獣人の国
「待て待て待て、どういうことなんだ…これは…」
今自分に起きていることを、理屈としては理解できた。
この身体は蛾人として知らない世界に存在しており、どうやら意識だけが藤宮悠真のそれであるようだ。
しかし、どれだけ考えても感情の部分で理解も納得もできるはずがなく、ついには逃げ出したい一心で頭を抱えてその場をぐるぐると回りだした。
そのじたばたともがくのにさえ、自分自身が動いているという感覚があるのが煩わしい。
さっきまで自宅アパートの6畳間でパスタを食べながらささやかな幸せを感じてゲームに興じていただけだというのに、なぜこんなことになってしまったのか。
蛾人の姿で動いているということはここはジオミラージュの世界なのだろうか。
それとも外見等は単なるデータに過ぎず、そこにあった物を模したまったく関係のない場所なのだろうか。
疑問は湧き続けるだけで尽きることはなかったが、ただひとつだけ確信を持って言えることがあった。
それは明日、自分が会社に出勤することはないだろうということだ。
「…そこの、さっきから一人で何をやっている?」
不意に、どこからか声をかけられた。
自分の考えをまとめるのに必死だったユマは、予想外の声に驚いた。驚きすぎて、つい直立不動の体勢を取ってしまう。
まるで悪戯をした子供が大人に見つかってしまったかのような反応だった。
じっと動かないまま視線だけを移して声の主を探るが、今出てきた森の方にも、抜け出た先であるこの道にも人影は見当たらない。
あまりの出来事に頭がついていかず、幻聴でも聞こえたのかと思ってしまう。
「こちらだ。城壁の上から話しかけている」
違った。確かに声は聞こえた。
言われた通りに城壁の上側をそっと向くと、大男がこちらを見ていた。
両肩からかける形で黒い熊の毛皮を被り、上半身には他に動物の牙を連ねた首飾りと大型の篭手しか身に着けていない。
毛皮の間から覗く浅黒い胸筋はまるで鋼のように鍛え上げられており、冷めた目つきではあるが顔も精悍そのものであった。
見るからに屈強で歴戦の戦士といった風格だが、同時にその体躯から受ける印象とは似つかわしくないほど若くも思える。
なんとも不思議な男だ。
「この辺は夜になると危ない。旅の者ならば通行証を見せよ、すぐに門を開かせよう。
…かの竜の尖兵であるならばすぐに斬り捨てるがな」
重々しく開かれた口からは、忠告と警告が同時に放たれた。
竜というのが所謂ドラゴンそのものを指すのか何かの比喩なのかはわからないが、名を出す際に眉間に深く皺が寄ったのから察するに、彼らと激しく敵対している勢力であるのは間違いないだろう。
怪しいというただひとつの理由から、問答無用で攻撃されていてもおかしくなかったわけだ。
内心肝を冷やすユマだったが、相手が敵対する者とそうでない者を区別するだけの良識と冷静さを持ち合わせてくれているのは有り難かった。
例えわずかでも交渉の余地があるという希望が持てる。
そう、交渉だ。
彼の言葉の中にはひとつだけ無視できないものが混じっていた。
「あ、生憎と通行証だとかそういう物は持ってないんだ。
…で、その…無理を承知で頼みたいのだけれど、なんとか中に入れてはもらえないだろうか?
あー、貴方が言っていた、その、竜というのには関係がないんだ。調べてもらってもいい」
落ち着いて返答したつもりだったが、焦りと緊張というものは口の滑りを想像以上に悪くする。
まったくその気はないというのに、嘘を見抜かれた間抜けな詐欺師のような口調になってしまった。
おそらくこちらを見下ろす大男も同じ感想を持ったのだろう。
城壁で見えないが手持ちの武器を持ち直したと思われる、金属で床を引っ掻いた音がユマの鼓膜を震わせる。
「通行証がないのに通せと?なぜ俺があえてかの竜の話を出したのか、わかっていないのか?
