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藤宮悠真の日常

 そこには青々と澄んだ空と、心地よい土の匂いが広がる大地があった。

緑は雄々しく生い茂り、見る者に自然の息吹を感じさせる。

少し遠くに目をやれば清らかな小川がせせらぎ、名前も知らない野草が時折吹くゆるやかな風に揺れていた。


 気心の知れた友人や恋人がいるならば、一緒に連れだってピクニックに来たらきっと楽しいだろう。

持ち寄った食べ物で腹を満たし、アルコールでも入れば他愛のない愚痴や恋愛話に花が咲き、最後に記念写真のひとつでも撮れば思い出の1ページの出来上がりだ。


 やがて歳を取り、何気なく取り出したアルバムを眺めてこの青春の1コマを見つければ、「あの頃は若かったなあ」などとお決まりの台詞を吐くに違いない。

そして過ぎた日々に懐かしさを馳せて目を細める。


 そんな牧歌的な景色の中に、藤宮悠真は一人立っていた。

…ほんの数刻前まで、見慣れた6畳一間のアパートにいたはずだったのに。


■7月17日(金) 19時45分


「高木さん、日報できてますんで確認お願いします」


 その日の業務内容と、問題点や改善点をまとめて打ち込んだ日報を、上司である高木孝作に送るのが藤宮悠真の役割だった。

PCを使って日付ごとに用意したテンプレートファイルの各項目を埋めたあと、共有フォルダの「高木」と名前がつけられた箇所に放り込む。


「おう、お疲れさん。今日はどんな感じだった?」

「特に変わりないです。お客さんとの間にトラブルもなかったですから」


 彼は別に事務員でもなければ社員のまとめ役でもなかったが、いつからかその仕事を任されるようになっていた。

飲み会のときにまわりから「お前の資料は的確だな!」などと持ち上げられ、その気になって大きなことを言ったのが原因のような気もする。


「あれは失敗だったよなぁ…」


 そのときのやり取りを思い出してしまい、高木に聞こえないように一人ごちる。

思えばあの唐突な持ち上げ自体が面倒事を押し付けるための布石でしかなかったのだが、そんなことには気づかず引き受けてしまった。

今となっては断る勇気もタイミングもなく、こうして同僚が帰ったあとまで残っている。


「よし。藤宮、あとは俺がやっとくから先上がっていいぞぉ」

「あ、ありがとうございます。それじゃ、申し訳ないですけどお先します」


 使っていたPCの電源を落とし、出入り口のすぐ横に設置された機械に親指を押し付けた。

ピッという音が鳴り、名前と退社時刻が表示される。

指紋認証式はカードがいらないので便利ではあるのだが、読み取り部分に指を乗せるたびに他人のものと誤認されやしないかと要らぬ心配に駆られてしまう。


 帰る前に改めて「お疲れ様でした」と声をかけると、高木は自分のデスクに腰を下ろして今しがた受け取った日報のチェックを始めるところだった。

濃いめの顎髭に手をやりながら、返事の代わりに空いている方の手をひらひらとこちらに振ってみせた。


 会社を出ると、暑さで額からはじわりと汗が滲み出る。

まだまだ夏本番とはいかないまでも、風が吹けば心地良さを感じるくらいには気温も上がっている。

最近バラエティ番組でもよく見かける名物気象予報士が、自信に満ちた顔で今年は猛暑が多くなりますと息巻いていたが、果たして当たるだろうか。


「でも嫌いじゃないんだよなー、これくらいなら」


 一日のほとんどを空調の効いた屋内で仕事するため、藤宮にしてみれば今の時期の暑さはほどよく感じ、むしろ望むところだった。

例の気象予報士によれば、本格的な夏の到来はもう少ししてからだそうなので、まだしばらくはこの気持ち良さを楽しめるだろう。


 スーツの内ポケットから取り出したハンカチで軽く額を拭い、一度背伸びをしてから、藤宮は行きがそうであったように帰り道も歩き出す。

会社からアパートまで二駅分は距離があるにも関わらずだ。

もちろん時間や天候によっては電車を使うし、そもそも普段から自転車で通勤していたのだが、先月運が悪いことに道端に落ちていた釘を気づかずに踏んでしまい、タイヤがパンクしてしまった。


