#5
篠原は唸り声を上げ、デスクの上に無造作に広げられた白い便箋を苦々しげに睨んだ。
「まだ時間はある」
藤堂が言った。
108番のロッカーから爆弾は見つからなかった。もちろん、その他のロッカーの中からも。今、その報告を本部長室にいる小林を含む幹部たちに報告を終えたところだった。
――解読に失敗したのだ。
「だが、その前にこの中にいる連中の緊張の糸が切れたら、終わりだ」
「ここの連中は皆そんなやわじゃないさ」
「刑事、はな」
篠原はデスクの上に置いてあったマイルドセブンを手に取り、一本口に咥える。
「そのために、彼らを向かわせたんだろう?」
「望月には、荷が重かったか」
煙草の火をつけながら、篠原は呟いた。
「彼なら大丈夫さ」
即答する藤堂を意外そうに見ながら、「その根拠は?」と篠原は尋ねた。
「お前に少し似ている」
篠原は口の端から煙を吐き出しながらフッと笑い、「アイツも災難だな。刑事になった途端にこんなのに巻き込まれて」
「彼は災難だとは思ってないと思うよ」
「だが、爆弾を見つけなければ次はない。死んだら、犯人を捕まえることはできんからな」
篠原は立ち上る紫煙を見つめながら、「それは俺らも同じか」と顔をわずかに歪めた。
「そうだな。爆弾に使用されている火薬の量が回を追うごとに増えている。それに、爆弾を設置する場所も人が多く集まる場所を選ぶようになっている」
藤堂は窓の外に視線を移し、
「――犯人は、事件を起こすことに慣れてきている」
まるで医者が患者に死の宣告を言い渡す時のような、低く落ち着いた口調で藤堂は言った。けれどその表情は、その宣告を受けた患者のように生気がなかった。
篠原は見慣れた藤堂のその横顔をしばらく見つめ、「考えるだけ無駄だ、やめとけ」とデスクの上の便箋を乱暴に掴むと藤堂の胸元に押しつけた。
「頭使うんなら、この訳の分からない日本語の方にしろ。その方がよっぽど有益だ。――怪我を負わせてもいい。誰かが死んでもいい。いや、死ねばいい。多くの人間が傷つけばいい。そんな馬鹿なことを思うようになってきている犯人を一刻でも早く捕まえて、言ってやれ」
便箋を抱える藤堂の胸元に篠原は人差し指を突き立て、「独りで生きていると思うな、ってな」と怒気を含んだ声で言った。そして篠原は、窓の外に広がる世界に視線を向ける。
長く伸びた煙草の灰を気にすることなく、篠原は煙草を咥えたまま目の前に広がる世界をじっと睨むように見つめている。
「……篠」
「安心しろ、すぐに見つけてやる」
篠原が厳しい口調で断言した。
「俺の縄張りでこれ以上、好き勝手なことはさせん。逃しはしない。必ず逮捕して、一段高いところに送ってやる。――俺のシマでふざけた真似をしたことを、後悔させてやる」
「お前は相変わらずだな」
「今も昔も、俺は俺さ。この世界は俺を中心に回っているんだからな。好きにはさせん」
「こういう時に聞くお前の戯言、俺嫌いじゃないよ」
「戯言って言うな。さて、コレをなんとか解読しなくちゃな」
篠原が藤堂の持つ便箋に手を伸ばした時、突然、篠原の携帯が鳴った。昔なじみの天気予報の番組で流れる軽快なメロディが、藤堂と篠原の緊張を一瞬にして解いた。篠原は舌打ちしながら電話に出る。
「今お前と遊んでる暇はない。切るぞ」
篠原はそう言って携帯の電源を切った。
「まーさん?」
「ああ、中に入れろって騒いでやがる。あいつ、肝心な時にいねぇんだがら使えねぇ」
藤堂は苦笑し、「俺だけじゃ頼りないか」と言った。
「バカ言え。俺はお前を信頼してるし、頼りにしてる。あんなヘボと比べるな。お前とあのヌケサクとじゃ、月とスッポン、ダイヤモンドと砂一粒くらい違うからな」
藤堂は苦笑いを浮かべたまま肩をすくめ、「まーさん、心配してるだろうな」とポツリと呟いた。
「はん。勝手に心配させときゃいいんだ、あんな奴」
篠原は藤堂の手から便箋を取り上げ、
「無駄話はここまでだ。若い奴らに先を越されたら面目たたんからな」
「そうだな」
「そ、んな……」
あまりのショックに言葉が続かない。
