、頭を撫でてやった。
「お前、悩みを解決してくれるってことは、この傷と水虫を引き受けてくれるのか?」
熊五郎の両頬を挟みながら話しかける。
人間とは不思議な生き物だ。返事をしないと分かっている動物や、鳥や、虫にでさえ話しかけることがある。木や花に話しかける人もいる。究極は生き物じゃなくても話しかける時があるけれど。
そんなことを考えながら、ふと思った。
(本当に熊五郎に傷と水虫をうつせないだろうか?)
もちろん可哀想だとは思うが、もし人間以外でも通用するならこれは凄いことだ。駄目で元々なのだから実験してみる価値はある。そう思い実験してみることにした。
久志お兄ちゃんの時のことを思い出すと、半信半疑ではいけない。心から信じて望んでいなくてはいけないのだ。それで僕は、人間以外でも通用するのか? と疑う心を正し、必ず熊五郎にうつせる! と自分に信じ込ませた。
普通に考えたらあまりに滑稽だろうと思う。でも、その時の僕は真剣だった。
熊五郎の額に左手を当て、僕の傷と水虫が、熊五郎にうつれ! と念じた。
すると、なんと僕の手のひらと熊五郎の額の間が光ったのだ!
久志お兄ちゃんからうつした右手の甲の引っ掻き傷が徐々に薄くなってゆく。そしてうつした時と同じように、約五分で完全に僕の傷は消えてしまった。熊五郎の右手の甲を見てみた。びっしりと毛で覆われているため、傷は全く目立たなかったが、よく見ると毛の奥の皮膚は確かに傷ついていた。僕は慌てて靴下を脱いで水虫を確かめた。こちらもすっかり消えていた。恐る恐る熊五郎の右後ろ足を裏返して見てみると、中指と薬指に該当すると思われる肉球の間の毛がなくなっており、赤くジュクジュクとしていた。僕は熊五郎に本当に申し訳ないと思いながらも、この実験の成功と、人間以外の動物でもうつすことが可能であるという事実に歓喜した。
お婆ちゃんの家に帰る途中で、僕はこの能力を不動のものとすべく、もう一度実験することを決意した。今朝、悟おじさんが一緒に寝ようと誘ってきたことを思い出したのだ。悟おじさんは五十肩だと言っていたので、それを僕にうつしてみるのだ。五十肩は外見からは分かる訳ではないし、好都合の体の不具合と言える。それにこれは人助けにもなる。悟おじさんは五十肩が治って喜ぶに違いない。もし他の病気を持っていたとしても、動物にうつせると分かった今、恐れることは何もなくなった。
僕は意気揚々とお婆ちゃんの家への道のりを歩いた。
夜になり、悟おじさんと僕は就寝部屋に入った。悟おじさんは僕に色々な事を話してくれた。久志お兄ちゃんが僕ぐらいの時にしでかした悪さのことや、逆に悟おじさんが感心した久志お兄ちゃんの良いところなどの話もあった。可笑しくって、僕は笑いながら聞いていた。だが、悟おじさんは急に真面目な話をしだした。それは僕が生まれる前に死んだ、僕の父親の話だった。
「優馬、どうしてもお前に話したいことがあるんだ。もうお前も中学二年生だからな。これから大人の男に成長していくのに、お前の父親のことをちゃんと話しておきたい。多恵は嫌がるだろうけどな。だからこれは俺とお前の秘密だ」
そう言って、悟おじさんは話を始めた。
「俺はお前の父親が大好きだった。お前も知っているように、健とは同級生だった。ガキの頃からよく一緒に遊んだよ。健は昔から優しいやつでさ、自分の持ってるもので、俺が持ってないものはなんでも貸してくれたよ。一番覚えているのは高校生の時だ。そういえばお前ん家に、まだ健の形見のエレキギターあるか?」
