第9.5話 流星-イグナ-
――シエルは話を聞かず飛び出してしまった。この黒々とした空に、ロクな準備もしないままに。……そもそもの話、どんな準備をしたところで、なにか出来るわけでもないだろうけど。
こうして取り残されてしまって……いったいどうすればいいのだろうか。外は相変わらず騒がしく、竜たちはなにやら聞き取れない程に喚き続けている。
しかたがないので、重たい身体をなんとか起こし――格納庫の外へと歩き出してみる。鎧戸はシエルが慌てて飛び出したままだ。
「……動きにくいな」
なるべく人目に付かない様に。物音などで怪しまれない様に。そうして今まで隅で丸まっていたせいで、足を前に出すのも一苦労だった。
……デゼールに拾われてから、何年の月日が経ったのだろう。いちいち数えてないから分からないけども、ほぼ毎日そばにいた彼女が、その時の長さを簡潔に示していた。
「シエル……」
丘の上まで登らずとも、ナヴァラン上空の様子は確認できた。雲に覆われた夜空が、今は赤黒く染まっており――たまに白く、眩い点滅を繰り返す。聞こえてくる音も、竜の鳴き声や砲撃音だけではない。耳障りな轟音が、断続的に続いている。
――彼女の仕業だ。
恐らく、照明弾や音響弾を滅多矢鱈に撃ち出しているのだろう。
飛び出す前に言っていたように、止めようとしているのだ。完璧とは程遠い、あの小型飛空艇で。
「――やめさせないと」
どう見ても、竜の数が多すぎる。ナヴァランだからこそ、現状大きな被害もないままに抑え切れているのだろう。そこらの小さな街程度なら、一瞬で襲い尽くされてしまっているに違いない。
今は正気を失っているのか、シエルに興味がない様子だけども――この状況だ。いつ矛先がシエルに向かうのかも分からない。そしてそんなことが起こってしまえば、あの小さな飛空艇など一瞬のうちに残骸へと成り果てるに決まってる。
早くやめさせて、どこかに避難させないと。
……でも、どうやって?
まさか、歩いていくわけにもいかないだろう。そんなことをしていたら朝までかかってしまうし、それまで耐えきれる保証もない。
――飛ぶしかなかった。彼女を止めるためには。
不本意ながらも、翼を伸ばすことは頻繁にあった。格納庫にいる間、シエルが飛空艇の参考にと観察したがっていたから。最大まで広げられた翼を、これでもかというぐらいに眺めて、触れて。『はぁぁぁぁ……』と感嘆の息を吐く様子には、中々に悪い気がしなかった。
「飛ぶしかない。けど――……っ!」
翼を広げて飛び立とうにも、上手く飛び立てないのだ。
傷も消え、翼は元通りに治っていた。問題は――もっと根本的なところにあった。過去のトラウマが邪魔をする。生まれた時から、著しく翼の発達が悪かったせいもある。更に悪いことに、大怪我をした後遺症として、飛ぶと激しい痛みに襲われるのである。
万全であっても、不完全。
羽ばたく力と、翼の強度が釣り合っていないのだ。全力で飛べば、間違いなくボロボロになってしまう。それで過去に一度だけ、痛い目を見たことがある。
無理をして飛び続け、翼はぐしゃぐしゃに拉げ、激痛に身動きが取れなくなり――傷を癒すために、深い眠りについていた所でデゼールに見つかったのだ。
「――――っ」
――足が竦む。
どうしても、羽ばたくことができない。頭では分かっているのだが、身体が言うことを聞かない。もう二度と飛ぼうとしなければ、あの痛みを味わうことは無い。
そんな諦めに似た感情を抱えながら、ずっと隅で身動きもせず。さも悟ったような態度を取って怠惰に過ごしていたのだ。似たような状態で、それでも飛ぶことを諦めないシエルを見ながら、ひたすらに目を瞑っていたのだ。
しかし今、シエルが戦火の中に飛び込んでしまっている以上、そういうわけにもいかない。目を開いて、何をするべきか見据えなければならない。
……一旦、落ち着こう。躊躇ってしまうのは、心の準備ができてないからだ。そう思い、翼を力なく下ろした――
その瞬間だった。
――遠くに聞こえた砲撃音。それに続いて、シエルの乗っている飛空艇が不自然に揺れる。
「まさか――」
恐れていたものが、視界に映ってしまった。
あまりの出来事に、音が消えた。聴覚を失ったかのような感覚に襲われた。思わず呼吸を忘れるほどに衝撃が全身を駆けていく。
シエルの乗っていた飛空艇が撃ち落されたのだ。片方の翼を失った飛空艇が遂に――静かに、ゆっくりと。真っ逆さまに墜ちていく。
『――翼……しい――』
それは幻聴だったのかもしれない。そんな気がしただけなのかもしれない。静かになったその空間で、それだけが届いたのだ。呆然とした自分の耳にはっきりと響いたのは――空を震わせるようなシエルの叫び。失われていた喧噪を塗り替え、喚び戻す彼女の願い。
「――飛びたい!」
「――――っ」
『生きたい』でも、ましてや『死にたくない』でもない。
『飛びたい』と、彼女は叫んだ。
命の危機に瀕した瞬間でも、夢を望んだ。
それはなによりも驚くべきことで。
そしてなによりも、心を震わせた。
ヒトである彼女の、ずっと頑張りを傍で見ていた彼女の。
夢が今、完全に潰えようとしているのに――
「――何をやってんだよォ、自分はァ!」
丁寧に折りたたまれていた、翼をこれ以上ないくらいに広げる。鞘から抜かれた剣のように。鋭く、なめらかな翼を真っ直ぐに伸ばす。
バチバチと音を立てながら、自分の身体が輝くのが分かる。全力を出そうとすると、いつもこうなってしまうのだ。そこにいるだけで大気が震え、地面が表面から捲れあがっている。自分は腐っても竜だ。この世界に有数の、特別な力を持った竜だ。
そのプライドだけは、確かに自分の中に。彼女を救うための力が、この身に宿っているという確信と共に。
このまま飛んだものならば、一瞬で最高速へと達することができるだろう。――大きな代償と引き換えに。けれども、こうでもしないと彼女の元へと辿りつくことはできない。躊躇っている暇など、もはや無いのだ。
――強く思った。何があっても諦めることのなかった彼女を、ここで死なせるわけにはいかないと。自分のこれからなど、どうでもいいと。
たとえ、この先飛べなくなったとしても――
「惜しくないと! そう思えるだけのヒトがいるんだろうが!」
誰に聞かせるわけでもない。誰に聞かせるつもりもない。ただ喉が裂けそうなほどに声を上げ、自身を鼓舞して、大地を蹴る。今はまだ痛みはないからと、後先考えず全力で羽ばたく。
「僕のこの翼は――」
彼女の為に使おうと――そう決めたのだから。