若林と里見が田村を連れて俺のいる会計課に現れた時、一瞬だが胸がざわついた。田村はいつものポーカーフェイスだったが、若林と里見の顔色が冴えなかったからだ。
だが俺は、気づかないフリをした。若林たちの顔を見ないように、無表情の田村の顔に視線を合わせた。
認めたくなかった。
必ず爆弾は見つかる。そう信じていたからこそ、〈死〉と隣り合わせになりながらもここまで頑張ることができた。この極限状態の中、踏みとどまることができたのだ。
けれど、それが無駄足だったと、爆弾は今なおこの建物のどこにあるか分からない、と認めたくなかった。
だから俺は、気づかないフリをした。蜘蛛の糸ほどの細く儚い期待にしがみついた。
俺は会計課の方に顔を向ける。職員たちが俺たちの様子を不安そうな顔で遠巻きに窺っている。俺は彼らの視線から逃げるように顔を背けた。
今の俺は、さっきの若林たちと同じ表情をしているはずだ。こんな顔を見せる訳にはいかない。これ以上、追い詰めるようなことをしてはいけない。もしここで集団パニックでも起きたら――
「若林さん、携帯見せてもらえませんか」
田村の声に、俺は我に返る。
「え、あ、ああ」
若林が前髪をかき上げ、大きく息をついた。
「いかんな。するべきこともしないで何やってるんだか、俺は」
若林がジャケットの内ポケットに手をかけた時、「こっちの方が見やすいわ」と里見がジャケットのポケットから素早くメモ用紙を取り出すと若林に差し出した。
「例の暗号文。書き写しておいたの。私もだめね、ショックを受けてる暇なんてないのに」
里見の手からメモを受け取った若林は、「まだ五〇分ある。諦めるのは、まだ早いよな」と言いながらメモを俺たちにも見えるようにカウンターの上に置いた。
若林や里見だけではない。俺も動揺してやるべきことを忘れていた。諦めていなかったのは、田村だけだ。鉄仮面とか鉄面皮とか鉄人とか、そんなのどうでもいい。俺は――
「この杜撰な管理体制の中、犯人が108番のロッカーの場所を把握していたとは思えません」
更衣室で気づいたことを俺は口にする。
「それは俺も思った。それに、いくら更衣室が人目につく場所にあるからといって一般人が気づかれずに忍び込むのはやはり難しいと思う」
「人目につく場所だからこそ、なおさらにね」
若林や里見の会話を聞きながら、俺はメモ用紙に書かれた奇妙な文章に集中する。答えは、ここにある。この中に。
頭の中で何度も読み返す。何度も、何度も、繰り返し読んでいるうちに奇妙な感覚に囚われる。文章の中に隠された意味を探し出そうとしているのに、いつの間にかその文章から意味が、感情が、剥ぎ取られ、文字という記号の羅列としか悩が認識しなくなっていく。
一瞬、訳が分からなくなり、俺は文章を分解することにする。文章を短くして言葉の意味を取り戻す。
「空箱、棺桶……ねぇ、若さん。空箱も棺桶も中身は空っすよね。『目覚め待つ空箱』が爆弾ってのはなんかおかしくないですか?」
俺が言うと、若林も頷いた。
「確かに。『空箱』ってことは、これも入れ物ってことか?」
若林が顎を摩りながら唸り声を上げる。
「『目覚め待つ』ってのはどういう意味だ?」
「今は眠っているということかしら?仕舞われている、保管、管理されている、そういったもののことも眠っているって言うわよね」
里見の言葉に俺の中で何かが引っかかった。それが何なのか確かめるために里見に声をかけようとした時、横から若林が口を挟んだ。
「押収品のことを言ってるのか?保管庫に一般人が出入りできる訳はない」
「けれどあそこに保管されているものには、番号がふられているわ」
「それはそうだが、俺たちでさえ規定された手続きを取らなければあそこには入れないんだぞ」
そう言った途端、若林の顔が強張る。愕然とするように口許を手で覆い、その場に固まった。
「どうしたの?」
「若さん?」
ほぼ同時に俺と里見が声をかけた。若林は口許から手を離し「まさか……」と小さく呟いた。
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