episode13-3
朝出勤すると、刑事部の廊下で猪又が仁王立ちで立っている。若林の「アツイ男」という言葉が頭に浮かぶ。やめてくれ、朝から猪又の相手をしている暇なんてないんだから。目を合わせないようにして部屋に入ろうとしたが猪又に呼び止められた。やっぱり無理だったか。なんで田村じゃなくて俺なんだよ。
「望月、昨日はすまなかった」
恐縮しながら、猪又が頭を下げてきたので、驚いて何も言えないでいると猪又が力のこもった眼差しを俺に向けた。
「確かに俺、感情的になってた。あの後、冷静に考えてみたんだ。お前、捜査二課に来ないか?末広警部もお前の事気に入ってるし、俺と組もう」
「は?」
なんかこの展開前にあったぞ。コイツ――まさか、間宮属性か?!まずい、今すぐ丁重に断らなければ。
「断る」
後ろから声がしたかと思うと、腕を引っ張られて部屋に連れ込まれた。
―――田村?お前、なんでこんなタイミングで出て来るかな。廊下を見ると、猪又がこっちを見て睨んでいる。
「お前が出て来ると、ややこしくなるんだよ。ほらこっち睨んでるじゃねーか」
田村は平然とした顔で席に着き、報告書に取り掛かり出した。なんだよ、面倒だけ押し付けやがって。廊下でまだ恨めしそうにしている猪又のところに戻ろうとしたが、若林たちが部屋に続々と入ってきたので行けなくなってしまった。なんか俺ここに来てから、気苦労が絶えない気がする。ゲンナリしながら報告書に取り掛かる。仕事は山積みなんだ――猪又とのことも、もうどうでもよくなってきた。
取り掛かった報告書が、出来上がったところで若林が声をかけてきた。
「修平、今日飲みに行かないか?いい店見つけたんだよねー」
「行きます。ところで、総務部の女の子たちとはどうなったんですか?」
ふと気になって聞いてみると若林がニンマリ笑って残念だったねーと意味深な事を言った。
あー俺って運がないな――。
「あの、俺もいいですか?」
ぎょっとして後ろを振り返ると、いつの間にか後ろに猪又が立っている。
「いいよ、猪又も来いよ。多い方が楽しいしさ」
若さーん!俺の気持ち察して――。結局三人で飲みに行くことが決まった。こんなに憂鬱な飲み会は初めてだ。
コーヒーを飲もうと席を立とうとした時、篠原の机の電話が鳴った。篠原の電話が鳴ると緊張する。事件の発生を報せる電話だからだ。こればかりは慣れない。俺たちは、じっと静かに篠原の電話が終わるのを待った。篠原が何度か相槌を打って受話器を置いた。
「中央署で捜査本部設置だ。俺は、藤さんたちと少し遅れて行くから、先に行ってくれ」
「例の通り魔事件、やっぱり・・・な」
廊下を歩きながら、若林が苦々しそうに言った。二ヶ月前から起こっている通り魔殺傷事件の事だ。
「確か一人亡くなってますよね――」
俺が言うと若林が頷く。
一貫して、深夜帰宅途中の女性を背後から襲うというこの事件。最初に犯行が行われたのは、二か月前の六月下旬、被害者は背中を刺されて重傷を負った。二件目は七月中旬、被害者は、背中を数ヵ所刺され重症。三件目は、八月上旬に背中を刺されて重傷、そして四件目とうとう死者がでた。八月二十六日、俺たちがT県に発ったその夜、帰宅途中の女性が背中を数ヵ所刺されて失血性ショックにより死亡。いずれも中央署管内で事件は起こっている。被害者も後ろから襲われているというのもあり、犯人の特長を覚えてはいなかった。
「卑劣ですね」
嫌な事件だ。女性を、しかも後ろから襲うなんて――。アレ・・・・でも。
「犯人が女っていうのはないのかな?」
頭に閃いた事を口にだしてみた。背後からなら、女でも犯行は可能ではないか?
