第5話 風浪に乗って
「他の大陸へと移動するためには、ここから船に乗って移動しなければならないわ」
――水面に反射する太陽光。辺りを包む潮の香り。
日が昇り、朝食を済ませて食の街アヴァンを出た二人は、アストラを経由して港町であるグラチネへとやってきた。馬車を降りたフラルは迷うことなく、桟橋で作業している男の一人に声をかける。
「私の船を出してもらえる?」
「フラル嬢!? ま、待っていただけますかい、海では魔物が――」
ここでもフラルの顔は十二分に通っているのか、元々の得意先としているのか。末端の船員らしき男ですら、驚き飛び上り、彼女の名前を口にする。それがあまりにも素っ頓狂な声だったがために、船長が船の上から顔を覗かせ――彼女の姿を見るなり慌てて対応をしに駆け寄って行くのだった。
――魔物。
「海の上でもか……」
クルーデが思い出したのは、先日宿泊した宿屋で聞いた話――そこでも世界中で魔物の凶暴化しているという内容が話題に上がっていたのだった。そしてそれは海上でも例外ではなく。海中から襲われた船が何隻も出ていることを船長は説明する。
当然、そんなことは谷底の魔物たちを普段から蹴散らしていたフラウも気づいていたことで。船長が話していたことに更に付け加えるのならば、その“魔物の凶暴化”は段階的に酷くなっていたのだった。
「構わないわ。いいから出して」
「……わかりやした」
その穏やかな笑みを崩すことなく続けるフラルに、船頭は諦めて頷く。似たようなやり取りはこれまでに何度もあり、危険の伴うようなことも一度や二度ではない。――が、そのうち一度として彼女が意見を曲げたことは無かったし、必ずと言っていいほど結果を出してきたのが彼女だと、船長はよく知っていた。
「おいテメェら、仕事の片付けは任せたぞ!」
「おぉう!」
それならばと船長は指示を飛ばし、船員たちはそれに応える。何人かは船渠へと向かい、また何人かは船から積み荷を降ろし始めた。その動きは迅速も迅速、クルーデが呆気に取られている間に、ひときわ豪華な装飾に彩られた個人用の小型船舶が出てくる。
もちろんそれは、フラルの所有しているもの以外の何物でもなく。竜骨から帆から何から何まで、彼女の目の通っていない部分は無い。それ故に、その性能は一般の比ではなく、動力は魔力も併用している特注品のため、最大速度は倍以上である。
「……凄いな」
「貴方にとっては、凄くないものを探す方が難しいかもしれないわね」
フラルたちの目の前に船を泊め、先ほど降ろされた荷物を次々と積んでいく船員たち。食料や航海に必要な装備などが瞬く間に船内へと仕舞われ、全ての準備を終えた船員のうち、三分の一ほどが船上に残っていた。
「急ぎで船を出すなんて久しいですが、どこへ向かうんですかい?」
「ちょっと探し物をしにナヴァランへ、ね」
帆いっぱいに風を受け、船は海上を滑るように目的地へと進んで行く。その船上、後部デッキからクルーデは遠く離れていくグラチネを眺めていた。
「――――」
記憶を失っているクルーデには感慨も無く。郷愁も無く。そこで何があったのかという興味すらも薄くなって。『なぜ自分はここにいるのだろう』という空虚さだけがぼんやりとクルーデの心の内を占めている。
「薄々と分かっていた事だけれども、船に乗ったことぐらいはあるようね――」
船室の中で船頭と話をしていたフラルが、黄昏ていたクルーデに声をかける。
「どういうことだ?」
「初めて海上に出たのなら、足元も覚束ないはずだもの」
クルーデが右を見ても左を見ても、船員たちは軽々と船の上を移動しており、更には目の前に立っているフラルでさえ、揺れなどないかのように振舞っていた。そんな中でクルーデにはその言葉の真偽が判断できるはずもなく。否定する材料もなく、否定するつもりもなく――離れゆく大陸を眺めながらほんの短く、クルーデは『……かもしれないな』と答えるのだった。そうして彼が振り向くと――
「……そのフードはどうしたんだ?」
その身体を丈の長いコートで隠し、頭にも深々とフードを被っているフラウの姿が。ふわりふわりと風にたなびく様のどれを取っても素材の良さが如実に表されているものの――街中だったら絶対にしないような、そんな彼女の珍しい格好にクルーデは目を丸くする。
「当然、私が自分で用意したのよ。海風は肌に悪いから好きじゃないの」
「肌に?」
「……油断してると錆びるのよ」
「あぁ、義手に血が付いた時も五月蠅く言っていたな……」
身体が錆びるのを嫌がるフラルの様子に、クルーデは首を傾げる。
人の姿で行動している状態で、元の竜の身体に影響があるのだろうか。いや、もしかしたら人の肌に見えているだけで、実際は今も金属の鱗が全身を覆っているのでは――と、そんなことを疑問に思ったところで、見ただけでは確認する術もなく。ましてや『直接触って確認してもいいか?』などと口に出せるわけもなく。
「――なぁに? 触ってみたいの?」
「……心を読むな」
小さく舌打ちをして、目を覚ましてから何度目だろうかとクルーデはため息を吐く。記憶が無いことを本人よりも先に認識し、たまにこういった風な――頭の中身をそのまま見ているかのように先取りした発言をされては、それこそ掌の上で転がされているようで気分のいいものではなかった。
どうにかフラルの弱みを見つけだして。四六時中それのことを考えてもみれば一杯食わせてやれるだろうか、という考えが頭を過ったところで、突然クルーデの額に衝撃が走る。
「――っ!!」
「馬鹿なこと考えてないで、貴方も中に入ってなさい」
フラルは『こんな潮風の中に右腕を曝すなんて、本当にいい度胸ね』と最後に言い、痛みに額を擦るクルーデを置いて、船室へと戻って行ったのだった。
「フラル嬢! そろそろ着きますぜ!」
「あら、そう。思っていたよりも早いのね。――流石は優秀な海の漢ですこと」
途中、船頭が言っていたように魔物が襲ってくることも何度かあったものの、小型のものが数を揃えて飛び掛かってくるだけ。クルーデ一人で殆ど対処できるようなもので、当初危惧していたような被害には至らなかったことも、早めの到着の一因となっていた。――とは言っても、殆どがフラウの船の性能の御陰だったのだが。
「……先に出ておくぞ」
「急いで外に出てもなにも変わらないだろうに、せっかちな子ね」
船室から出たクルーデの目に映った大陸――遠目から見ても、着船予定である港町カヌレが確認できた。その奥には目的地である街、ナヴァランの姿――正確には、街から伸びる煙突だけが。一本、二本と伸びたそれらから吐き出される黒煙が空を濁している。
「――あら」
口では興味なさそうな物言いだったフラルも、クルーデに付いてデッキへと出ていた。
「ずいぶんと控えめになったものね。昔はそれこそ、空を黒く塗りつぶすほどだったのに」
「……そうなのか?」
フラルが最後に訪れた時には、四本や五本といった程度のものではなく。遥か天空へと伸びた煙突から出てくる黒煙は、まるで毒のように空を侵食していたもので。その臭いが、光景が、空気が、何もかもが相容れないと、フラルも殆ど滞在することの無かった街である。
「えぇ、そりゃあ工業の中心地ですもの。世界中で使われている金属の半数以上がこの街から出ていると言っても過言じゃないわ。……そんな街が――いまさら自然に優しくなったとは思えないのだけれどね」
『……何かあったのかしら』と、フラルは小さく呟くのだった。




