ルール(その一)
お母さんが小学校五年生の時にその話をしてくれたことには訳がある。
僕はその頃ヨーヨーが大好きで、近くのスーパーの前に設けられた特設会場で行われる予定の、ヨーヨーパフォーマンスショーを週末見に行くことを楽しみにしていた。二週間前から指折り数えてその日が来るのを待っていたのだ。ところがその日が近づいて、いよいよあと二日後という時に風邪をひいてしまい、ヨーヨーパフォーマンスショーが危うくなってしまった。お姉ちゃんはもともとヨーヨーには全く興味がなかった為、始めからその日はお婆ちゃんの家に遊びに行くことになっていた。
風邪をひいて完全にトーンダウンしている僕に近づいて来たお姉ちゃんは、ニヤニヤしながら、「優馬、残念だねぇ」と言ってきた。僕が、「まだ分からないもん。絶対治るもん」と言うと、お姉ちゃんは、「普段の行いが悪い人は、こういう時に残念なことになるんですぅ。絶対治らないから。ご愁傷様でしたぁ」と言って、舌を出してきた。
僕はカチンときたが、そもそも普段の行いで悪いことなどしていないと思ったし、なぜか絶対に治ると根拠もないのに信じていた。
まぁ確かにここのところ、ツイていないことは事実だった。今回の風邪だけではなく、一週間程前にはちょっとしたケガもしていた。
学校で図工の時間に彫刻刀を右手の人差し指に刺してしまったのだ。僕は左利きなので、左手で彫刻刀を持つわけだが、木版を押さえていた右手の方に彫刻刀が滑ってしまった。思ったよりもしっかりと刺さったみたいで、血がどんどん溢れ出てくる感じだった。
隣の女子はその出血具合にドン引きして固まっていたし、たまたま瞬間を目撃した先生もかなり慌ててしまい、「優馬くん! すぐに保健室! 保健委員さん、優馬くんを早く連れてってあげて!」と教室中に響き渡る程の大声で叫んだので、僕の失態は広く知られることとなってしまったのだ。僕は痛いやら恥ずかしいやらで教室を後にしたが、保健の先生がきちんと外科に行った方が良いという診断を下したため、お母さんが学校に呼ばれ、教室に戻ることもなく早退となった。
教室に戻るのも気恥ずかしかったのでそれはそれで良いのだが、そこは小学生のこと、翌日学校に行くと、「出血多量で死んだんじゃないのかよ」とか、「ゾンビが学校に来た!」とか、いいようにイジられて嫌な思いをした。
結局病院では、「傷口をふさぐために縫いましょう」と言われ、その時は小学校五年生には耐え難い恐怖を味わうことになったし、一週間後には抜糸しなければいけないと言われ、そのことを考えると怖くて怖くて、抜糸の日まで憂鬱な毎日を過ごした。それでもなんとか恐怖に打ち勝ち、無事に抜糸を終えることが出来たのだが、抜糸をした後の傷口を見ると割り算の記号のようなマヌケな跡が残っていた。
抜糸から三日しか経っていないため、傷口周辺はまだ赤く腫れたようになっており、指に力を入れたり傷口に触れると痛いので、傷には絆創膏を貼っていた。
こう考えてみると確かに残念なことが続いてはいるが、僕は決して普段の行いが悪いことはない。たまたま残念なことが重なっただけ。ツイていないだけなのだ。
普段の行いが悪いのは、むしろお姉ちゃんの方だろう。僕のおやつは平気で取るし、勝手に僕の色鉛筆も使うし、何かにつけて僕に言いがかりを付け、嫌味なことを言ってくる。そのくせ僕が同じことをすると、この世の終わりかのようにヒステリックに騒ぎ立て、結果、なぜか僕がお母さんに怒られることになるのだ。
だから僕は心の中では、お姉ちゃんこそ大事に時に残念なことになる人だと思っていたのだ。
特段、お姉ちゃんと仲が悪かったわけではないが、女性というのは難しい生き物だと、お姉ちゃんがいたためか小学生の時から思っていた。大人になってもそうだが、女性には決して口では勝てない。だから恐らく心のどこかでは、いつかお姉ちゃんをぎゃふんと言わせてやりたいと思っていたのだろう。
