第7話 海中からの襲撃者
鉄銹都市ナヴァランから戻り、次の目的地をファリネへと定めた二人。クルーデはいつものようにデッキで海を眺めていた。フラルは相変わらずの様子で、潮風から身を隠すように船室へと引っ込んで、一人だけ浮世離れした快適な船旅を満喫していた。
「…………」
「あと数刻もすればリナードに着くぜ。この調子なら……あー、もう見えてもいい頃なんじゃねぇか?」
海、海、海。
空、空、空。
青、蒼、青、蒼。
どこまで見ても空と海。
(記憶を失って)初めての船旅から既に結構な時間が経っており、変わり映えのしなくなってきた風景にクルーデが飽き始めたころ――横を通りがかった船員の一人が、水平線の先を指さす。
「へぇ……」
クルーデが船員に指された方を見ると、確かにうっすらと大陸の影が見えた。距離が離れすぎていてよく見えはしないものの、その付近に停泊している船舶の帆がちらほらと確認できる。
――ファリネのある大陸の港町、リナードだった。
船が進んでいくにつれ、その街並みも徐々に確認できるようになる。山並みの斜面そのままに広がる淡い色の建物群――
「あの街は――」
どこか見覚えがあるような、とクルーデが口にしようとした時だった。
「――っ!?」
――ドクン、と。前触れもなく内蔵が揺れる。激しい胸の痛みと共にやってきた頭痛に、堪らずクルーデは膝を付いた。
「ぐ……っ!?」
「お、おい。大丈夫かよ!?」
心配して声を上げる船員。そんな彼に対して、なんとか返事をしようとするも――クルーデの口から出たものは呻き声ですらなく。ともすれば意識を失ってしまいそうな、そんな痛みが絶えずクルーデを襲い続ける。
――ドクンッ。
「ぐああぁぁぁぁ!」
吐き出すような、まるで獣のような叫びは船室まで届く。当然、そこで寛いでいたフラウの耳にも。となれば、無駄吠えを叱るのも飼い主の責任――眉を顰めて文句の一言でも言ってやらなければと、フラルが船室からブリッジに出てきた瞬間。
「何をそんなに騒いで――っ」
――グラリと大きく船が揺れた。
右へ左へと揺さぶられる船上で、激痛に倒れたクルーデが自身の身体を支えきれるわけもなく。あわや船外に投げ出され、海へと落下する寸前――フラルの糸が間一髪でその身体を捉えたのだった。
「海の底に引っ込んでたと思ったのに、また来やがったのか!」
海面から飛び出してきた複数の触手。その姿に見覚えのあった船長が声を上げる。
「気を付けてください! こいつには銛も通らなくて――」
ウネウネと蠢く複数の足が、餌として飛び込んできたクルーデを掴もうと伸びてくる。別に力比べで負ける気もしないが、ここで引っ張り合いに応じるのは御免と、フラウはクルーデの身体を船上へと引き戻した。
「次から次へとっ!」
こんな大型の魔物相手では船員たちの装備も期待できない上に、戦闘を任せていたクルーデがこの状態。――となれば、フラルが戦うしか選択肢は無く。
街中ならともかく、ここは海の上。身内しかいない船上で、正体について余計な詮索をされるような心配もするだけ無駄で。これ以上船を傷つけられるのも不愉快と、フラルは鋼線を伸ばす。
「船長さんはあの子をお願いね。仕方ないけれど、私がなんとかしますわ」
「お、おう。信じてますぜ、お嬢!」
船旅で魔物に襲われることは一度や二度ではない。その度に鮮やかな操糸術を見せていたフラルならばと、船頭は深く頷く。
「払っているお金分は動いて欲しいところですけれど――」
鋼線を伸ばしながら勢いよく腕を振るい、いつものように魔物を両断しようとするものの――滑りのある表面と、弾力のある身によって糸が弾かれてしまう。
「――――」
刃が通らなくとも、歯が立たないわけではない。滑りの残る鋼線に辟易しながらも回収を済ませるフラル。それならばと直接切断するのは諦め、今度は腕を横薙ぎに振るう。早く、鋭く――ではなく。穏やかに、嫋やかに。魔物の複数の足を取り囲むように、赤金の鋼線が伸びていく。
「おいたの過ぎる手は縛っておかないと、ね」
根本から束ねられた足は、鋼線によって吸盤を削ぎ落とされながらも束縛から逃れようともがく。――が、さながら糸鋸のように返し刃を立てられた鋼線は、足が身動きする度に深く、深く、食い込んでいった。