いきなり質問を振られたので、一瞬戸惑ったが、僕は物置の奥に、弦も切れてなくなっている古いエレキギターがあるのを思い出し、「あぁ、確かあるよ」と答えた。
「そっか……。多恵のやつ、ちゃんと取っといたか。実はあれな、多恵があのエレキギターを演奏してる健を見て、一目惚れしたっていう一品なんだよ。そういう思い出の品だ。だから捨てられないんだろうなぁ……」
悟おじさんは感慨深げに頷いている。
「ごめん。話逸れたな。俺らが高校生の時、グループサウンズって呼ばれる、バンド形式の音楽が流行ったんだわ。ザ・タイガースとかスパイダーズとかな。まぁ、分かんねぇか。とにかくかっこ良くって、バンドブームになったんだわ。当時楽器って凄く高くて、金持ちのボンボンしか持ってなかったんだよ。それなのになぜか、一般庶民の筈の健が持ってたんだよな」
悟おじさんは、今でも腑に落ちないといった風に首を傾げている。
「とにかく、健から見せてもらったそのエレキギターがかっこ良くてさ。でも高級品だろ? とても貸してくれとは、こっちからは言えないよな。それでもきっと俺の顔に、『貸して欲しい!』って、書いてあったんだろうな。まだ買ったばかりで自分も十分触ってなかっただろうに、健はなんと、俺に貸してくれたんだよ。あん時は本当に嬉しかったなぁ……」
悟おじさんは、今借りたばかりかのように嬉しい顔をした。
「でも俺は上手く弾けなくてさ。結構直ぐに諦めて、一ヶ月ぐらいで返したんだわ。健は、『まだ良いぞ』って言ってくれたけどな。その後、健は凄く練習して、エレキ上手くなってな。健はお前と一緒で左利きだったから、ギター逆さにもって弾くんだけどな。それがまたかっこ良くてさ、学祭でタイガースのコピー演奏したんだけど大受けだったんだわ。そん時、中学生だった多恵が見に来てて、一目惚れしたっていうわけ。健なんて、いつも家に出入りしてたから会ってる筈なのに、多恵にはステージでエレキを駆る健がかっこ良過ぎて、別人に見えたんだとさ。だから、『一目惚れ』なんだって」
確かにこんな話は初めて聞いた。そりゃ母親が自分の子供に話す話ではないよな。と思った。自分が母親だったら、恥ずかしくて子供に話せないだろう。でも、悟おじさんの話を聞いて、かっこ良いお父さんを見てみたかったと思った。
悟おじさんは話を続けた。
「こんなこともあったんだよ。俺さ、高校の時、結構なワルだったんだよ……」
いつも思う。この年代は高校の時ワルだった人しかいないのだろうか? 正義おじちゃんも、自分はワルだったと言っている。ワルだったということがかっこ良いと思う世代らしい。まぁ良いか。続きを聞こう。
「それでさ。俺が強いって噂が隣の高校まで伝わっちまってさ。隣の高校のワル連中が、『絞めてやる!』とか言って、呼び出しくらったわけ。ところが俺、実はさ、確かにワルではあったんだけど、そんなに強くはなかったんだよ」
やっぱりか……と思ったが、どうやらワルだったことは本当らしい。ところが、僕はこの発言に疑問を感じてしまった。ワルだったけど強くはなかったってどういう意味なんだろう? この時代のワルの定義とは何なのだろう?
また僕は一人で思考が暴走しそうになった。これはいけない。続きを聞かなければ!