その日の夜になり、僕の風邪は悪化してきていた。熱は高くなり、明らかに明後日までに風邪が治り切るとは思えない展開になっていたのだ。お母さんは、「優馬可哀想にね。明後日のヨーヨーパフォーマンスショーまでに風邪が治るかどうか分からないけど、取り敢えずお薬を貰いに明日病院に行きましょう。今日は仕方がないから、家にある市販の風邪薬でも飲んで寝ましょうね」と言って、薬を飲ませてくれた。そしてその日は早めに三人で床に就くことにした。
我が家は母子家庭で裕福でもなく、狭い家に住んでいたこともあり、お姉ちゃんが中学校ニ年生になるまでは、家族三人同じ部屋で川の字で寝ていた。お姉ちゃんの高校受験に向けてお母さんは、何とか物置きにしていた部屋を片付け、お姉ちゃんが中学校三年生の時にその部屋を明け渡したわけだが、それまでは、僕、お母さん、お母さんを挟んでお姉ちゃんといった具合に眠っていた。
熱が上がっていたこともあり、なかなか寝付けなかった僕は、ふとお母さんの反対隣でスヤスヤと寝息を立てて眠っているお姉ちゃんを見た。何とも幸せそうだ。それを見ていると、先ほど言われた嫌味を思い出してだんだんと腹が立ってきた。なぜ別に明後日を何も楽しみにしていないお姉ちゃんは風邪をひかないのに、指折り数えて待ってきた僕がこのタイミングで風邪をひいて行けなくなってしまうのか。こんなのは不公平だ。僕じゃなくお姉ちゃんが風邪をひけば良かったのに。
そんなことを考えながらお姉ちゃんの方を見ると、さっきまでは気持ち良さそうに寝ていたお姉ちゃんが、眠りながらしかめっ面をして、時折、「うーん……」と呻いている。怖い夢でも見ているのだろうか。ちょっといい気味だと思った。でも、もしかしたらお姉ちゃんに僕の風邪がうつって、熱が出てきているのかもしれない。それならもっと良い気味だ。僕をバカにした罰だ。そんな風に思っていると、本当にお姉ちゃんが熱を出しているのか無性に確かめたくなった。
こっそりとお母さんを跨ぎ、お姉ちゃんの近くへ行ってみた。どうやら、顔をしかめているのは間違いないみたいだ。豆電球の灯りでは顔色までは分からない為、熱が出ているのかどうかは判断出来ない。僕はお姉ちゃんの額に手を当ててみた。熱はないようだ。つまりは、夢にうなされていただけのようだ。
それが分かって、僕は何だかがっかりした。僕の風邪がうつって、「お姉ちゃんも日頃の行いが悪いみたいですね!」と言い返してやりたかったのに……。そう思ったらまた怒りが込み上げてきて、僕の風邪が本当にお姉ちゃんにうつればいいと心から思った。
その瞬間、僕の手とお姉ちゃんの額の間が一瞬光を放った。僕は思わず、「うわっ!」と言って手を引っ込めた。
その声を聞いてお母さんもお姉ちゃんも目を覚ましてしまい、なぜ僕が二人の間にいるのかと、二人ともしばし、けげんな顔で僕を見ていた。お母さんが電気をつけて僕に言った。
「あれ? 優馬どうしたの? なんでそこにいるの?」
「いや、えっと……」
僕は言葉に詰まってしまった。とても、お姉ちゃんに熱があるか確かめようとしたとは言えなかったからだ。更に、今の不思議な出来事も話すべきではないと思った。それで、「目が覚めたらお姉ちゃんが布団を蹴っ飛ばしていたから、かけてあげてただけ」と、咄嗟に嘘をついた。お姉ちゃんは疑いの目で僕を見ていた。
「優馬がそんなに私に優しくしてくれるとは思えないけど! それに、『うわっ!』って何よ? 私がどうかした?」
またお姉ちゃんの嫌味攻撃が始まった。お母さんはお姉ちゃんをやさしく嗜め、「優馬、それ本当のことなの?」と僕に聞いた。
未だお母さんもお姉ちゃんも納得していない様子に、どうしたらいいのかと焦り、次の言い訳を考えたが、なかなか良い言い訳が出てこない。僕はお母さんとお姉ちゃんの視線に耐え切れず、顔を上げていることも出来なくなってしまった。
ちょっとした沈黙の後、様子見に恐る恐る顔をあげてみると、お姉ちゃんの顔がなんだか赤くなって来ており、少しキツそうだ。
「お母さん、私なんだか頭が痛い」とお姉ちゃんが言った。
「大丈夫? どれ」と言って、お母さんがお姉ちゃんの額に手を当てると、お姉ちゃんは熱が出てきていた。
「あら大変! これは優馬の風邪がうつったみたいね」というお母さんの言葉に、お姉ちゃんは、「信じられない! もう最低!」とふてくされた。
「風邪薬を持ってくるからちょっと待っててね。あと、冷たいタオルも用意するわ」