 今時はホームセンターでもパンク修理キットは売っているし、自転車屋に駆け込めばそれこそ物の数分で直してくれる。

便利な世の中だと思う。

しかし、最近少しだけ余分な肉が目立つようになってきた自分の腹とにらめっこした結果、これを「神様が歩けと言ってるのだ」と思うようにし、彼は歩くことに決めた。


 その話を会社で出したときは、パートのおばさんたちからひとしきり笑われたあとで「頑張ってね」と心のこもっていない応援を受けたものだが、実際、徒歩での通勤に切り替えてから身体の調子が改善されている実感があった。


 寝付きは良くなったし、朝起きると昨日の疲れを引きずらなくなってもいた。

人並みにはあった食欲がさらに増して、最近では帰りにコンビニに立ち寄り、店ごとに特色のあるホットスナックを食べ比べるという楽しみもできた。

もう少しするとソフトクリームやシェイクに変わったりするのだろうが、その最後の項目がいろいろ台無しにしていることには残念ながら気づいていない。


「ありがとうございました、またお越しくださいませー」


 まだ高校を出たばかりくらいだろうか、ショートカットで顔にあどけなさの残る小柄な女性店員から唐揚げの入ったカップを受け取ると、藤宮はご機嫌な顔で今日もコンビニを後にした。


 小学生の頃は買い食いなどしようものならどこからか話を聞いた親にこっぴどく叱られたものだが、今は誰に何を言われるでもない。

これが大人の特権だよな、と思いながらひとつ、またひとつと頬張る。

今日は3つ目を食べた時点で帰りの分の消費カロリーが無駄になった。


■7月17日(金) 20時13分


 ケーキ屋の隣に建つ豪邸の前を通ると、庭に放し飼いになっているボーダーコリーが尻尾を振って犬小屋から一直線に走ってくる。

そこを過ぎて、派手なデコレーションをしたスマホでやたらと「ヤバい」を連呼しながら会話している金髪の少女を見かけたらもうすぐ自宅のアパートだ。


 彼女は毎日いるわけではないが、晴れていれば大抵決まってこのくらいの時間に、公園の入口に設置してある車止めに座っているのを目にすることができた。


 「でさーぁ、KEN-TAROくんの海外進出のニュース見たー?ヤバいっしょ!

アメリカじゃなくてあえてヨーロッパ、しかも英語すら話せないのにポルトガルをチョイスするのが痺れるよね!

もうホントさっきからヤバいから!マジ惚れるし!ヤバい!」


 やはりというか、それが当たり前であるかのように彼女はいた。


 聞くつもりがなくとも大声で話すので自然と耳に入ってくる。

今日の話題はどうやらお気に入りの芸能人が海外に挑戦する件らしいが、知らない名前だったので役者なのか歌手なのかも見当がつかない。


 英語がろくに話せなくても英語圏で大成した日本の役者や歌手はいるが、ポルトガル語の場合はどうだったか。

藤宮は記憶の糸を辿ってみるも、残念ながらさほど芸能に詳しくない自分の知識の中に該当者はいなかった。

そもそもなぜ言葉を話せないポルトガルを選んだのかという疑問が頭をよぎる。

他人事ながら無謀ではないかと心配になったが、どうせチャレンジするなら頑張ってほしい。


 見慣れた丁字路を右に曲がれば、もう10mほどでfortezzaSATOIの名がつけられたアパートが見えてくる。


 築23年・2階建てのそれは、里井さんという超がつくほど綺麗好きな大家の管理が徹底して行き届いているため、知らない人間に新築だと言っても通用するほどの清潔さを感じさせた。


 定年を迎えてから2歳年下の妻と話し合った末、知人の伝手でここを買い取って始めたそうだが、もとより手間のかかる細かい作業が好きだったのだろう。

入居の際、コツコツと自分の手で改築や塗装を繰り返したのだと嬉しそうに話されたのを藤宮は覚えている。


 ちなみに里井夫妻は知らないことだが、経営を始める際に一人息子がつけてくれたfortezzaSATOIという名前はイタリア語で直訳すれば「里井要塞」となる。

イタリア語に馴染みのない日本人なら気にならないが、近所に住むローマからの留学生などは来日したその日のうちに写真を撮って自身のブログに載せ、地元の友人から「日本人のセンスはすげぇな!」と大反響を受けた。


