#7
市立大学は、一時限目が始まる時間が迫っているためか、学生たちが足早に俺たちの横を駆け抜けていく。数年前まで自分も学生だったはずなのに、彼らの姿がやけに眩しく見える。社会の荒波に揉まれてしまった俺は、もうあの頃の無知だった自分には戻れない。
「可愛いなぁ」
学生たちを名残惜しそうに見ながら五十嵐が言った。
「眩しいよな、あの無邪気さが」
俺はふっと目を細めて笑う。
「分かる。どれがよかった?俺は左端のショートの子!あの真っ赤な口紅がエロい」
まだしつこく学生の後ろ姿を見ている五十嵐に「いや、そっちかい!」と思わず突っ込んでしまった。
「あ、他のが良かった?」
前を歩く中本が顔だけこちらに向け、「望月さん、相手にしない方がいいすよ。あんたら噛み合ってないし」
「え?」
中本を見ると、もう前に向き直っていた。スラックスのポケットに手を突っ込み、背中を少し丸めて歩く彼とは、これ以上距離は縮まらないのだろう。
「お前の好みは真ん中の子だろ。いい歳してポニーテール好きだもんな」
五十嵐は律儀に中本へ悪態をつき、俺に視線を向ける。
「それにしても、酒の席の冗談話から事件の核心に行き着くなんてすげぇな」
「切り替え早いな。俺が一番驚いてるよ。天童警部に話す時、すげぇ緊張した」
「ははは、分かるよ」
五十嵐は声を上げて笑い、
「あー、でも、どんな理由であれ事件が進展するなら万々歳だ。早く、蹴りつけたかったしさ」
「繋がってくれればいいけどな」
俺は肩をすくめた。繋がらなかったら洒落にならない。
前を歩く田村と中本の背中を見る。二人とも歩みを緩めることなく目指す場所に向かっている。追いつけるのだろうか、あそこに--
事務局に到着すると、事前に電話連絡していたこともあり、川上が所属していたゼミの教授に話を通してくれていた。
俺たちは事務局の片隅に設置してあるテーブルで、想像していたよりも若い教授から当時の話を聞かせてもらうことになった。
「どうも、藤田です。川上君のことでしたね。--そうですね、彼は明るくて輪の中心にいつもいた学生でした。講義にも真面目に聴講に来ていたのを覚えています。だから内定取消を受けて憔悴している彼を見て、気の毒に思ったものです」
眼鏡のフレームを神経質そうに何度も触れながら、若い教授は残念そうにそう話した。
「そうですか、その後の川上さんについて何か伝え聞いたことはありませんか?」
俺が尋ねると、「いえ、特には。川上君に何かあったんですか?」と落ち着かない様子の教授。
三年も前の話をわざわざ警察が聞きにきている。しかもそれが自分の教え子となれば、気にならない方がおかしいというものだ。
「参考に関係者全員に話を聞いているだけですよ」と答えると「そうですか」と彼は眼鏡を外し、眉間を押さえて小さく息をついた。
教授から何人か川上と親しかった学生の所在を教えてもらい、俺たちは二手に分かれて捜査にあたることになった。
中区にある商社で働く真鍋達也。
大学時代、川上と特に仲の良かった友人だと聞いている。彼を尋ねると、少しだけならと空いているミーティングルームに案内された。
時間もないので早速、真鍋に話を聞くと、彼は大学卒業以来、川上とは会っていないと言う。
「卒業後しばらく就職活動してたらしいけど、その後は派遣社員として働いてるってだいぶ前に聞きましたよ。俺、自分の仕事が忙しすぎて大学の友達とほとんど会ってないんですよ」
「お忙しい中時間取らせてすみません。ちなみに川上さんがどこの派遣会社に登録しているか知りませんか?」
真鍋は「告げ口するみたいで嫌だな」と言いながら、派遣会社の名前を教えてくれた。
その後も数人の同級生に話を聞いたが、卒業後に川上に会った者はいなかった。連絡しても無視された、電話を切られた、と言う者もいた。そのまま連絡をせずに今に至っているようだった。皆、自分の事で一杯一杯なのだろう。俺は何度も時計を確認する真鍋を思い出した。
「大学では社交的な奴だったらしいが、内定の取消にあってからだいぶ人が変わったようだな」
俺はガードレールに腰掛けながら、ぼんやりと呟いた。見上げると雲ひとつない真っ青な空が広がっている。
人の人生がこんな簡単に変わってしまうことに恐ろしくなった。当の本人もまさかこんなことになるとは思ってもみなかっただろう。晴れやかな未来が待っているはずだったのに、待っていたのはまったく違う人生だった--
「同情なんてしてる暇はないぞ。それに、まだ運送会社との繋がりが分かっていない」