そう言ってお母さんは台所の方に行った。
お姉ちゃんは僕の方を睨みつけて、「もう! あんたのせいなんだからね!」と言うと、「ふんっ」とそっぽを向いてしまった。
何とか、これ以上の追及は受けなくて済んだようだ。僕はホッとすると同時に、今起きたことが何なのか怖くなった。なぜか僕の方は熱が下がり、体が楽になってきている。お姉ちゃんをぎゃふんと言わせてやろうと思っていた目的は達成されたものの、今起きた出来後の奇怪さ故に、僕は素直に喜ぶことが出来なかった。
台所から戻って来たお母さんは(もちろん突然に僕の熱が引いているとは思わないからだろうが)、僕の回復の様子に気付くこともなく、お姉ちゃんに風邪薬を飲ませ、僕とお姉ちゃんの二人の額に冷たいタオルを置いて、「さあ寝ましょう。明日は二人とも病院ね」と言い、再び明かりを消した。
僕は色々と考えてしまい、なかなか寝付けなかったが、そこはまだ子供、気がつくと朝になっていた。
お母さんに起こされ、熱を測るように言われた。僕はすでに平熱に戻っていると自覚していたが、言われた通りに熱を測った。
体温計がピピピッと鳴って、お母さんが体温計を僕の脇の下から取り出した。
「あら、平熱に戻ってるわね。昨日の夜まであんなに辛そうだったのに……。咳も出ていたのに、そういえば咳も止まったわね。風邪が突然治ったのかしら?」
お母さんは不思議そうに首を傾げながら、今度はお姉ちゃんに体温計を渡した。お姉ちゃんはすでに見るからに辛そうだったが、案の定高い熱が出ていたようだ。お姉ちゃんは寝ながら体温計を眺め、「もう、やだ……」と呟いている。
この時に大事件が発覚した。
お姉ちゃんは体温計を掴んだ手に、少しの痛みを感じたようで、次の瞬間、「何これ!!」と大声で叫んだ。
お母さんも僕も、お姉ちゃんの突然の大声に一瞬びっくりしたが、お姉ちゃんは大したことではなくてもいつも大袈裟なので、僕はお姉ちゃんの大声に慣れっこになっおり、また始まったか……と内心思った。お母さんもそんな感じで、またオーバーリアクションなのだろうといった風な顔をした。それでも優しいお母さんは、「え、何? どうしたの?」とお姉ちゃんに尋ねた。
僕は、お姉ちゃんの熱が思ったより高かったんだろう、などと安易に考えたが、今回ばかりは確かにそんなどころではなかったのだ。
なんと、お姉ちゃんの右手人差し指の、僕と全く同じところに、割り算の記号マークの傷がくっきりと出来上がっていたのだ! しかも傷の周りは赤く腫れており、痛々しい感じになっている。そう、まるで僕の彫刻刀でつけた傷がそっくりうつったように……。
「なんなのよこれ! 優馬の傷と一緒じゃない! どうなってるのよ!」
お姉ちゃんはもうパニックになっている。
お母さんもお姉ちゃんの指をまじまじと見て、「え? 何よこれ! どうしてこんなになってるのよ!」と言い、当たり前だが起きた事柄を理解出来ないといった風に戸惑っている。
ただお母さんは、僕の風邪が突然治り、お姉ちゃんが風邪をひいていることといい、お姉ちゃんに突然現れた、僕のとそっくりな傷のことといい、何かがピンと来た様子だった。
そう、お母さんは僕が三歳の時の出来事を思い出したのだ。
お母さんは少し落ち着きを取り戻し、ゆっくりと、何が起きたのか分かっているとでもいうように、「優馬、何したの?」と僕に聞いた。
僕はお母さんが、何かに気づいたに違いないとは思ったが、真実を話すことをやはりためらった。それで、どう答えようか悩んでいると、お姉ちゃんがしびれを切らしたのか、「そういえばあんた、昨日の夜中、私の横に来てたでしょ! 自分と同じ傷、私につけてたんでしょ!」とまくし立ててきた。
僕はお姉ちゃんの無茶苦茶な理論に、むきになって言い返してやりたくなったが、それをすると不毛な言い合いが始まると思い、「僕は知らない! 何もしてないよ!」とだけ言った。
お母さんはお姉ちゃんに、「美夏はちょっと黙ってて」と言うと、僕の傷の場所に貼ってある絆創膏を剥がすように言った。
