宿とメイド
「ゼルフルフ様、いけません!御身体に障ります!」
立ち上がろうとするゼルフルフに、カルロットが急いで駆け寄り両腕で支える。
横になったままでいられるよう床にクッションは敷いてあるのだが、あまりの薄っぺらさに役に立っているとは思えない。
「ふふ、大丈夫だ。今日は少し体調が良くてな、たまには動かさないと身体が鈍って仕方がない」
いや、とても体調が良いようには見えない。
客人と配下を前にして弱いところを見せまいとする王としての矜持もあったのだろう。
老いた銀狼はカルロットの手を借りて改めてユマに向き直る。
「このビスタニアは今、北東にあるナブレット山を根城とする地竜バグアドの脅威に晒されておってな…欲深いかの竜めは、突然使者をよこしたかと思うと民の安全と引き換えに莫大な量の貢物を要求してきたのだ。半月ほど前のことだったか」
”かの竜”という言い回しに、ベオルークの言葉を思い出す。
かの竜の尖兵ならば斬り捨てる、と言われたあれだ。
「当然断った。一度受け入れてしまえば、あとは国が枯れるまで吸い尽くされて終いだろうからな。するとバグアドは怒り狂い、ナブレット山に棲む小鬼や大鬼どもを引き連れて我が王城アンバータスクを攻めてきた。ここにいるベオルークやブランディーヌ、カルロットらの父親を中心に必死で抵抗したものの、結果はこれでな」
銀狼はなくなった左後ろ足と左目を恥じるように、少しだけ身をよじる。
この世界に来て最初に行き先を決める際、東には焼け焦げた大地と壁の抉られた城が見えたが、それが今の話に出てきたビスタニアの王城アンバータスクなのだろう。
命運を賭けた一戦に惨敗し、この街まで敗走してきたということか。
「我らならば、獣人ならば例え竜が相手でも勝てると侮っていたのだろうな。勇気ある猛者から死んでいき、今ではこやつら若者たちにまでいらぬ苦労を背負わせておる」
「恐れながら申し上げます!私どもはこれを苦労などとは思っておりません!父や偉大なる先達の無念は、必ず我らの手で晴らすつもりでおります!」
それまで黙って話を聞いていたベオルークが父の死に触れられた途端、跪いて下を見たまま文字通り吼えた。
血が滲むのではないかというくらい固く握り締められた拳がその想いの強さを裏付けている。
本来ならば主君と客人の会談中に異を唱えて割り入るなど許される行為ではないが、ゼルフルフはこの若者の真っ直ぐな気持ちが嬉しかった。
側近であった彼の父アングスも勇猛で実直な男だったが、ベオルークには武芸においても精神においても父に勝るとも劣らない資質が備わっていると確信する。
それだけに、同じ道だけは辿ってほしくないと願う。
故郷を守る想いと侵略者への怒りから我を忘れ、狂戦士のように竜に挑み散っていった亡き父アングスと同じ道だけは。
「無論、お前たちの力も頼りにしているとも。ただ、老いぼれの決断につき合わせて逝ってしまった者たちに申し訳がなくてな、つい自虐的になってしまった。許せ、ベオルーク」
失態であった。
敬愛する王を思えばこそ口を衝いて出た言葉であり、彼に責めるつもりなど毛頭ない。
しかしその発言は結果的にゼルフルフの心遣いを無にした挙句、謝罪までさせてしまうことになった。
横に控えるカルロットならばもっと上手く自分の想いを言葉にできただろう。
勇猛で知られる熊の獣人は、一時の感情に流された自らの愚かさを痛烈に恥じる。
「そんな国ではあるが…せっかく参られたのだ、気が済むまで居てくれてよい。あぁ、宿が必要なら用意させよう、空き家だけなら十分すぎるほどにあるのでな」
気落ちするベオルークをなおも気遣い、銀狼はニッと牙を出して笑う。
もっとも、表情豊かな狼など普段見ることはないので和むどころか若干怖かったのだが。
しかし、期待してはいたものの寝床を提供してもらえるのはやはり助かる。
ユマは素直に感謝を述べて頭を下げた。
「それならばこの通りからすぐのところに空いている家があります、別の者に案内させましょう。ところでユマさん、ひとつお尋ねしたいのですが…」
カルロットだ。
もし訊かれるのであれば彼からだと思っていたし、その内容も察しはついている。
この街に入るときに言っていた、あのことだろう。
「あなたはどこからおいでになられたのですか?ビスタニアに来るなら大抵の国で通行証が発行されるはずですが、持っていないのは何か理由でも?」
ひとつと言いながら、関連した質問をさりげなく繋げることでふたつ答えさせようとする。
山猫の顔では今ひとつ表情が読めないが、真偽を見定めてやろうという気が伝わってきた。
やはりそこをはっきりさせなければ完全な信用を得るには至らないのだ。
「あ、えぇと、それはですね…」
自分は今日まったく別の世界からきた者でこの姿も本当のものではありません。
果たして、正直に言ったところで信じてもらえるだろうか。
確かに初めは憶測も含めながら現状をすべて打ち明けるつもりでいた。
こんな姿で身一つのまま庇護を求めるなど無理だと思っていたから。
だが今のところ、このビスタニアの王と側近たちは蛾人という正体不明の存在を受け入れてくれそうな感じではある。
ならばせっかく築けそうな良好な関係を、余計なことを言って自ら崩すことはないのではないか。