それとも下手な芝居で俺を騙そうとでも思っているのか?」
わかっている。
戦時下で敵方の密偵が侵入してくる危険がある以上、身元をはっきりさせなければ入れるわけにはいかない。
当然のことだ。
だが、自分でも虫のいい話だと思うが、今はなりふり構っていられる余裕などなかった。
なにせ数時間前にこの世界にやってきたばかりで通行証の所持はおろか、その身の証明をすることすらできないのだ。
正規の手続きを踏むという選択肢は初めから存在していない。
もちろん街の権力者なり指導者なりに会った際に、必要ならば現状について自分の知りうるすべてを説明するつもりではいる。
だが、まずは目の前の男を説得しないことにはその機会も永遠に訪れず、この見知らぬ土地でまた一人、今度は完全に当てもなくさ迷わねばならない。
ジオミラージュの分身としてのユマが持っていた力を行使できるならば、それでも生命の危険はないだろう。
サービス初期から参加してひたすら経験を積んだ彼には、それだけの実力があると自負している。
しかし、今はとにかく心が安全を欲していた。
一度落ち着いて平静を取り戻さなければいけないと思った。
「頼む!もし入れてくれるなら代価を支払ってもいいんだ!」
これは門番に対して使う言葉としては最も愚かなものと言えよう。
怪しい男に金を払うから買収されてくれと言われて「はい、わかりました」と答える馬鹿がどこにいようか。
目の前にある「毒」と書いたラベルが貼られた小瓶の中身を、言われるままに飲み干す行為に等しい。
だが、この必死で頼み込んでくる奇妙な魔物の姿は、その滑稽さも相まって害はないようだと判断されたらしい。
黒い毛皮の大男はしばらく何も言わず見ていたが、少し考え込んだあと「わかった」と口を開いた。
「あの狡猾な竜の手下にしてはあまりにも間抜けすぎるか。
…必ず入れてやるという約束はできないが、上に掛け合ってやろう。
少し時間はかかるがそこで待っていろ。…デロウス!代わりを頼む!」
大声で仲間の名前を叫ぶと、男はのしのしと大股歩きで城壁の奥へと消えていった。
間を置かずに樽型兜と板金鎧に身を包んだ兵士が槍を携えて現れ、門番の役目を代行する。
(やった、言ってみるもんだ!頼むぞー、俺の運命は君にかかってるんだ!)
普通ならばまず成功しない危なっかしい交渉ではあったが、それでもなんとか第一段階は突破できたようだ。
あとはただひたすら待つ。きっと良い知らせを届けてくれると信じながら。
それから時間にして20分は経っただろうか。
門の向こう側に人の気配がしたかと思うと、木と鉄がぶつかり合う音がした。
閂を外しているのだろう。
そして期待通りにゆっくりと鉄の門が開いていくと、そこには先程の大男の姿があった。
両脇には白い衣服の上に細かい銀の刺繍を施してある紺色の外套を着た男性と、身体の線を強調しているかのような胸当てを着けた女性の姿が見える。
「待たせたな、異形の。我らの王があんたと話がしたいと申されている」
「え?王様がここに…?」
これにはユマも驚いた。
誰か身分の高い者へ取り次いでもらう腹積もりではあったが、それが一足どころか何足も飛ばしていきなり国王との謁見だという。
そもそも遠くから確認したときは王城があるように見えなかったし、街の規模からしてもおそらくここは首都ではないはずだが、それにも関わらず国王が滞在しているということは、これは思っていたよりもずっと深刻な非常事態なのかもしれない。
「お察しの通り、今はちょっと大変な時期なの。
悪いけど万が一を考慮して私たちも同席させてもらうわね」
鎧の女性が割り入るように会話に加わってきた。
開いたデザインの胸元からは豊かな双丘が激しく自己主張してきてなんとも目のやり場に困るが、視線を逸らした先には信じられないものが映っていた。
ユマの驚いた様子を見た彼女は悪戯っぽく笑う。
「あら、獣人を見るのは初めてかしら。うふふ」
獣人。その名が示す通り、人間と獣の特性を併せ持った種族である。
見れば、長めに切り揃えられた赤ワイン色の髪の上では、これが証拠だと言わんばかりに大きな耳が上を向いてピコピコと動いていた。
