第5話 星、墜ちて
「月が……欠けていく……?」
テリオもシエルも二十年近く生きている。何十、何百、何千と夜を越えて。夜空を見上げ、月を見たことも一度や二度ではない。
――しかし、こんなことは一度も無かった。月が雲に隠れて見えなくなることはあれど、視認して分かる速度で欠けることなど一度も無かったのだ。
「……これを人為的に起こしてるのだったら尋常じゃないわよ」
「嫌な予感がする……急ごう」
こんな経験はイグナとフラルにとっても初めてで。ましてや、それを引き起こしているのが他でもないヒトという事実に、危機感を感じられずにはいられないでいた。
「かつての神話の再現だ! 月の一つや二つぐらい飲み込まないとなぁ!」
大きく腕を広げて、全世界に宣言するように声を上げるロクァース。夜空を望むことのできる宮殿の最上階で、まるで舞台の中心に一人立つ主役者のように悲願の達成を噛み締める。
「何年待ったことだろう……! 何年耐えたことだろう!」
理解者のおらぬ中、一人で黙々と研究を進め――
禁術に手を染めてまで試みたものの失敗して。
得られた成果は魔物の凶暴化と極々小さな黒い靄。
世界を混乱に陥れた革命家として捕らえられ。
日の光の当たらぬ獄中でも、裏ではその靄の成長を待ち続けていた。
「そう! 全ては我が望みの為に!」
ゼロから作り上げられた彼・彼女が形を持って目の前に現れた時、ロクァースは喜びに打ち震えた。最高の道具が自分の手の内に収まった瞬間に叫ばずにはいられなかった。
「このツィルニトラさえいれば、神話世界への扉を開くことなど造作もない!」
本来ならばあと数年はかかると思っていたものが、一気に早まったこともロクァースにとっては僥倖とも言えた。
――キビィ。原典――『月食いの黒竜』とも呼ばれたものと同種かそれに近い存在の覚醒。
彼女の性質を取り込んでしまえば、成功の可能性が跳ね上がるに違いないと。そう考えた時には、ツィルニトラの分身体によって世界中を捜索させ始めて。
数年の間、成果は得られなかったものの――今、この時。己を理解することもできず、犯罪者の烙印を捺した魔法都市を完全に沈黙するまで追い込み、目の前には最後の鍵であるキビィも転がっている。
「お前のようなマガイモノが私を食えるものか。腹を壊しても責任は取らないぞ?」
「減らず口を叩く余裕があって何よりだが――私のツィルニトラは完璧だ。もう指一本動かす力も残っていないだろうに。大人しく俺の功績の礎となるがいい」
パチィンとロクァースが指を鳴らすと、黒い靄が湧き上がり――その中からキビィによく似た姿でツィルニトラが現れる。
「くっ……! ふふっ。テリオを怒らせると怖いぞ……」
そう小さく笑うキビィに何の反応も見せず、ツィルニトラは一歩一歩と近づいていく。
『世界の終わり』というロクァースの言葉。見る見るうちに歪み、削れていく月。刻一刻と迫ってくる危機感に、静寂が残るのみとなったエルミセルを行く足も速くなる。
道の上にはエルミセルや他の都市がロクァースに抵抗したときの物なのか、大量の兵器の残骸が。両側には幾つもの建物の残骸が並んでいた。そんな終末感を漂わせる中で宮殿の入口が近づいていたのだが――
「……これをどうにかしないと進めないわね」
目と鼻の先まで来たところで障害が立ちふさがる。連れ去られるキビィを追って跳んだイグナを阻んだ魔法障壁が、ぐるりと宮殿を覆っていた。
「……チッ、剣は通らないぞ」
「キビィ……!」
ここまで規模の大きな障壁に二人の剣が通る筈もなく。更にはフラルの赤金の糸も大剣も同様に弾かれてしまう。
「…………」
「僕が飛び込んで障壁の元を叩く。……皆はすぐに後を追ってきてよ」
「……イグナ?」
八方塞がりとなり、沈黙する一同の中で言葉を発したのはイグナだった。
辺りに散乱していた残骸を、瓦礫を取り込み始め――その質量は、元々の数十倍、数百倍にまで膨れ上がる。
メキメキと骨を押しのけ、器官を押しのけ。頭が、足が、翼が。肉体の全てが無機物へと変わっていく。
「……あんな奴はどうでもいいんだけどさ。このままじゃ、シエルまで危ない目に遭っちゃうんだろ?」
あれを放っておけば、必ずそうなってしまうと。フラルの話では世界中どこへ逃げても追ってきたと言うし、それならば覚悟を決めるしかないとイグナは腹をくくる。
「……可能なのか?」
「……“障壁を破ることは”できそうね」
実際にナヴァランでの出来事を見たシエルと、長年の知り合いであるフラルには分かっていた。確かにあのイグナの全力の飛翔ならば、障壁など簡単に破れるだろうと。しかし――
「…………」
「イグナは……どうなるの……?」
頭分かっていても、そう尋ねずにはいられない。たとえ聞きたくなかった答えが返ってこようとも、シエルはそうせずにはいられない。彼が無茶をして傷ついた姿を――これまでに二度、目にしているのだから。
「いくら僕でも、無事では済まないさ」
「……ちょっと待ってよ。ねぇ……!」
かつてテリオたちの腕を食った黒竜よりも、クルーデたちを追いに現れた靄竜よりも。そしてナヴァランで暴れた時のイグナ自身よりも更に巨大になって。
「……本気なんだな」
「少しだけ手伝ってあげるわ。気休め程度だけど、ね」
唇を噛み締めるクルーデと、赤金でできた外殻を纏わせるフラル。
「止めてよみんな! このままだとイグナは……イグナは!」
