第17話 《壁の穴》のベルは鳴る
カランカランと、ベルが鳴る。
『客が帰るぞ』と、店中に知らせるために。
ここは――食事処《壁の穴》。
キビィと別れ、テリオが一人でアヴァンへ戻った時のこと。テリオは騎士団がいる宿へは向かわず――まるで過去から逃げるように、あてもなく彷徨っていた。
最後にこの街で食事を済ませたのも数時間前のこと。『胃に隙間さえ空いていれば食欲が湧いてくる』とまで言われている匂いの坩堝にいながらも、テリオには食事を取ろうという気が微塵も沸いてこなかった。
目は開いていても何も映らず。
耳が付いていても無音の世界。
鼻など、もはやただの飾りで。
血だらけ傷だらけの状態で、フラフラと歩くその様は屍のよう。
ただし歩き続けるにもエネルギーはいるもので、もう現界だと感じたところで壁に寄りかかりへたり込んでしまう。
何も為せなかった者が、このまま帰って何をするのだと。いっそのこと、このまま風化して土くれにでもなってしまえと。まともに働かない頭でぼんやりと、テリオはそう思っていた。
「……おい、どうしたんだあんた――あぁ? この間の客じゃねぇか」
――そんな中で再会したのが、《壁の穴》の店主である。
傷だらけで憔悴しきっているテリオに対して、『何かあったな』と、そう感じたものの踏み込んでは来ず、ただ短く尋ねただけだった。
「帰る場所はあるのか?」
「……村にはもう帰れない――っ!?」
そう呟いたテリオの首根っこを掴んで、店主はドスドスと足を踏み鳴らしながら店へと戻っていったのだった。
なす術もなく引っ張っていかれたテリオにとっては、何もかもが突然の出来事で。激流のように変わっていく環境にただ従うしかなかった。
「オラ、食え!」
「……食欲が無いんです」
「いいから食え。またその顔はなんだお前、俺の料理を食ったんだろうが」
まずは料理を与えられ。それを食べ終わって店を出ようとすると止められて。
「そんなナリで外に出るんじゃねぇ。店の二階部分に部屋が余ってるから、しばらくはそこで休め」
住む場所を与えられ、一晩寝た次の日の朝には――
「テリオっつってたな、坊主。‟金も無く、働かざるもの食うべからず”だ。このまま行くとこがねぇなら丁度いい。ウチで働け」
――半ば強制的に仕事を与えられたのだった。
今のテリオにはそれを断るような気力も残っておらず。好きにしてくれと言わんばかりに頷いてばかり。あれよあれよという間に進んで行く話の中で、テリオは旅の途中にキビィと交わした約束を思い出していた。
『旅のついでに料理を覚えればいい』
空っぽの状態で、ただ我武者羅に。店主から次から次へと与えられる仕事をこなしているうちに、およそ三年の時が過ぎていた。
「テリオ! 今のが最後の客だろ。そろそろ店を閉める準備をしとけよ! 終わったら、厨房で晩飯の支度だ」
初めの頃は雑用ばかり任されていたテリオだったが、今では店にはまだ出せないものの、簡単な料理ぐらいは作れるようになっていた。
「……はい!」
厨房に向けて、大きな声で返事をするテリオ。主人は基本的に何でもガサツな性格をしていたものの、挨拶と返事、それに料理のことに関してだけは特に厳しかったためである。
店主に言われたように、片付けを始めようとホールへ出たところで。テリオの懐から、はらりと手紙が落ちた。
“そっちの様子はどうですか? こちらは、みんな元気で暮らしています――”
仕事中に届いたということで、そのまま仕舞っていた手紙である。それは、村を飛び出したテリオの代わりに、孤児院で子供たちの世話をしながら暮らしているミーテからの手紙だった。
“数年間、送られてくる手紙を待つだけの生活はとても長く感じました。やっとどこにいるかを教えてくれたってことは、私からも手紙を書いていいってことだよね?“
《壁の穴》で働くことが決まって、テリオはまず一番に孤児院へ手紙を書いた。
テリオの意思で――というよりも、主人がそうさせたのだった。
“あの時、私を庇ってくれたが為に起きてしまった事件ということも知って、辛かった。今でもあの時、無理にでも二人を止めて帰っていればと、後悔する時があります”
一番最初に送った手紙の中身は、クルーデを追って出た旅のこと。
そして、自分は村へ戻る気はないと決心をしたということ。
肝心な部分については、キビィに倣うことにしたのだった。
クルーデの暴走は、過去の事件がきっかけであり――クルーデ本人に非は無く、あくまで呪いによる暴走だったと。
ファリネに戻った騎士団からも話は来ていたのか。返信の手紙からはミーテが疑っているような気配はないのだった。
“クルーデもテリオも、私から見るとまるで兄弟のように仲良しで……。だからこそ、一番辛かったのは、一番傷ついているのはテリオなんだよね?”
――ミーテは知らない。
“帰りづらいとは思うけど……。それでも、みんながテリオのことを待っています。孤児院の子供たちもカリダ先生も、もちろん私も――”
クルーデが、テリオの事を疎ましく思っていたことを。
黒竜の呪いが消えた後もなお、テリオに向かっていったことを。
‟……直接会って話をしたい。今すぐにでもそのお店まで行きたい。でも……きっとその時になれば、テリオの方から呼んでくれるだろうから。私はいつまでも、みんなと待ち続けます”
最後の一文まで読み終わったところで、懐に手紙をしまう。
三年の月日が過ぎてもなお、テリオは村へ顔を出すことすら躊躇していた。
「…………」
自分はどうするべきなのか。幾度となく浮かんできた問題が、テリオの頭を悩ませる。そんな考えを中断させるかのように、来客を知らせるベルが鳴った。
普段から客の少ない店だったが――閉店間際の、こんな時間にやってくるのは特に珍しいことで。一体誰がと、テリオが振り返る前に声が響く。
「アヴァンにも久し振りに訪れたが……やはりいいな、この街は! 実に私好みの匂いがしているじゃないか!」
「っ――」
「店主よ! 約束した通り、最高の料理を頼むぞ!」
扉を勢いよく開け、その店を訪ねて来たのは――