「忘れたのか、犯人が3件目の事件で被害者の流した血を踏んで逃げた事を」
田村に突っ込まれて思い出した。情けない。そう、犯人は靴跡を残して逃げたのだ。右足27cmのスニーカーの。
「27cmの足の女か――彼氏の靴を履いていたとか?」
隣を歩く里見に笑われてしまった。ショックだ。
「ごめんなさい、若林さんと同じ事いうから・・・・つい」
若林をみるとニンマリ笑って、「俺たち同類だな」と言った。同類のはずなのに何故若林だけモテるのか――。納得がいかないまま地下駐車場に着き、いつものように田村の車に乗り込んだ。二台の車のエンジン音が地下駐車場内に響き渡った。向こうは若林の車で行くようだ。
「こんな事件、早く終わらせようぜ」
「そうだな」
地上に向けてアクセルを踏み込んだ。
地上はダンテの『神曲』に描かれている煉獄地獄の様相を呈していた。太陽の強烈なまでの日差しに、行き交う人の目は虚ろで生気がない。恐ろしい光景ではないか。でもこの地獄の業火の中でさえ犯罪は起きるのか。それとも地獄の業火の中だからこそ犯罪は起きるのか。この暑さで人を殺したくなって、無差別に殺しているとか?わざわざ深夜を選んで?随分と冷静じゃねーか。
「なぁ、被害者はお互い面識ないんだよな」
「だから通り魔なんだろ」
ハンドルを握りながら、素っ気なく田村は言い放った。
「お前な――だからさ、よく推理小説で、ある一人を狙う為に通り魔に見せかけて殺人を犯すってのがあるだろ。なんか今それが頭に浮かんだんだ」
「どうだろな」
随分今日は素っ気ないな。事件に集中してるのか。
中央警察署に着くと、すぐに捜査会議が始められた。今まで出ている情報以外で目新しい情報が出ることもなく、俺たち二人は第一被害者のもとに聞き込みに行くことになった。
「またあとでな」
若林たちは、まだ入院している第三被害者のもとへ行くことになっている。第二被害者は、同じ病院の集中治療室に入っていて、未だに意識は戻っていない。
第一被害者は、アパレル会社に勤務している佐々木頼子、二十四歳。彼女も数日前に退院したばかりだった。今は実家に帰っているそうなので、実家のある南東区に向かう。
「私はI県警の望月、隣が田村といいます。何度も申し訳ありませんが、事件当夜のことをもう一度詳しく話していただけませんか?」
モダン調の広いリビングに通された俺たちは、オフホワイトのソファに腰掛け、向いに座っている頼子が話し出すのを待った。彼女は当時のことを思い出すのを一瞬躊躇したが、ゆっくりと深呼吸をして話し出した。
「あの夜も、音楽を聞きながら一人で歩いていました。後ろから誰かついて来てるなんて、思ってもみませんでした。何かが背中にぶつかったと思ったら背中が冷たく感じたんです。痛みは最初、ありませんでした。背中を触ったら手に血がベットリついてるのを見て、初めて刺されたことに気付きました。それからどんどん痛みが出てきて――。しゃがみ込んで、叫び声を上げました。近所の人が出て来てくれなかったらと思うと―――ゾッとします」
話をする間、彼女の膝の上で握り締められた手が震えていた。いくつか質問をしても、入院中に証言してもらった内容と同じで、新たに思い出した記憶などはなかった。犯人は刺したと同時に逃げていて姿も見ておらず、犯人について思い当たることもないと言うことだ。彼女の体調のこともあり、佐々木邸をあとにすることにした。
「ありがとうございました。また何か思い出したことがあったら連絡下さい」
頼子に送られて玄関先まで行くと、後ろから力のこもった声で頼子が声を掛けてきた。
「絶対、犯人捕まえてくださいね。もう誰にもこんな怖い思いして欲しくないから」
力強く頷くと、頼子は笑った。今日始めて見た、彼女の笑顔だった。