首まわりと腰に毛皮を付けているのも自前の毛と尻尾なのだろう。
そして最も印象的なのはやはり顔で、髪と同じ色の眉が存在する辺りに人間の趣きはあるものの鼻と口は確かに犬を連想させる形をしていた。
「…ブランディーヌを見てその反応とは、もしかして貴方はこの国がどこかも知らずに訪れたのですか?」
一歩引いた位置に控えていた紺色の外套を着た男性も訊いてくるが、見た目に関してはこちらはもっと顕著だった。
顔の中央を縦に走る模様と両サイドにピンと張った髭、そして鋭い目付き。
額のサークレットと本を持って衣服を身に着けている以外は、山猫が直立歩行しているようにしか見えなかった。
しかし野生的かといえばそうではなく、その佇まいには落ち着きを、両の眼には知的な光を感じる。
「ええ、国というか、この地へ来たのも初めてなんです…その…驚きましたけど」
獣人など、ゲームの知識としては持っているが見たことなどは当たり前だがあるわけがない。
それが今、実際に目の前で会話しているのだから驚くなという方が無理である。
「なるほど。それで通行証も持ち合わせてはいなかったと。
その辺のこともあとで少しお尋ねしますが、まずここは我ら獣人たちの住まう国でビスタニアといいます」
続けて山猫は、このビスタニアで宰相補佐を務めるカルロットと名乗った。
宰相の父の計らいで若くしてその地位に就いているそうだが、それが認められるだけの才能を持っているのは初見であっても仕草や言葉の端々から感じられた。
「鎧を着た方が二本の剣と魔法を使いこなす魔法剣士で、犬の獣人ブランディーヌ。
そちらの黒い大男が我が国一番の勇猛さを誇る闘士で、熊の獣人ベオルークです」
「あ、ご丁寧にどうも。俺…私は、旅の蛾人でユマと申します」
混乱していた頭も少しは落ち着いてくれたか、挨拶をするだけの余裕は出てきた。
改めて深く頭を下げると、カルロットはここではなんですからと中へ招き入れてくれる。
街は歴史を感じさせるというよりは、十分な手入れがされていないことが原因で寂れているような印象を受けた。
通りには肉や野菜を売る屋台が並んでいるものの今ひとつ活気が見られない。
獣人が暮らす国ということだがそれ以外の人種もおり、むしろ割合でいえば普通の人間の方が多く見えたりといろいろ疑問が浮かぶ。
あえて聞くのも失礼かと思い黙っているが、一緒に歩く3人の顔に険しさが増している辺り、やはり何かあるのだろう。
可能性としてはベオルークが言っていた竜が関係しているのが一番高いと思われた。
重い沈黙が息苦しさを呼ぶが、それは5分と歩かずに解消された。
一軒の家の前までくると、3人が立ち止まって同時に膝をつき、頭を垂れたのだ。
中にいるのが誰かは、言われるまでもなく一人しかいない。
「お休みのところ失礼いたします、ゼルフルフ様。客人をお連れしました」
カルロットの若々しく張りのある声に遅れること数秒、家の中から対照的に弱くしわがれた老人の声がした。
ユマの耳にははっきりと聞き取れなかったが、どうやら入ることを許可されたようだ。
ブランディーヌに促されるまま中へと進んでいく。
だが、相手は一国の王である。
粗相があってはいけないという思いから、ようやくほぐれた緊張感がまた鎌首をもたげ始めていた。
現実世界では藤宮悠真というただの会社員でしかないユマには初めての経験であったが、それでも努めて平静を装い、深々と一礼をしてから自らの名を名乗る。
「頭を上げられよ、人ならざる旅の者…ユマ殿といったか。
私が獣王国ビスタニアの現国王、ゼルフルフ・バルエ・ビスタニアだ」
それは力なく弱々しいものではあった。
だが不思議と聞く者の心に威厳を感じさせる、高みから見下す強者の驕りなどまったくない真の王者の風格をまとった声だった。
たった一声かけられただけなのに感激すら覚え、胸の奥からは熱いものが沸きあがる。
「今このときに現れたのも何かの縁であろう。少しこの老人の話に付き合ってはくれまいか」
そう言って姿を現したのは、左側の後ろ足と瞳を失い痩せ細った銀色の狼だった。