第10話 これまでと、これからと
「イグナっ!?」
突然現れたイグナに、目を丸くするシエル。目の前で起きている事をもっとよく確認しようと、彼女はゴーグルを外し涙を拭う。
「――なんで……」
この夜空の中で輝きを放ちながら飛んできた彼は――ほんの一瞬で飛空艇の元まで辿りつき、シエルを落下から救っていた。
どうしてここに。この空に。
あれだけ飛ぶことを嫌がっていた筈なのに。
いつものように格納庫で丸まって、待っているばかりだと思っていたのに。
戸惑うシエルの視界に、痛々しいほどにボロボロになった翼が入る。
「――っ! これ、いったいどうしたの!?」
「……生まれつき、身体が丈夫な方じゃないのさ。他の竜とは違って、僕は飛ぶだけでも翼が傷んでしまう」
全身が傷だらけになっているわけではないが、それはシエルが初めて出会った時よりも酷い状態で。なのに飛空艇分の重さが増した状態でも、力強く羽ばたき変わらずイグナを浮かせ続けている。
「……早くこっちに乗り移りなよ。ほら、しっかり掴まってて」
崩壊しかけている飛空艇から抜け出し、イグナの腕を伝って背中へと上るシエル。その背中の上の方に――輪っかのような持ち手がせり出していた。
「これって……」
近づき確認してみると、なぜだか豪華な装飾があしらわれている。 それは既視感などではなく、シエルが実際によく知っているものだった。
――銀の指輪。
ファリネへ行ったシエルが、イグナにお土産として買ってきた指輪である。それがまるで、イグナの身体の一部であるかの如く同化していた。
「……普通じゃないんだ、僕は」
いろいろなものを身体に取り込むことができる。生物は取り込めないし、結局は異物でしかないから身体に負担がかかるけど――
そう言って、イグナは自嘲するように笑う。
「……ごめん。無理、させてるよね」
「…………喋ってると舌噛むよ」
背中にシエルを乗せて、手には飛空艇の残骸を掴んで。イグナは再び、赤黒くなった空を駆け抜ける。行きの時よりも遥かに速度は落ちているものの――翼は耐えきれないのか、ますます朽ちていく。
少しでも抵抗を減らそうと、身を低くするシエル。
ぴったりと触れているその背中から感じるのは、心臓の脈動。何年も一緒に過ごす間、イグナの身体を枕に寝たことも何度もあった。それは――普段と変わりはない、いつものイグナであることを証明していた。
イグナは少し乱暴に格納庫の前へと降り立ち、シエルを下ろす。そのころにはイグナの輝きは収まっており、元の深緑色の身体に戻っていた。
「街の人の避難も、もう終わってるようだね。……それじゃあ、ちょっと借りるよ」
そう言うイグナの視線は――未だ砲撃音の鳴り止まぬ鉄銹都市の方へと向いている。
「…………? どういう――っ!?」
シエルが理由を問うよりも先に、答えが目の前で現れる。
イグナの持っていた、飛空艇の翼が取り込まれ――鱗を押し退け、その背中に生え始めたのである。
再び輝き始めるイグナの身体。最初は小さく抑え気味だったそれは、次第に直視が出来ない程に眩くなる。それが無理やり引き出したように見えたシエルは、不安を覚える。
「できるだけ離れてて。……最悪、格納庫の中にいればいい。――すぐに終わらせるから」
「ちょっと待ってよ!? イグナぁ!!」
シエルの制止も聞かず、イグナは真っ直ぐに飛びあがる。数時間前の立ち位置が、まるっきり逆となっていた。
「全く学習してないな……僕は」
大地を勢いよく蹴り、高高度まで上昇したイグナはポツリと呟く。
この光景はイグナにとって二度目。数十年前、このナヴァランという街ができる遥か昔。力を制御できず、この地に降り立ってしまった時のように。地形が変わってしまうほどに、深い傷跡を与えてしまった時のように。
そしてそれを、もう一度再現するために。今、イグナはここにいる。
「――――」
大きく息を吸い、一直線に大地へと墜ちていくイグナ。
分厚い雲を抜け、上空を飛んでいた竜たちを蹴散らし――そして、着地点であるナヴァランの工業区へと勢いよく降り立った。あまりの衝撃に大地はひび割れ、辺り一帯を衝撃波が襲う。そびえ立っていた煙突だけでなく、建物が次々に倒壊していく。
当然、翼は耐えられる筈もなく。あと一度、飛べるかどうかというところ。
「何もかも、全部飲み込んでやる――!」
しかし、どうでもいいと言わんばかりに――
イグナは空へと咆えたのだった。
「オオオオオオオオオォォォォォ!」
「――っ!」