「僕は大切なものを守りたい。シエルのいるこの世界が終わるなんて認めない。……テリオ、君もまだ、負けてなんかいないんだ」
「……イグナ」
取り戻すべきものを取り戻せず。守るべきものを守れず。そんな自分に、イグナを止める資格はないと。そう黙っていたテリオに、イグナは言う。
『まだ、ここで終わらせるわけにはいかないだろう』と。
「ここまで来たらもう後戻りはできないさ。……シエル、君のおかげで僕はまた空を飛ぶことができた」
どれだけ嬉しかっただろうか。
一度は諦めていた空を、翼を。僕に与えてくれたことが。
命を投げ出してもいい、そんな存在に出会えたことが。
今や大型船に匹敵する程の巨体が輝き始める。それは強く、強く。まるで夜空で煌めく星のように。月の消えた夜、寄る辺のないヒトを導くように。
僕が最後に見るのは君の泣き顔なのだろうけれども。
君の最後は――笑顔でありますように。
「――ありがとう」
「イグナ――ッ」
飛び上がった瞬間から最高速へと達したイグナは、輝きを放ちながら雲を突き抜け――まるで突き刺さるかのように宮殿へと突っ込んだ。
「オオオオオオォォォォ!!」
軋む障壁に勢いを打ち消されながらも、イグナはその手を伸ばす。ガリガリと外殻を、皮膚を、肉体を削られながらも身体をねじ込んでいく。
数秒の力のせめぎ合いの末――障壁を突き破るその姿は、まるで流星のようであり。赤く、激しく。膨大な熱量を放ちながら。イグナは宮殿の二階部である辺りへと墜ちたのだった。
「――障壁が消えたぞっ!」
「…………っ! 全員しっかり掴まってなさい!」
イグナの墜ちた二階部へと赤金の鋼線を飛ばし、辿る要領で移動していくシエルと一同。全員が降り立つと、クレーター状に抉れた床の中心でイグナが倒れていた。
「イグナっ――つっ!?」
「……近づかない方がいい。キミでも触れたら無事じゃ済まないから」
駆け寄るシエルだったが、イグナの身体は赤熱した状態のままで。触れないでいても、近づくだけでジリジリとシエルの皮膚を焼いていく。
「でも……このままじゃイグナが……」
「この体じゃもう駄目さ。満足だよ、僕はもう」
堪えていた涙が、シエルの瞳から零れ落ちて。高温に熱せられた床に触れた途端に、一瞬で蒸発していく。
テリオもクルーデも、その別れをただ見守ることしかできず。現状を一番把握しているフラルでさえ、急かすことができずにいた。
「イグナがいなくなったら……私はどうやって飛べばいいのよ? 嫌だよ、離れ離れになるのは――」
「あの頃とは違うさ。その気になったら、シエルは直ぐにだって飛べる。新しい翼でで飛ぶことができる。……僕みたいな怠け者じゃないからね」
そう言い残して、イグナの身体は光の粒子となって消え始める。
「イグナ……イグナぁ!」
「…………」
満足そうに目を閉じるイグナ。その表情にフラルの心はざわつく。
「なんで一番ヒヨッコのあんたが……そんな表情できんのよ……」
何十年、何百年とヒトの中で暮らす中で、数えきれない程の出会いと別れを繰り返してきたフラル。高齢のパトロンが付いたことも一度や二度ではない。そしてそのパトロンが亡くなることも必然で、その最期を看取ることもあって。しかし、彼らの表情はどれも穏やかで、満足そうにしていて。
――そんな表情を、イグナがしていたのだ。
「大好きだよ、イグナ……」
「……知ってるよ」
自分たちの中でも格下だと思っていた彼が、自分が未だ得られずにいた“何か”を手にしていて。驚きと、悔しさと。焦燥と、称賛と。いろいろな感情がフラルの中で湧き出していた。
「…………」
イグナの消えた跡には、様々な金属が混ざった金属塊だけが残っていた。傍で崩れ落ち泣いているシエルと、黙って見ていることしかできなかった二人。
誰も言葉を発さない中で、フラルだけが静かに口を開く。
「……私とシエルはここに残ってやることがあるから。あんた達、さっさとあれ止めて来なさいな。一瞬だけ、最上階から魔力で障壁を強化するのが見えたわ。間に合わなくなっても知らないわよ」
その声は怒りに打ち震えているわけでもなく。悲しみに暮れているわけでもなく。ただ淡々と、必要な情報だけを伝えているようで。
「いったい何を――」
「……分かった。おい、行くぞ」
肝心の‟何をするつもりなのか”という部分を明かさず、更には友人であった者が死んで、他に言うことは無いのかと言おうとしたテリオを無理矢理に掴んで走り出したのは――他でもない、フラルの相棒であるクルーデだった。
「最上階だな」
「……頼むわよ」
「……クルーデ?」
「あれは気分や感傷なんかで動くような女なんかじゃない」
テリオも走り出したのを確認して、クルーデは手を離す。振り向きもしないままに、彼女と同じように淡々と言葉を吐き出す。
「今この状況で一番大切なこと、必要なことが分かっているのはあいつだ。そのあいつが『やることがある』と言ったのなら、そうなんだろうさ」
正面に伸びる階段を上り、ロクァースのいるであろう最上階広間の扉の前へ。
「……テリオだったな。お前には後で聞きたいことがある。そのためにも――」
扉を開こうと手を伸ばす寸前に、クルーデはテリオへと向き直す。かつて何度も顔を付き合わせていた中でも偶にしか見ることのない、そんな真剣な表情がクルーデの瞳の中にあって。それに応えるように、テリオは大きく頷くのだった。
「――あぁ、さっさと終わらせるぞ。クルーデ」