「それでさ。呼び出された場所には行かないで、バックレようと思ったんだよ。でも健がさ、『行かないといつまでも、何回でも呼び出されるぞ』って言うんだよ。そして、『相手を待たせたら、それだけ腹立てて、こっ酷くやってやろうと思うだろうから、今回、覚悟を決めて行った方が良い』って言うんだ。けど俺は、『でも行かねぇよ!』って言ったんだ。そしたらあいつ、俺の知らないうちに代わりに行っちゃって、めちゃくちゃにボコボコにされて帰って来たんだよ」
僕は、父親は変わった人だと思った。なんで悟おじさんの代わりに殴られに行くわけなのか? でも、悟おじさんは涙目になって話を続けた。
「あいつは本当に優しいやつなんだよ。俺が、『なんでそんなことしたんだ』って聞いたらさ、『お前が友達だからだよ』って言ったんだ。優馬わかるか? この一言の重さが」
悟おじさんは、僕のお父さんに今でも深く感謝している様子だった。
僕は、「うん。多分」と答えた。でも本当は、はっきりとは分からなかった。僕にはそこまで、つまり誰に対しても、人の身代わりになっても良いと思える程の、優しさや愛情が自分にはないように感じたからだ。自分が代わりに殴られても良いと思える様な友達なんていない。だから、お父さんを変わった人だと思ったのだ。小学校五年生の時に、お姉ちゃんに風邪をうつしてやりたいと思ったこと、久志お兄ちゃんを実験台に使ったこと、熊五郎に傷と水虫をうつしたこと……、考える程お父さんと僕は性格が違うと思った。もしかすると僕は、実は残酷な人間なのかもしれない。悟おじさんの話を聞きながら、僕は自分が嫌になってきた。
そして悟おじさんは、話の核心となることを語り始めた。
「優馬、お前は健が交通事故で死んだと聞いてるよな?」
「うん。そうだけど……」
何? 違うのか? 僕は心臓の鼓動が早くなっているのを感じた。
「実は交通事故で死んだ訳じゃないんだ。健は、職場の同僚の身代わりになって死んだんだよ」
身代わり? どういう意味だろう。悟おじさんは話を続けた。
「健が何の仕事してたかは、お前も知ってるよな?」
「うん。お母さんから聞いたことあるよ。自動車販売会社の営業部にいたんでしょう?」
「ああ、そうだ。その仕事であいつが可愛がっていた、二個下の後輩がいたんだよ。そいつがさ、最初、健と同じ営業部で入社したんだけど、営業成績が悪くてさ、車両整備部に回されたんだよ。でも、整備士の資格とか持ってなくてな。いわゆる雑用ばっかりさせられていたわけだ。まぁ、会社としては、そいつに辞めて欲しかったんだろうな。ところがそいつ、三ヶ月後には結婚することが決まっていたそうなんだ。そりゃあ、いくら肩叩かれても辞めるわけにいかないよな。結婚式直前に失業しましたなんて、先方の家族に言えないもんな。石にかじりついてでも頑張るわな」
大人の世界というのは本当に複雑だ。なぜ素直に失業したと言えないのだろう? もし、その人が仕事を辞めたら、結婚はなしにでもなるのだろうか? そんなに疎まれている状況で、果たしてその人に仕事を続ける意味があるのだろうか?
僕が相槌を打たないので、悟おじさんは、「優馬、寝たのか?」と聞いてきた。
僕は、「いや、ちゃんと起きてるよ」と答えた。
「それでな、まぁ仕事のできない不器用なヤツっていうのは、どんな仕事させても大抵不器用なんだわ。ある時、『リフトアップされている車を下ろしとけ』って言われたみたいなんだが、……リフトアップって、お前、分かるよな?」
「分かるよ。お母さんの車の点検について行った時、見たことある。車の底を見るために上げるやつでしょ?」
「そう、その通り。ところがそいつ、車の下に廃油入れのドラム缶置いたままなのに、気付かなくてそのままリフト下ろしたわけ。そんで、リフトが下り始めてからドラム缶に気付いたらしいんだけど、普通はリフト停めてからドラム缶取りに行くと思うだろ? ところがそいつ、慌てちまって、急いで車の下に入って行って取ろうとしたんだって。で、車の真下で転げて、ドラム缶は転げた勢いで体が当たって、弾かれて外に出たんだけど、本人は逃げ遅れてな。ちょうどそこに健が営業から帰って来て、その現場に遭遇したみたいなんだ。そしたら健のやつ、何を考えてるんだか、すかさずそいつ助けるのに、車の下に滑り込んで入ったんだって」
お父さんは何でそんなことしたんだろう。とっさに何も考えずに人を助けようとしたんだろうか?
「それで健は滑り込んだ勢いでそいつの手を掴んで、遠心力を利用してそいつを車の外に放り出したんだと。こういう時に出る力を火事場の馬鹿力って言ってな、普段なら出来ないようなことが出来ちゃうわけよ。まぁ、とにかくその時点でもうリフト停めるのも間に合わなくて、健だけがそのまま車の下敷きになってしまったんだ」
何てことだろう。最初から自分は間に合わないことを知っていてやったのだろうか?