 アパートの敷地に入ると、駐輪場に停めてある自転車が目に入る。

先日まで愛用していたそれは、パンクした箇所の修理をしていないのだから当然直ってはおらず、力無くたるんだタイヤがこちらに物言わぬ主張をしているように思えてつい足早になる。


 気が向いたら直してやるからな、と心の中で謝るが、気が向かないからここまで放置されているわけで、その想いが愛車に届くことはきっとない。

そそくさとコンクリートの階段を登り2階の自分の部屋の前まで来ると、ポケットから取り出した鍵を手馴れた手つきで鍵穴に差し込み、左側にまわす。


 ドアを開けると部屋の中は真っ暗ではあったが、さほど広くもない空間でスイッチを探すのは苦ではない。

すぐに探し出すと明かりをつけ、2秒後には朝と同じ状態の6畳間が目の前に現れる。

ゴミも落ちていなければコンセントに埃の付着も見られない、なかなか小奇麗な部屋だった。

鞄をソファの端に置きながらPCの電源も入れると、立ち上がるまでの僅かな間に急いでスーツを脱いでラフな部屋着に着替える。

待ちに待った一人の時間だ。


「今日の夕飯はパスタでいいですかぁ?いいですね、っと」


 まずは何よりも優先的にこの空腹をなんとかしなくてはならない。

夕飯といっても、茹でたパスタに温めたレトルトのソースをかけて、コンビニで買ってきた温泉たまごを乗せるだけなのだから楽なものである。

別に料理が苦手というわけではないが、独り身の藤宮にとってこの手軽さはとても魅力的なものだ。

同居人もいないのについ言葉に出してしまうのは独り身ゆえの寂しさからだろうか。


 見た目を意識して無駄に綺麗に盛り付けがされた皿を鼻歌まじりでテーブルに持っていくと、フォークやスープと一緒にいつも通りの慣れ親しんだ配置で並べていく。


「いただきまーす」


 好みの硬さに茹であがった会心の出来のパスタにホワイトソースをよく絡め、くるくるとフォークで巻いて口に運ぶ。

ソースのクリーミーな舌触りにベーコンの塩気と粗く挽かれた黒胡椒が良いアクセントになり、しっかり味わってから喉を通って胃に収まるたびに幸せを感じた。


 500円もかかっていない安い幸せではあるが、最近はレトルトの味もずいぶんと向上したもので、これだけでも十分に美味いと思えた。

満足度に点数をつけるなら80点台後半は堅い。空腹時の今なら100点に手が届くところまできているのではないか。

栄養バランスについてはこの際考えないでおく。


「っと、こうしてる場合じゃなかった。早く行かないと皆待ってるかな…」


 もう少しこの素晴らしい味に浸っていたい気もしたが、テレビテーブルの端に置かれた時計に目をやると時刻は21時になろうかというところだった。

約束の時間に遅れてしまっては申し訳ない。


 思い出したようにPCに向き直ると、黒いヘッドマウント型のディスプレイを装着する。


 今年の春に発売されたばかりで価格もかなりのものだったが、これまでの同種の機器と比べて数段上をいく鮮やかさとクリアなサウンドは藤宮の心をがっちりと捉えた。

ある程度の大きさがありながらも徹底した軽量化が施されていて長時間の使用も問題はないし、さらに落としたくらいではびくともしない耐久性まで兼ね備えている。

一度使ってみるとわかるが、以前の物に戻そうなどという気にはまったくならない。


 そのお気に入りのディスプレイに映し出された中から、方形盾の前で色の違う2本の剣が交差したデザインのアイコンを選んでダブルクリックする。

すると目の前では滑らかな動きでウィンドウが切り替わり、そこにはCGで描かれた青い惑星と落ち着いたBGMをバックにタイトルが表示された。

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