#1
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「久しぶりだな、田村」
背後から威勢のいい声がしたので振り向くと、短髪の目鼻立ちがハッキリとした大男が立っている。見ない顔だな。田村の知り合いか。
「誰だ?」
「さぁ」
田村は振り返って彼を一瞥し、すぐ背中を向けた。その田村の態度に、男は怒りを帯びた目で田村の背中を睨んだ。
「いや、明らかにお前の名前呼んだだろ」
俺の言葉を無視して報告書に取り掛かる田村。
まぁいいか、俺関係ないし。座り直して手元の書類に取り掛かろうとすると、後ろから肩を掴まれた。
「無視するな」
「なんで俺なんだよ、田村に用があるんだろ!」
状況が飲み込めず困惑する俺に、若林が苦笑しながら俺の肩を掴む大男を紹介してくれた。
「彼ね、猪又タケシっていって、一年前まで強行犯係に在籍してたんだ。二か月だけだけどね」
「十月から捜査二課に異動になりました。またよろしくお願いします!」
強行犯係の皆に礼儀正しく挨拶をする。周りの皆も、各々猪又に声をかけている。合点がいった俺も猪又に向き直して挨拶をした。
「望月です。よろしくお願いします」
挨拶は済んだが、田村を睨みつける猪又と、まったく相手にしない田村の間に挟まれて、俺はどうすればいいんだ。俺を巻き込むな。
「すみません、報告書があるんで」
俺がそう言うと、猪又は田村をもう一度ひと睨みし、席に戻っていった。陣内と藤堂は「若いね」といいながら笑い合っている。
俺は猪又の後ろ姿を一瞥し、報告書に取り掛かる。篠原がちょっかいをかけてくるのをかわしながら、なんとか完成させることができたのは二時間後のことだった。誰かあの人どうにかして。
伸びをして席を立つ。
フロアの片隅に、コーヒーメーカーが設置されている。他の班は知らないが、うちの班は若林がコーヒー豆を買ってきている。拘っているだけあって旨いので、職場にいる時はほぼここでコーヒーを飲んでいた。
豆代は毎月班員で積み立てをしているが、かなり割安でレベルの高いコーヒーが飲めていると思う。
コーヒーを淹れようとカップホルダーに手をかけた時、「お疲れさん」と若林が寄ってきた。
「飲みますか?」
「ああ、カップの準備頼む。俺が淹れるよ」
「俺が淹れたのじゃ不満すか?」
笑いながら言うと、「労いだよ、今回の事件の立役者に。それに修平が淹れたコーヒー旨いよ」と若林が冷蔵庫からコーヒー粉の入った缶を取り出した。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
俺はカップホルダーに紙コップをセットしながら、「父親がコーヒーに一家言持ってて、それのお陰なのかも」と父親の自論を披露した。
「それ俺もやってる。いい趣味持ってるな、修平の親父さん」
「さりげなく自分も褒めてますね。でもありがとうございます。親父に伝えときます。さて、こっちは準備出来ましたよ」
「しばしお待ちを。その間に、猪又のこと聞いとく?」
いつ切りだそうかと思っていたことを、若林から話を振ってくれた。有難い。
「お願いします」
「相棒としては気になるよな。田村さ、ああいう奴だから、これまでに四人相棒変わってるんだよね。修平が五人目」
初耳だ。若林の話では、四人は結局、他の部署へ異動していったそうだ。その一人が、猪又だった。最短が三日、最長が猪又の二ヶ月だったらしい。猪又は我慢した方なのだ。その記録も半年目の俺が抜いている。喜んだ方がいいのか?
確かに難しい奴だが、異動したいと思うくらい嫌だと思ったことはない。むしろ最近は田村の生態が気になって面白いとさえ思っている。
「猪又もそうだけどさ、皆、真面目過ぎたんだよね」
若林は紙コップにコーヒーを注いでいく。
「俺が不真面目みたいじゃないすか、ひでぇ若さん」
不満げな俺に、ごめんごめんと若林は笑った。
「コーヒー飲んで機嫌直してくれ」
若林が俺の前にコーヒーを置いた。淹れたてのコーヒーの香りが鼻孔に届く。
「いただきます」
カップホルダーを手に取る。口元に運び、まず香りを楽しむ。そして、味わうようにコーヒーを口に含んだ。
「旨い。若さん、ほんと旨いコーヒー淹れますよね」
若林は微笑し、「機嫌直ったか?」
「うす」
「言い方が悪かったな。お前も真面目だよ。田村もな。ただ彼等は入り過ぎちゃうんだよね。だから田村が、手を抜いてるみたいに見えちゃうんだろうな」
あの実直そうな猪又の顔を思い出す。あぁ、そういうことか。
初めての強盗事件を思い出した。被害者に感情移入しすぎて自滅しそうになっていた俺を、冷静にさせてくれたのは田村だった。彼等も同じだったはずだ。ただ、受け入れられなかったんだな。どっちが悪い訳でもない。同じくらい犯人を捕まえたいと思っていたのだから。
「難しいですね」
「なんだお前、田村の気持ちが彼らに伝わらなかったのが悲しいのか?優しいな、修平は」
コーヒーを飲みながら、若林が揶揄うように言った。
「若さんも優しいっすよ」
俺が答えると、「ふふん」と若林は鼻を鳴らした。
「猪又って声も見た目もうるさいからさ、面倒だなと思って」
「え?」
若林が顎で席の方を指した。
何だろうと見ると、猪又が田村に絡んでいた。仕事しろよ。明らかに面倒そうなので、焦点を合わさないように目を細めてみる。いい感じでぼやけてきた。
「労いの、はずでは?」
「そのつもりだったんだけどね、あれ面倒だよな。ほら、修平の席で揉めてるぞ。椅子の背もたれ凄い力で掴んでるぞ」
煽る若林。楽しんでるように見えるのは俺だけだろうか。
「何で俺に言うんすか。当事者の田村に言ってくださいよ」
「聞かないから修に言ってるんでしょ」
「頑張ってくださいよ、先輩」
「忙しいから。今度、検察側の証人として出廷しなきゃいけないだろ?書類作成しなきゃいけないんだよね」
「もう、行きますよ!椅子ミシミシいってるし!今度、美味い飯食わせてくださいよ!」
俺はカップホルダーを片付けると、早足で席に向かった。
「駅前のバル行こうな」
後ろから若林の声が届いた。俺は、了解、と片手を上げる。
「まだ強行犯係にいたんだな。あんたみたいな警官がいるから、警察が叩かれるんだ」
猪又のことを[[rb:大木 > たいぼく]]とでも思っているのか、田村は見向きもせず黙々と報告書を作成している。火に油を注ぐような態度はやめろ。
それにしても、周りに誰もいなくてよかった。藤堂たちは、裁判所へ出かけたし、小林と各班長は打ち合わせ、里見は今日は非番だった。
「聞いてるのか?なんであんたが刑事部に残って、俺が異動させられるんだよ!」
「上の人間に聞けよ」
田村が面倒臭そうに答えた。
田村、お前それじゃあ、猪又より自分が有能だと言っているみたいじゃないか。案の定、猪又の顔が怒りのせいで真っ赤になっていく。
「やめろ。職場で揉めるな」
今にも掴みかかろうとする猪又を制して[[rb:窘> たしな]]めると、俺を睨みつけ、手を振りほどくと部屋から出ていった。