「それが原因で死んだの?」と僕は悟おじさんに尋ねた。
「まぁそうだ。でも、みんなが慌ててリフトを上げた時、実はまだ生きていたそうだ。恐らく、その時点で内臓破裂していてダメだったとは思うけど、健はなぜかみんなの制止も聞かず、胸を押さえながらヨタヨタとウサギ小屋に向かって行ったそうだ。そこの会社、社長さんの趣味で、会社の裏でウサギを飼っていたんだって。まぁ、ウサギ小屋に辿り着く前に倒れて、そのまま死んでしまったんだけどな。多分、最期の時を迎えて、意識が錯乱していたんだろうな……。家族のところに行こうと思ったのかもしれない」
僕はドッキリした。それはお父さんの死の真相を知ったことよりも、お父さんがウサギ小屋に向かったということの方に非常に興味を掻き立てられたからだ。この話を聞く限り、僕の持っているこの能力はお父さんから遺伝したんだと直感した。
そしてこの話を聞いて、お父さんが高校生の時、悟おじさんの代わりに殴られに行ったという先程の話もようやっと納得出来た。恐らくそれは、どんな怪我をさせられても治る確信があったからなのだろう。そして会社の後輩を助けたのも、恐らく勝算はあると思ったに違いない。一か八かに変わりはなかっただろうけれども。でも、きっと考えていた以上にダメージが大きくて死んでしまったんだろう。
僕が黙ったままなので、悟おじさんは、僕が相当ショックを受けていると思ったのかもしれない。それでしばらく沈黙があったのだが、「ごめんな。こんな話聞かせちまって。でも、俺が言いたいのはな……」と、また話始めた。
「お母さんがお前に、何でこの話を黙っているか、お前分かるか? ってことなんだ」
見当が付かなかった。それで素直に、「分からない」と答えた。
「健はな、お前がお腹にいる時から、『生まれてくるこの子は俺の分身だ』って、多恵にずっと言ってたんだよ。美夏の時には言わなかったくせにな。それで生まれたのが男の子だっただろ。多恵は、分身ってことは健と優馬が同じ思考パターンを持ち、同じように感じ、同じ生き方をするんじゃないかと恐れているんだよ。つまり、人の為に自分の命すら投げ出す人間になることを。それで多恵は健のことをほとんどお前に話さないんだ。話せばもっと健の考えに感化されるんじゃないかと恐れているんだろう。でも俺は、血は争えないと思ってる。健のことを話さなくたって、いずれお前はそういう人間になる。お前がガキの頃から見てるんだ。お前がどんなやつか俺にも分かるさ」
本当に僕はそんな人間なのだろうか? つまり、父親のような人格の人間なのだろうか? 分からない。
「それでな、多恵は俺がこの話をしたことを知ったら怒るんだろうけど、お前に真実を話しておきたかったんだ。いいか、多恵を、いや、お前の母さんを悲しませるな。もちろん、人を助けることは良いことだ。でも、自分の命を投げ打つ前に、自分の家族のことを考えろ。一歳の娘と身重の女房を残して人の身代わりになって死んだ、お前の父さんのようにはなるな。俺に言わせれば、健は自殺したのと同じだ。その後の多恵の苦労はお前も知ってるだろ?」
まぁ、一緒に住んでいるのだから、当然見えている部分はある。でも、お母さん自体は、苦労はしていてもそれを苦にしている様子はなかった。ただ、もしかすると僕たちのために、そう振舞っているだけなのかもしれない。確かに、子供には分からないこともあるのだろう。
「最後に、ついでの話を教えてやる。俺さ、多恵に毎回再婚しないのか聞くだろ? なんでだと思う?」
「知らない」
「健は結婚した時からずっと、多恵にも俺にも、自分に万が一のことが起きたら、多恵には再婚して幸せになって欲しいって言ってたんだ。今考えるとそんな縁起でもないことを言ってるから、本当にそうなっちまったのかもな……。とにかく、俺は健の望みを叶えたいんだが、多恵が頑として再婚はしないと譲らないんだ。まぁ、俺としては嬉しいような、健に申し訳ない様なだがな」
悟おじさんはそう言うと最後に、「これは男同士の話だからな。母さんには言うなよ」と言って布団に潜り込んだ。