いつの間にか隣に立っていた田村が缶コーヒーを渡してきた。どこへ行ったのかと思っていたが、俺の分まで買ってきてくれたのか。礼を言って受け取ると、ひんやりとしていて気持ちがいい。残暑とはいえこの暑さの中歩き回っていたせいもあり、喉がカラカラだ。有難い。
「ポカリがよかった」
「文句言うなら返せ」
「嫌だ、いただきます」
田村の伸ばした手をかわし、俺はプルタブを開けてひと口飲んだ。
「うまい」
「ふん」
田村は鼻を鳴らし、コーヒーを口に含んだ。
「戻るか。別の班が新しい情報を入手してるかもしれない」
俺はそう言って立ち上がり、すぐ横に停めてある田村の車に乗り込んだ。
「もう皆んな、集まってるかな」
「さあな」
田村は素気なく答えるとエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。車窓の景色がゆっくりと流れ出す。
車内はエアコンが効き始め、徐々に汗が引いていく。太陽の容赦ない日差しの中を歩いているサラリーマンたちにエールを送りながら、俺たちは捜査本部のある中警察署へと車を走らせる。
その日の捜査会議で、川上と東部運輸の接点が報告された。真鍋からの情報をデスクへ上げたのが四時間程前。そこから別の班が動いた割には仕事が早い。
川上は半月前まで爆破されたところとは別の支店に派遣されていた。派遣後すぐに受付の河合という女性社員と交際を始めたようだが、契約終了と同時にその女性とは別れていた。
女性側は遊びだったが、川上はどうやら本気だったようだ。別れるのが大変だったと彼女はぼやいていたと言う。
また、別の班は川上がアクセスしたサイトを見つけ出し、五つの爆弾を作ることができる量の材料をネット購入していたことを突き止めた。
科捜研からは、現場周辺の防犯カメラの画像解析の結果、複数の映像の中に川上が映っていたことが報告された。
川上が重要参考人となってからわずか1日でここまで状況証拠を揃えることができたのは、捜査員たちの意地と執念の賜物だろう。所轄の捜査員たちは特に。
その甲斐もあり、明日、令状請求することが決まった。
令状を持った天童を先頭に、捜査員たちが続々と捜査本部から出て行く。俺と田村はその最後尾についた。
中警察署の地下駐車場から地上へと出ると、外の世界が眩しくて一瞬目の前が真っ白になった。
「地上は地獄だな」
針のように降り注ぐ日差しを浴びながら道を行き交う歩行者を見て俺は呟いた。
「どこにいたって地獄さ」
田村はハンドルを握りながら無表情で答えた。
思わず、田村の横顔を見つめた。なんだか意味深な言葉だ。生きていることが地獄だとでも言うのか。俺が返答に窮しているのを田村が察したのか、「どこにいたって自分と向き合わなければ地獄だってことさ」と言い直した。
「なるほど、至言だな。川上にも言ってやれよ。少しは目が覚めるかもよ」
「俺が言う必要ないだろ」
それ以上、田村は何も言わなかった。
川上の住むアパート前に到着すると、天童を含む数人の捜査員たちが戸口の前に立った。俺たちはアパートを取り囲むように下で待機する。
天童がインターフォンを鳴らした。すぐにドアが開き、中からスウェット姿の長髪の男が出てきた。
--間違いない、川上だ。
面影は随分と変わっているが、ゼミの教授から借りた写真に写る川上本人だった。
天童が令状を川上に見せると、彼は表情を強張らせた。そして天童を突き飛ばすと部屋の中へと駆け込んだ。
「懲りない奴だな」
「懲りない男だ」
俺たちは似たようなセリフを同時に吐き捨てると、示し合わせるでもなく共にアパートの裏側へと駆け出す。他の捜査員たちも続く中、回り込んだ先に川上を取り押さえる藤堂の姿があった。ベランダから飛び降りたところを捕まえたようだ。
「また逃げるのか」
藤堂のその言葉に川上は顔を歪め、力なくその場に座り込んだ。
事情聴取は天童班が行った。
自分の人生を狂わせた銀行と中嶋建設、それに何もしなかった大学が悪いんだと川上は言い放った。そして、警察官があの時、声をかけなければこんなことは起きなかったと。
どこまでも自分に甘い男だ。悪いことなどしていないのだから、あの時、逃げないできちんと対応していれば彼の人生は違っていただろう。
「ほいよ、お疲れ」
俺は田村の前に淹れたてのコーヒーを置いた。目の前に置かれたコーヒーをじっと見ている田村。
「アイスがよかったな」
「文句言うなら飲むな」
俺の伸ばした手をかわし、田村はコーヒーカップを口に運ぶ。
「うまい」
「ふふん」
俺は手にしたコーヒーカップを口に運び、味わうようにコーヒーを口に含んだ。