第1話 その青年は空から降り来りて
かつては赤金竜と呼ばれた彼女――フラルは一人、大渓谷の底を歩いていた。
上部は街と街との移動のため橋がかけられているものの、その底は地上から覗くことは適わず。もちろん、そこに人の手が入ることはない。フラルの歩いている場所はまさに、人々の間では異界へと繋がっているのではないかと噂されている魔境の一つとなっている。
そんな物騒極まりない所を、まるで庭の散歩でもしているかのように。フラルはゆっくりと目的もなく歩いていたのだが――そんな彼女の後ろを唸り声が付いてきていた。それは一つ、二つ、三つと数を増やしていく。
人の手の入らないということは、もちろんそこにいる魔物たちも野放しということである。周りを魔物に囲まれて、四方八方を敵意に溢れた唸り声に包まれて。それでもフラルは怯むでもなく、ただ溜息を吐くばかり。
「駆除しても駆除しても沸いてくるのね、あんたたち……」
何度目かの魔物との遭遇に彼女は辟易としていた。
侵入者であるフラルに対して向けられている感情。最初は警告から始まって、みるみるうちにそれは殺意へと変わっていくのが、フラルには手に取るように感じられた。『逃げるなよ』と言わんばかりに大きく呻りを上げて、正面にいた一匹がフラルに飛びかかっていく。
フラルが投げやりに右手を振ると、それに遅れてくるようにヒュッという風切り音が鳴った。股下から真っすぐに両断される魔物。それは指の先から伸びる金属の糸によるものだった。
「あーやだやだ。錆びはしないけど不快ったらありゃしない」
ズパンッという音が遠くで鳴る。何事かと思いフラウが見上げると、遥か高くの地上部にある吊り橋が切れて落ちる瞬間が見えた。片方の支えを失った吊り橋が、勢いよく岸壁に叩きつけられ、踏み板が何枚か砕け散る。
「あら、やり過ぎたかしら。……しーらない。人間が勝手に設置したものですもの」
呑気にそう呟きながら、フラウは両手を広げてくるりと――大きく、緩やかに回る。指先から伸び、微かに光を反射しているのは先ほどの鋼糸。彼女の身体が一周し終わる頃には、上下に切り離された魔物たちの死体がずるりと崩れ、辺りに血だまりを作り始めていたのだった。
――赤金竜。
金属の名を冠したその竜は、その名の通りの赤金を、金属を操る力を持っていた。そして、その能力はヒトの姿を持った状態でも――外から見れば絶世の美女であるフラルの状態でも、変わらず発揮される。むしろ竜の姿であるときよりも、ヒトの姿の方がその力を使うのには適していた。
糸のように細く伸ばして振るえば、物を切断する刃と化す。
分厚く広げて身に纏えば、攻撃を防ぐ盾となる。
生まれ持った能力を一番活かすことが出来るのが、このヒトの姿であることを認識し始めたフラルが、ヒトに対して興味を持つのはなんら不思議なことでは無い。
赤色の、ウェーブのかかった長髪を風に揺らし。旅をするにはおよそ不似合な、高級なコートを羽織って。身に纏うは鱗ではなく、気品そのもの。この世のモノとは思えない程の美貌を携え、どこかの貴族令嬢さながらの出で立ちの彼女は――竜の身でありながら、ヒトの社会に溶け込んでいたのだった。
「……あら?」
谷の中腹より少し下のあたり、どこか懐かしい匂いに鼻をくすぐられ、フラルはふと匂いのする方を見上げる。――が、そこにあったのはこの世のものとは思えない光景があった。
黒、黒、黒――見る者が目を背けたくなるような、そんな怪しく不気味な光景。液状化した黒い何かが岸壁を伝い、ボタボタと落ち、広がり始めていた。
「あれはまさか……」
自然に起こるものではまずないそれを、フラウは知っていた。見覚えがあった。
それは、自分のよく知る友の――体の一部。
厳密に言い換えるならば、体を構成しているはずの黒い靄だった。
「――キビィ?」
赤金竜はその友の名を小さく呟く。
数少ない知己の内の一人、一頭。竜としての性質を持ちながら、竜という形に拘らず。変幻自在に生き方を変えながらも、食に対しては異常に拘りを持っていたあの黒竜の名を。
まさか彼女がいるのだろうか。まさかそんな偶然が。
最後に会ったのは何年前、いや、何年前のことだろう。
あの靄の状態はただ事ではない、何があったのだろう。
しかしフラルの中で沸き上がった気持ちは、心配などではなくただの興味だった。
あのキビィが靄を垂れ流しているなど、この上ない笑い話になるだろうと。何年眺めたところでその全貌を知ることが出来なかった彼女の、今まで見たことのない顔を見れるかもしれないと。
逸る気持ちを抑えながら歩を進め、ちょうど真下まで来たかという頃。更にフラルが眉を顰めるような事態が起きていた。
――あれだけ広がっていた靄が、急に引き始めたのである。そして、フラルが見上げる中で、かすかに揺れる竜の頭。それが一頭ではなく二頭であったがために、更に彼女の頭に疑問符が増えていく。
「何が起きてるのよ……」
あのような存在など、フラルが知っているのは後にも先にもキビィただ一頭である。それがなぜ、二頭も出てくることになるのか。それが起きているのが、ちょうど切り出した部分であるために、フラルのいる崖下からでは一向に様子を窺うことができない。極めつけは崖から人影が見えたと思いきや――
「ちょっと、今度は――っ!?」
その人影がそのまま飛び降りた。背面から、地面を蹴るように飛んだ。
当然、翼もなにもついてないヒトが――青年が、何の準備も無しに飛び降りてタダで済むわけが無い。それを証明するかのように、崖の途中で何度か酷く体を打ちつけていた。
このままでは落ちていく。墜ちていく。
深い、深い谷の底へと。真っ逆さまに。
何もせずにいたら、間違いなく死に至るだろう。
何をしたところで、間違いなく死に至るだろう。
それでもその青年はフラルの目の前を通るように、頭から落下していって。
落下の衝撃で即死しなかったにしても、いずれ魔物の餌となる。
それなのにその青年は、満足そうに笑っていたのだった。
「――――」
一瞬だけ目が合った時、フラルの中に情報が流れ込んでくる。
先ほどの魔物の時と同じ――フラルは頭の中身を覗き見ることができる。
その度合いは相手の状態にも大きく左右され、当然のこと青年はマトモとは言えない状態だったためか、酷く不鮮明なものだったけれども――それでも内面までもが酷くボロボロに傷ついているのが分かった。
ヒトの身には余る程の――ともすれば吐き気を催す程に擦り切れた、どす黒い心の内を宿しながら。それでも笑う青年の姿にフラルの心はざわつく。
ヒトの姿を手にして、ヒトの中で過ごして。それでもこれほどに尖った、破裂寸前の心を見るのは初めてで。それはともすれば、自分がまだ見ぬ、自分が追い求めていた恋という感情と似た何かかもしれなくて。いわゆる一目惚れというものなのかもしれなくて。
そう思った次の瞬間には――
フラルはその姿を竜のものと変え、飛び出していた。