僕は自分の傷を見るのが怖かった。すでに本当に僕の傷がお姉ちゃんにうつっているかもしれないと思っていたからだ。先ほどから、指に力を入れても、もう痛みを感じなくなっていた。それで、絆創膏を剥がすように言われた時、お母さんは完全に気づいていると分かった。怒られるに違いないと思い、絆創膏を剥がしたくなかったが、もう逃げ切れる状況ではない。
観念し恐る恐る絆創膏を剥がしてみると、やはり傷は綺麗になくなっていた。そう、治ったのではなく消えていたのだ。
それを見てお母さんは、やっぱりという顔をした。そして、全てが理解出来たとでもいう風に何度も頷いた。
しかし、対照的にお姉ちゃんは半狂乱になって、「何よそれ! なんで優馬の傷が私にうつってるのよ! こんなことありえない!」と、叫びまくっている。
お母さんはお姉ちゃんに落ち着くように言い、「熱も高いんだから」と、お姉ちゃんを横にならせた。そして、僕が三歳の時の不思議な出来事について話してくれたのだ。
初めて聞いた話に僕は戸惑った。今回のことと逆とはいえ、過去に同じ様なことが起きていたとは……。
お姉ちゃんはそのことを全然覚えていないらしく、お母さんの話を聞いて驚きを隠せない感じだった。ずっと顔を両手で覆ったまま動かない。
改めてお母さんが僕に尋ねた。
「優馬、昨日の夜中、お姉ちゃんに何をしたの? お姉ちゃんのおでこに触ったんでしょう?」
僕はもう、流石に嘘は通用しないと思ったし、お母さんの話を聞いて、これから僕の話すことも信じてもらえると確信が持てた。それで正直に全てを話すことにした。
「実は、お母さんの言う通りなんだ」と、僕は話し始めた。お姉ちゃんが呻いていて、風邪がうつったのかと思ったこと。無性に確かめたくなったこと。熱がなかったので腹が立って、僕の風邪がうつれば良いのにと思った瞬間、自分の手とお姉ちゃんの額の間が光ったこと。思わず、「うわっ!」と声を上げてしまったことなど、二人が目を覚ますまでのこと全てを話した。
お母さんは最後まで黙って聞いていた。お姉ちゃんは、先程からの両手で顔を覆ったままの状態で、信じられない、ありえないという風に首を横に振り続けている。
お母さんは僕を怒らなかった。正直に話したことを褒めてくれたし、知らずにやってしまったことは仕方がないと言ってくれた。ただ、自分の苦しみを人にも味わわせようとする考えは良くないと諭された。
そして、お母さんがゆっくりと僕に聞いた。
「お姉ちゃんを元に戻せると思う?」
僕は、「分からない」と正直に答えた。
実際、自分の身に何が起きているのか、自分でも分からなかった。お母さんから自分に風邪をうつしてしまうとか、逆に自分からお姉ちゃんに風邪や傷をそっくりうつしてしまうとか、見たことも聞いたこともないことを何故自分が出来るのか。これが現実とは、とても思えなかった。百歩譲って、ただ風邪ぐらいなら偶然にうつったり、うつされたりするかもしれない。でも、傷は何だ? あの光は何だ? 自分も頭の中がごちゃごちゃになっていた。
「分からない」と言ったきり黙り込んでしまった僕に、お母さんは更に質問をした。
「たぶん優馬には、他の人には出来ない特別なことが出来る能力があるみたいね。三歳の時は確か、『すぐに治りますよ』と優馬が言葉に出して言った瞬間光ったのよ。今回も、『僕の風邪がうつれ!』とか、言葉に出して言ったの?」
「いや。何もしゃべってないよ」
「じゃあ、きっと心からそう思うと、病気や傷をうつされたり、うつしたりするのかもしれないわね。傷は? 傷も、『お姉ちゃんにうつれ』と思った?」
「いや。傷のことは考えてもいなかったよ」
「そう……。じゃあ、うつしたいものだけがうつるとも限らないわけね……。ちょっと、左腕をまくってちょうだい」
そう言ってお母さんは、僕がまくり上げた腕を見た。
「ツベルクリンの予防接種跡はそのままね……。そりゃあそっか。三歳の時も私のが優馬にうつってなかったもんね。ということは、今かかっている病気や、治っていない傷がうつるということらしいわね……」
お母さんは一生懸命に状況分析をしている。お母さんはきっとものすごく真面目なんだろうが、僕には難題を楽しんで推理し、解き明かしていく探偵のように見えた。僕が物事を分析して考えるのが好きなのも、母親譲りの性格なのかもしれない。