ユマは逡巡する。
だが、すぐに決断しなければいけない。
時間をかければかけただけ、カルロットの中で自分に対する疑惑の種が芽となり育っていくのだから。
「文化の違う土地からやってきたばかりでこの辺の常識には疎いのです。ご迷惑をおかけしますが、徐々に慣れていこうと思ってますので今回の件は何卒ご容赦頂きたい」
嘘ではないが、ここで明言することをユマは避けた。
すべてを話すにはまだ時期尚早に思えたのだ。
彼らと打ち解けていってから機を見て明らかにしていく方が、双方にとって良いと判断する。
真実を隠すという心苦しさは少なからずあるが、きっと理解してくれると信じる他はない。
「ん…確かに南方や秘境に近いところには我々と交流のない国もありますからね。わかりました。…ああ、ちょうど案内の者もきました。宿となる家まで送らせましょう」
もっと色々なことを訊かれる覚悟はしていたが、これは意外だった。
大袈裟かもしれないが、完成させた1万ピースのパズルのようにすべてが上手く繋がった一枚絵を描かなくてはこの賢明な山猫に見抜かれると思っていた。
逆に見抜いたからこそカルロットはたった一度のやり取りだけで簡単に引き下がったのかもしれないが、今は詮索や確認など余計なことを言うべきではない。
藪をつついて蛇どころか剣歯虎でも出かねない。
心の端に言い表しようのない不安がべっとりと貼りついて離れなかったが、もとよりこんな状況で100点満点を望むことはできない。
とりあえず今を切り抜けられただけでも良しとしなければ。
そのユマの前に、パタパタと急いで一人の少女が現れた。
小柄な身体に栗色の短い髪、頭の上には小さな耳が見える。
顔立ちに獣の特徴はあまり見られず、かなり人間に近いタイプの獣人だった。
思えばカルロットとブランディーヌは一目でそれと分かるのに対し、ベオルークは顔の作りから耳の位置に至るまで人間となんら変わりがない。
だからはじめに声をかけられてもここが獣人の住む国だとは思わなかったのだが、同じ種族でもかなり個人差があるようだ。
「宿までご案内いたします、ヘンリエッテと申します!ってうわあああ、化け物!」
彼女はエプロンドレスを振り乱しながら部屋に入ってくるなり一礼し、顔を合わせた瞬間、実に失礼な評価を下してくれた。
しかし、逆にそれが場の空気を和ませることになり、皆の顔に笑みが戻る。
ユマにしても変に気を遣われるよりはよほど気持ちのいい反応だ。
「ヘンリエッテ!あ、あなたという人は客人を見るなりなんですか、それは!」
一人、カルロットだけが顔を真っ赤にして小さなメイドを叱り付けてはいたが。
結局、その日は旅の疲れを考慮して会食など堅苦しい席もなく、宿として使わせてもらう家へ引っ込ませてもらった。
何かあれば言ってくれと、ヘンリエッテをそのまま家付きのメイドにまでしてくれたのだ。
頭の片隅に「厄介払い」という言葉が一瞬だけ浮かんで消える。
「さ、先程は失礼しました!あたし、思ったことがつい口に出ちゃって…そ、それであの、何か御用がおありでしたら遠慮なくお申し付けください!」
ヘンリエッテは、エビか彼女かというくらいの角度で深々と謝ってみせた。
その言葉の中にも失礼な部分があるのだが、とはユマも口には出さない。
「いや、まったく気にしてないよ。それよりありがとう、しばらくお世話になるね」
現実世界にいたとき、自宅アパートの1階に住む女の子に話しかけるときの感覚だった。
確かあの子は小学3年生くらいだったと思うが、この子も同じくらいの歳なのだろうか。
例え子供であっても女性に年齢を訊くのは失礼だなと、ユマの中の藤宮悠真の部分がブレーキをかける。
「はい、あたしはこちらの部屋に住むことになりますのでよろしくお願いしますっ!」
ユマがいる部屋とは別の空いている部屋を指差しながら、ヘンリエッテはまた頭を下げる。
そこで初めて、彼女が獣人である証、背中に小さい羽根がついているのを見つけた。
耳だけではわからなかったが、よく見るあの形状は確か鳥ではなく…
「君…蝙蝠?」
「あ、はい!あたしはオオコウモリの獣人です。とっても病気に強いんですよ!」
それが唯一の自慢であるかのように、小さな羽根をパタパタとはためかせながらヘンリエッテはにっこりと歯を見せて笑う。
その歯にも可愛らしい牙がついているが、獲物を狩れるほどの殺傷力があるとは思えない。
「獣人には因子ってのがあるんですけど、それが強く出た子は見た目が獣に近づいて優秀なんです。あたしはそれが弱いんですけど、元気だけは負けないです!」
眼をキラキラと輝かせながら熱弁をふるう小さなメイドに、ユマは自分の中の父性が目覚めるのを感じずにはいられなかった。
娘がいたらこんな感じなのかなぁ、と父親のような目線で暖かく見守ってしまう。
そこで気が緩んでしまったのだろう。
溜まっていた疲れが一瞬にして押し寄せ、半ば気を失うようにユマは深い眠りの中へと沈んでいく。
ベッドに座っていたので床に転がる心配はないが、シーツをかけないと風邪をひくかな、と考えたのが最後の記憶だった。
まだ日が落ちたばかりで夜というには早い時間帯だが、それから朝まで彼が目を覚ますことはなかった。