遠くから聞こえた、何もかもをを押し退けて響く、耳をつんざくような咆哮。落雷が起こった時のように、空気が震えているのが分かる。シエルがこれまでに聞いたことのない――イグナの、‟竜”としての咆哮だった。
「行かないと……!」
『できるだけ離れていて欲しい』とイグナは言っていたものの、大人しく従っているわけにはいかないと――格納庫へ帰されたシエルは、既に走り出していた。
ボロボロになった身体も、あの咆哮も。シエルにはあれが決別を暗示しているような気がしてならない。当然のように格納庫の片隅を占領していた居候の竜は『戻って来る』とも何も言わずに行ってしまった。
「あれも嫌、これも嫌って言ってたけどさ――」
あの時は友達だと言ったけれど、それは違う。
小さなことからずっと傍にいて。
なんだかんだで、助けてくれていた。
走りながらも、声を張り上げるシエル。体力の限界が近づこうとも、その足は鈍ることなく。何度つまずいて転びそうになっても、必死に体勢を持ち直しながら。彼女は戦火の中心へと戻って行く。
「イグナがいなくなるのが一番嫌なんだよ……!?」
シエルにとって、イグナは既に――大切な家族の一員なのだから。
シエルがイグナの降り立った場所へ辿りつくと、辺りは火の海となっていた。既に上空を飛んでいた竜たちは一頭もいない。あれだけ響いていた砲撃音も、既に止んでいた。
高く積まれた瓦礫の中で、赤く照らされる巨大な影。
――異形の竜。
「…………」
身動きはしておらず、所々がボロボロになりながらも。その竜は辺りの瓦礫や鉄くずをひたすらに吸収し続けている。それにも関わらず、その翼は不自然なまでにボロボロで小さいままだった。
その色、その形、その大きさ――シエルにとっては、思い当たるものなど一つしかない。その翼は間違いなく、彼女自身の手で作り上げた小型飛空艇のものだった
「イグナ――!」
至る所から砲門が突き出し、全身が瓦礫や金属に覆われ。身体の大きさは、倍近くにまで膨れ上がっている。シエルは原型を失いつつあるイグナに一瞬怯むものの――一歩、また一歩と踏み出した。
その視線は真っ直ぐとイグナを見据えて。
吹き荒れる熱風にも構うことなく。
「…………」
いくらシエルが近づいても、何の反応を見せない。その目に光が宿っているかすらも定かでは無く。まるで屍のようなイグナのその首に――シエルは抱きつくように手を回す。
「ねぇ……私のこと、わかる?」
指一本の太さが人の首ほどあるイグナである。そんな彼の首はまるで大樹のように太く、シエルの腕に収まるはずもない。必然的に、全身を押し付けるような形になっていたのだが――イグナの身体は自身のエネルギーによるものか、辺りの炎によるものか、高熱となっていた。
もともと熱に強いシエルだったが、衣服の方がだんだんと耐えられなくなり――チリチリと繊維の焦げる音が上がり始める。
それでも構わず、シエルが離れずにいると。それまで身動きのなかったイグナの身体が数秒もぶるりと震える。ひたすらに首へとしがみついていたシエルの耳に、とても小さいイグナの声が届いた。
「……大丈夫、ちょっと疲れただけ。分かるよ、シエル」
「よかった――!」
顔までもが形を代え、面影が消えかけているものの――その眼だけは変わらずに、暖かさが込められた眼差しが残っている。これで一緒に帰れると、シエルが胸を撫で下ろした矢先だった。
「もうすぐ、騒ぎが収まったことに気が付いた兵士たちもやってくる。……このままだと、シエルにも疑いがかけられてしまう」
「……え?」
イグナの言葉を上手く理解できず、呆けた声を出すシエル。その表情は安堵に包まれた笑顔から、徐々に不安に染まったものに変わっていく。
「……どうするつもりなの? 何処かに行くなんて言わないよね……? ねぇ!?」
「――ごめん」
追い縋るシエルに謝りながら、イグナは羽ばたき始める。それが最後の力を振り絞っていることは、シエルにも読み取れた。これがイグナにとって、最後の飛行になるかもしれないことも。
「ボクも――シエルには空を飛んで欲しいと思ってる。ここで夢を潰えさせたくはないんだ。大丈夫、諦めなければきっとできるさ」
「夢よりも大切なものだってあるんだよ!? お願いだから――」
ふるふると首を振りながら、イグナは飛翔する。シエルの必死の懇願も振り払って。
「……何よりも大切な、“僕の夢”を諦めて欲しくないんだ」
シエルの飛空艇の翼を背中に生やしたまま――丘の向こう側へと、再び流星のように消えていったのだった。