お母さんはいろいろ考えた末、実際にやってみるのが手っ取り早いと思ったようで、僕に指示を出した。
「優馬、もう一度お姉ちゃんのおでこに手を当てて、『治れ!』とか『僕にうつれ!』とか強く思ってみてくれる?」
「まぁ、やってみるけど……」
お母さんの推理がどこまで正しいのか分からず、半信半疑ではあったが、お姉ちゃんに傷までうつったのが本意でないことは確かだ。たぶん跡が残る傷だろうから申し訳ないと思うし、出来ることなら何とかしなくてはいけないとも思ったし、とにかくやってみることにした。
お姉ちゃんは熱もあって苦しいはずだが、あまりにも現実離れしたこの展開に、風邪の苦しさはどこかに吹き飛んでしまっているらしい。お母さんの言う通りにしようとして、お姉ちゃんの額に手を当てるために腕を伸ばした僕を、じっと睨みつけていた。
「ちゃんとやんなさいよ!」
お姉ちゃんはそう言うと、これから起こることに恐怖を感じるらしく、強い口調の言葉とは裏腹に、目をギュッとつむって構えた。
僕は昨日の夜のように、お姉ちゃんの額に手を当てて、治れ! と心の中で叫んだ。
……。
でも、何も起きない……。
今度は声に出して言ってみた。
「治れ!」
……。
やはり、何も起きない。
お母さんが、「光もしないし、何も起きないわね」と言うと、お姉ちゃんは恐る恐るゆっくりと目を開け、「あんた! 本当に真面目にやってんの? もしかして心から申し訳ないと思ってないんじゃないの!」と怒り出した。
強く思ったらうつるというのはお母さんの勝手な推理であって、正解かどうかも分からないのに、全くどうしてすぐにお母さんの言うことを、お姉ちゃんは鵜呑みにしてしまうのか。
「本当に真面目にやってるよ! 悪かったとも思ってるよ。でも、何も起きないんだよ!
」
僕がそう言うと、お母さんがまたあれこれと質問し、推理し、次々と色々なことを僕にさせた。
例えば、僕は左利きなのだが、「利き手とは逆の右手でやってみたらどうなるかやってみて」とか、今度は、「両手でやってみたらどうなるかな?」とか、おおよそ関係あるのか分からないことでも、とにかくお母さんは、自分が思いつくことを、僕に片っ端からさせたのだ。
更には、立ってやってみたり、座ってやってみたりと、姿勢を変えてもみた。セリフを変えたり、目をつむったりもした。恐らく、考え得るであろう、ありとあらゆる方法を試してみたと言えるだろう。
でも、結果何をしても、二度と僕の手のひらは光らなかったし、風邪も傷も、再び僕に戻って来ることはなかった。
お姉ちゃんは熱もあるのに色々とさせられて、もうくたくたになり、面倒くさくもなったらしく、「もういい。もっと変なことになっても困るし。例えば中身だけ入れ替わっちゃって、私の外見だけ優馬になるとか本当に勘弁だし。ねぇお母さん、病院行こうよ。この風邪早く治さないと」と言い出した。もう僕には頼らず、医者に頼りたいらしい。
全く、中身だけ入れ替わっても困るって、すごい発想力だなと思いつつも、確かに僕も何が起きるか分からない恐怖はあった。それはお母さんも同じだったらしく、お姉ちゃんがそう言った後は、それ以上僕にもお姉ちゃんにも何もさせようとはしなかった。
ただ、お姉ちゃんには、「二度と私に触らないで!」とキツく言われたし、お母さんには、「いまいち原理は分からないけど、とにかくその能力は危険だから使っちゃダメ。あなたが死んでしまったり、人を死なせてしまったりする大変なことが起きるかもしれない。それに、特別な能力のあることが人に知られたら、どこかに連れ去られて実験材料にされたり、解剖されたりするかもしれないわよ」と言われた。
僕はまさかそんな映画みたいなことは起こらないだろうと思いつつも、お母さんの真剣な顔が怖くなって、自分でもこの能力を使わないようにしようと思った。もちろん、原理が分かっていない為、使いたくて使える代物ではないのだが、敢えて使わないという選択肢を選んだという意味だ。
最後にお母さんは僕にもお姉ちゃんにも、このことは三人だけの秘密で、絶対に誰にも話さないようにと念を押した。