足の数本を束ねられたまま固定され、海中で思うように身動きを取ることのできなくなった魔物は海底へと沈んでいく。当然の如く、縛り上げた鋼線の先にいるフラルの身体もぐいぐいと海へと引き寄せられ――
「チッ――」
引き上げたところで場所もなく、止めを刺すことを諦めたフラルはプツンと糸を切り離した。回収することなく切り離してしまうのは身体に負担がかかるのだが、背に腹は代えられず。
姿を消していく魔物に、フラルは安堵の溜め息を吐く――吐こうとした。吐こうとしたのだが、突如鳴ったガラスの割れる音に中断されてしまったのだった。
「今度はなんなのよ……」
慌てて音のした方へと向かったフラルだったが、そこで目にしたのは――ちょうど大の大人と同じぐらいの体躯をした黒竜だった。しかし黒竜とは言えども、その見た目はフラルの知る――キビィとは似ても似つかない、ひょろりとした細い身体を滑らせるように地面を這っていた。
「な、なんだてめぇ……近づくなっ」
鳴き声もなく、ただ沈黙を続けながら。意識を失っているクルーデを襲おうとしている黒竜。船長が持っていた剣で追い払おうとするものの、ひらりと身を躱しながら距離を詰めていく。
「――あーやだやだ……」
一仕事終えて重たくなった身体に鞭打ち、フラルは再び鋼線を伸ばして黒竜を絡めとる。
「…………?」
確かにその身体は竜のものだったのだが、長い時を生きてきたフラルの記憶に一度も見たことのない個体。どこからやってきたのか中を覗こうとしても、見えてくるものはただの黒で――そこでようやくフラルは、『竜の形を模した何か』なのだと思い当たる。
かつて似たような物を、確かにフラルは見たことがある。キビィの身体の一部、黒い靄、それと大まかな分類としては同じものなのだが――
「けれど――これには中身が無さすぎる」
――紛い物の紛い物。
残滓と呼ぶにはあまりに薄く、これはもはや虚像に近い。こんなものが動いて自分達に襲い掛かってくることに、『気持ち悪い』と少なからず感じるフラル。
一息に力を込めると糸が締まっていき――黒竜の身体を切り刻んだ。その死体は、形を失った瞬間に靄として霧散していく。
こんなものがなぜ、そもそも海上にいる自分達の所にまで襲い掛かって来たのだろうか。フラルのそんな疑問を掻き消すように、新しい黒竜が今度は船室の入口から飛び込んで来たのだった。
「キリがないったら――」
すかさず鋼線を振るい、黒龍もどきを両断するフラル。
「な、なんなんだよ、こいつ等は……」
「面倒なことになったわね……いったん外に出ましょう」
手ごたえはないものの、このままでは埒が明かないと、フラルは再びデッキへと出る。そんな彼女を取り囲むように、更に“もどき”が二匹、三匹と船上へ降り立つ。
通常の竜たちでさえ、一つの獲物に対してここまで集団で襲いに来るということはない。にも関わらず、その後ろには大陸の方から飛んでくる新しい“もどき”の影。
「――どうやら、余程私たちを近づけたくないようね」
さてどうしたものかと逡巡するフラル。目の前の“もどき”を片付けながら船長に指示を飛ばす。
「……今すぐここから離れるわ。一度グラチネまで戻って!」
――なんにせよ、クルーデの意識が戻らないことには、次の旅路へ移ることもままならない。ファリネへと近づいたが故に彼に不調が出たのだとしたら、この場所に居続けるのは得策ではないと判断したのだった。
まるで猛禽のように、集り、集い。狙って飛び込んでくる“もどき”たちに苛立ちを覚えながら、フラルは次々とそれを捌いていく。大陸との距離が離れていくにつれ、襲撃の波も穏やかになり――完全に見えなくなったころには、ようやく一息つける状況まで持ち直したのだった。
「あれだけの戦闘があったのに、何も残っていないなんて――」
こんなもの相手に息が荒くなるほどに戦っていた自分は、さも間抜けだったことだろう。そう考えると、どっと疲れが押し寄せてくるフラル。
グラチネへと順調に向かい始めたことを確認して、船室に備え付けてあった風呂場で汗と潮風でべたつく身体を洗い流すことにして。
「とんだ拾いものをしてしまったわね」
風呂場に入る前、そう頭を押さえながら言うフラルと――
そんなことはどこ吹く風と、眠り続けるクルーデだった。