僕には衝撃的な話だった。もちろん、お父さんの死の真相を初めて知ったという点でもそうだったのではあるが、僕の能力のルーツが分かったと同時に、この能力を過信することの恐ろしさも分かったからだ。僕にとってはむしろ、そのことの方が衝撃だった。この能力は過信すると命にかかわるということが、お父さんの死の真相を通して、僕の中で現実味を帯びた。薄々感じてはいた部分ではあるが、一気に僕の中でこの能力に対する恐怖心が芽生えたのだ。
しかし、お父さんが万が一のことをいつも心配していたということは、この能力を常用的に使っていたということだろう。直ぐに思いつくのは人助けだが……。病気や怪我で苦しんでいる人を見過ごせず、常に助けていたのだろうか? 映画に出てくるスーパーヒーローみたいに、素性を明かさず活動していたのだろうか? お父さんが死んでしまっている以上、真実は分からないままだ。
ところでお母さんは、お父さんの能力のことを知っていたのだろうか? 察するに、恐らく知らなかったと思う。なぜなら僕が三歳の時のことを、「不思議なことが起こった」と話してくれたからだ。もし、お父さんから受け継いだ能力だと知っていたら、さっきの悟おじさんの話からすると、僕がお父さんと同じ人生を歩まないように、僕にそんな話はしなかった筈だ。それに小学校五年生の時も、お母さんは原理をよく分かっていなかった。知っていたら、あんなに色々なことを僕にさせなかった筈だ。
だが、感の良いお母さんのことだから、小学校五年生の時のことで、お父さんが同じ能力を持っていたと直感したかも知れない。だから、「その能力は二度と使うな」と言ったのかも。それとも考え過ぎだろうか? 僕はウサギのくだりで、お父さんに僕と同じ能力があったとピンときた。でもそれは、僕が今日熊五郎で実験して、動物にもうつせると分かったからだ。つまり動物にもうつせることを知っている人間でない限り、ウサギのくだりで、特殊能力を持った人間だったのかもしれないと、ピンとくることはないだろう。
こういうことを総合して考えると、お母さんは気付いていないと考える方が妥当だろう。
僕は混乱し、色々な考えが頭に浮かんだ。次々に疑問も湧き上がってくる。その感覚に圧倒されそうになった。ただ、色々考える中で強く思ったのは、やはりこの能力は絶対に人に知られてはいけないものだということだ。お父さんも、お母さんにでさえ知られないようにしていたのだから。他人が知ったら、利用されるか恐れられるか、やはりそうした種類の能力には変わりないのだろうと思った。
僕が色々なことを考えている間に、悟おじさんはすっかり眠ってしまったらしく、スースーと寝息が聞こえてきた。
当初僕は、悟おじさんで更に実験を重ねるつもりでいた。しかし、今ここに来て迷いが出てきた。悟おじさんの話を聞いて、この能力を恐怖に感じる今、このまま封印することにするのなら、かえって知りすぎるべきではない様に思えるからだ。
しかし同時に、極めたいと思う気持ちも湧き上がってきている。これはお父さんから受け継いだ遺産だ。お父さんに、お前は俺の後を継がなければいけないと、そう言われている様にも感じた。
本当にどうしたら良いのだろうか? クラーク・ケントやピーター・パーカーはそれぞれ亡き父親からのメッセージが残されていた。父親たちは息子に道を指し示すのだ。
お父さんは僕に何かメッセージを残してくれてはいないのだろうか? 「この子は自分の分身だ」と言っていたからには、何かを僕に期待して、大人になった時に僕が知るためのメッセージを残した可能性はあると思う。もしそうだとすると、やはりある程度確信に至る法則を知っておいた方が良いのかも知れない。機会を逃さず、ここは実験を継続すべきではないだろうか。
それに、恐怖に打ち勝つには、それを自分が適正にコントロール出来るという確信が必要だ。その確信があれば、この能力の正しい使い方もまた理解出来るのかもしれない。
