プロローグ
「今回はまずい……」
自分の身体の状態を分析してみると、どうやら肋骨が折れ、肺に刺さって肺が潰れている様だ。息が浅くしか出来ず、呼吸をする度にヒューヒューと変な音が鳴る。また、この様子だと内臓器官の幾つかは破裂しているだろうし、両足も複雑骨折している様だ。今までに感じたことのない痛みで意識が飛びそうになっているし、死への猛烈な恐怖を感じている。完全に見積もりが甘かった。
意識を保つ為にも、事故が起きた瞬間をもう一度思い返してみよう。
あの高校生ぐらいの娘は自転車ごと車にはねられ、宙を舞って五メートル程飛んだ。その娘をひいた車は一度止まったが、その後急加速していなくなった。いわゆるひき逃げされたのだ。ところがひかれたその娘はむくりと立ち上がり、逃げ去る車をジッと睨みつけていたのだ。
今は真夜中で、ここは住宅街から少し外れた場所だということもあり、ひと気は全くなかった。
僕は仕事帰りで、通り慣れた道を車で走っていた。残業で遅くなり、疲れ切って気怠い感じで車を運転していた。そんな中、交差点に差し掛かったところで、目の前で突然にこの事件は展開されたのだ。
人が宙を舞っているなんて、僕はまるで映画か何かを見ているかの様に感じ、直ぐには現実として受け入れることが出来なかった。それは、疲れと眠気のせいで、幻覚を見ているような感覚だったのかもしれない。更に言えば、こんな時間に高校生が自転車に乗って、こんな場所にいる筈がないという先入観もあり、ますます非現実的だったとも言える。
まぁそれでも、我に返った僕は事態が把握出来ると直ぐに、車から飛び出すように出て行き、その場にへなへなとくずおれそうになったその娘を支えると、その娘の額に自分の左手を急いで押し当てた。ただただ夢中で、その娘を助けることしか考えていなかった。
その娘の額に左手を押し当てた刹那、僕の左手とその娘の額の間から、なないろのひかりが閃いた。
この時点で僕は、「やっぱりな……」と、小さな声で呟いた。リプレイス前の予想通り、この娘の受けたダメージは相当なもので、この娘は恐らく死に面しているだろうと思ってはいたが、まさに思った通りであることは、リプレイスの時になないろに光ったことで直ぐに分かった。
ただ、思っていたのと全然違っていた部分があることも事実だ。それは、この娘の受けたダメージを貰い受けてから、数十秒が経過して徐々に分かってきたことなのだが、僕に残された時間は恐らく、この娘からダメージを完全に貰い受けるまでの約五分間のみか、良くてもプラス一、二分だろうという点だ。
確かに、この子を病院に連れて行ったとしても治療が出来る状態ではなく、そのまま死に至る可能性はあると、最初から想定してはいた。だからこそ人の多い場所にわざわざ行くよりも、ここでリプレイス能力を使って治した方が得策だと思った訳なのだが、この娘がここまで、つまり死を目前にしている程のダメージを受けていたとは想像していなかった。
「だって、立ち上がったじゃないか……」
僕はまた独り言を呟くと急いで車に戻り、少し先の住宅街に向けて車を急発進させた。
一刻も早く犬でも猫でも見つけなくてはいけない。しかし、時間は刻々と過ぎて行き、住宅街に入る頃には三分以上が経過していて、貰い受けたダメージは相当程度僕の身体に反映されてきていた。
激しい痛みに意識は遠のき、息も絶え絶えになって、もう車を運転することも出来ない状態になった。僕は車を止めると、這い出すように車から降りた。
夜の住宅街はひと気がないため、僕の存在が特異なのだろう。僕の気配に気付いて、すぐ近くの家の犬が吠え出した。
(近くに犬がいるのか? もう、一か八かこの犬に賭けるしかない)
僕は犬の鳴き声のする方に向かってよろよろと進み始めた。
ようやく犬の鳴き声のするところまで辿り着いた時には、もう立つことも出来なくなっていて、口の中には血の味が充満してきており、視界も霞んで瀕死の状態になっていた。
恐らく、女の子から貰い受けたダメージが完全に僕の身体に反映されるまでの五分が経過したのだろう。朦朧とした意識の中、僕は最後の力を振り絞り、腹這いで何とか犬のところまで辿り着いた。そして噛みつこうとする犬の首輪を必死で掴み、犬を地面に押さえつけて、犬の額に自分の左手を押し付けた。僕の左手と犬の額の間から、先程の様に、なないろのひかりが溢れ出た。
助かった……。恐らく本当に、後数十秒で僕は死んでいただろう。この犬と飼い主には気の毒なことをした。でも、こうするしか仕方がなかった。僕は申し訳ないという気持ちになりながらも、この犬が健康体で良かったと心から思った。
僕は初めて感じた目前の死の恐怖と向き合いながら、約五分間かかる回復を、祈るような気持ちで待っていた。