自分に都合の良い解釈をしたとも言い切れないが、僕はそう考えて、やはり悟おじさんでも実験をすることにした。
悟おじさんの額に左手を置いた。もう五回目だ。緊張はしたが、覚悟を決めたせいか動揺はしなかった。僕の手のひらが、一瞬明るく光った。
翌日、目が醒めると右肩が痛い。と言うよりは、右肩が痛くて目が覚めた。昨日の夜には気付かなかったが、微妙な角度で痛みが走る。どうやらこれが五十肩らしい。実験は、またもや成功した。
僕は十代で五十肩を経験した唯一の人間かも知れない。いや、正義おじちゃんの説明からすると、十肩と言うのか? そう思うとちょっと楽しい気分になった。こういう軽い程度の病気の場合、それをいつでも誰かや、動物にうつせると分かっている以上、気に病むことはない。ある意味気楽なものだ。だが、命にかかわるような病気や怪我を治してあげたいと思う場合には、こういうわけにはいかないだろう。
そう考えると、今回の実験でこの能力を使うことに対する恐怖心を払拭出来たわけではない。それでも、こうした一つ一つの積み重ねで、この能力を理解し、自分のものにしていくしかないと思う。受け継いだ能力に逃げずに向き合う時、僕はまだ知らぬお父さんの意思を継げる者になれるのかもしれない。そう思った。
今日は親戚一同が帰る日だ。久美子おばちゃんの家族が朝一番に帰って行った。そして悟おじさんが、お昼ご飯を食べてから帰って行った。悟おじさんは車に乗り込んでから、「昨日の話は男同士の内緒の話だぞ」と小声で僕に言った。僕は、「分かった」と答えた。
悟おじさんはまだ、自分の五十肩が治ったことに気付いてはいないらしかった。この手の痛みはきっと、数日して、「あれ? 最近痛くないぞ……」と思う種類のものかも知れない。
皆が帰った後、お母さんとお姉ちゃんはお婆ちゃん家の後片付けを手伝い始めていた。普段使わない食器を出していたのでそれをしまったり、布団をしまったりしていたのだ。僕は、「熊五郎の散歩をしてくる」と言って外に出た。
熊五郎は小屋の前で、座った姿勢を取り、右後ろ足の裏を舐めていた。水虫が痒いのかも知れない。申し訳ないと思いつつ、熊五郎を連れて、また川縁の原っぱに行った。
お姉ちゃんの時に、そして今回久志お兄ちゃんでも証明されたのだが、一度うつしたりうつされたりした人物には、もう能力を使うことは出来ないらしい。でも、動物はどうなのだろう? 動物にも人間と同じ法則が当てはまるのだろうか? これは調べておかなくてはいけない重要事項だと思った。なぜなら今後、この能力を使う際には、誰かからうつされた病気や怪我は確実に他の人間ではなく、動物にうつし直すであろうからだ。それでこのことは確証すべく、もう一度実験する必要があると思ったので、僕は熊五郎を連れ出したのだ。
熊五郎の額に左手を置いた。五十肩がうつるようにと強く念じた。だが、やはり何も起きなかった。これで、僕の予想は確信になった。動物にも例外はなく、一匹に一度きりだと。ただ、本当に一度きりなのか、つまり例えば一週間、一ヶ月、半年、一年、あるいは数年経過後もそうなのかどうかは分からない。実験を重ねる必要はあると思った。
同時に、もし本当に一生に一度きりだとすると、僕はとんでもないミスを犯したことになるとも思った。つまりお母さん、お姉ちゃん、久志お兄ちゃん、悟おじさんに関して言うなら、もっと大きな病気をして、生死に関わる様なことになっても、僕は助けてあげることができないのだ。
風邪や生死に関わらない傷、五十肩。いずれにしても、たいしたことのないものに、この一度限りの大事な能力を使ってしまったことになる。確信を得るための実験として、久志お兄ちゃんと悟おじさんは仕方なかったと思う反面、一度きりなのではないかと薄々感じていたにもかかわらずやってしまったことは、僕に罪悪感を抱かせた。今は、後々後悔する様な事態、つまり、あの時能力を使っていなければ助けられたのに……と思うようなことが起きないことを願うしかない。
僕は熊五郎を連れ、少し憂鬱な気分と治せなかった五十肩を背負ってお婆ちゃんの家に戻った。