#4
時刻は十一時を少し回っていた。
このまま寮に帰る気になれず、どうしようかと周りを見渡す。泊まり込み組の連中たちは買い出し部隊が戻るまでの間、独自の捜査会議を始めていた。五十嵐や中本の姿もあった。混ぜてもらおうと声をかけようと思ったが、思い直す。
「田村、これから飲みに行かないか?」
隣でひとり黙々と報告書に目を通していた田村に俺は声をかけた。
「お前どうせ寮に戻ってもひとりで悶々と悩むつもりだろ。事件について俺も話したいんだけどさ、どうもここだと息がつまるっていうか……まぁ、息抜きも兼ねて。行きつけの店があるんだ。そこだったら静かだし、ゆっくり語れる。行くか?」
品のいいマスターがいる小さなジャズバー。警察官になったばかりの頃にたまたま入ったその店の居心地の良さにはまり、常連となった。
いつもはひとりで店に行くのに何故だろう。田村を誘っている自分に少し驚いている。
「お前の行きつけの店?」
珍しく田村が反応を見せた。
「ああ。ここからなら歩いてもそんなにかからないんだ」
少し考えてから「行くか」と田村が言った。
「決まりだな。行こうぜ」
俺と田村は、熱く議論が繰り広げられる捜査本部を静かにあとにした。
外に出ると無数の星が瞬く夜空には、上弦の月が浮かんでいる。唯一無二のその存在を誇示する太陽とは違う。冴えた青白い光を俺たちに降り注ぎながら、優しく語りかけてくる。
眠りなさい、と。
ただその降り注ぐ光が冴えすぎて、理性が眠っている間に何かが覚醒してしまう人もいるようだ。いつもぐっすりと眠れている俺には無縁のことであるが。
一〇分ほどの間なんの会話もないまま、店に着いた。これにももう慣れた。
「……オンブラージュ。木陰、か」
田村は石壁に取り付けられた鉄製の文字プレートを読み上げた。
「お前、フランス語解るのか?すごいな」
俺なんてマスターに聞いて始めて知ったのに。大学でフランス語を履修していたのだろうか。田村のくせに生意気な。
「少しな」
田村はそう言ったきり、答えない。あまり自分のことを話したくないようだ。まぁ、いいけれど。店のドアを開けると中から柔らかな空気が溢れ出てきた。いつもこの瞬間が、たまらなく好きだった。一日の疲れが一瞬で吹き飛ぶ。
「マスター、こんばんは。今日は同僚と一緒なんだ」
マスターは穏やかな笑顔を田村に向け会釈をした。
「何飲む?」
いつものカウンター席に腰かけながら俺は田村に声をかける。マスターが慣れた手つきで俺の前にジントニックの入ったグラスを置いた。
「烏龍ハイ」
田村はそう言うと、店の中を興味深そうに見回した。そして何を言うでもなく、再びマスターの方に向き直った。これにももう慣れた。
マスターも気にする風でもなく軽く頷き、烏龍ハイを作り始めた。
「以外だな」
ジントニックのグラスを手に取りながら俺は言った。
「何が?」
「お前が誘いにのるなんて。ま、誘った俺が言うのもなんだけどさ」
「――興味があったのかもな」
少し考えたあと田村が言った。そして目の前に置かれた烏龍ハイのグラスを手に取り、口許に運ぶ。
「ああ、俺のいきつけの店ってのに?いいだろ、ここ」
自慢げに言う俺を田村は横目で見ながら、「お前にな」と言った。
「は?」
「お前に興味がある」
「はぁ?」
突然何を言い出すのかと困惑していると、「俺とは全くタイプの違う人間だからな、お前は」と田村が真顔で言った。冗談ではなく、真面目な話のようだ。
「あー、確かに。タイプは違うな」
納得しながら俺は肩を揺らして笑い、
「自らすすんで仲良くなりにはいかないタイプだな。お前もだろ?」
「ああ」
「まぁ、いいんじゃね。コンビになっちまったもんは仕方ない。折角の機会なんだし、仲良くやりましょーや。考え方は人それぞれ。合う合わないも多々あるだろうけど、そん時は言ってよ。直すかどうかは別として、聞くだけ聞くからさ。……まぁ、受け入れるか受け入れないかはお前次第だけどな」
俺は咽喉を潤すようにグラスの中のジントニックを一気に煽る。久しぶりの酒にホッと一息つく。
「ところで、烏龍ハイってなにさ。お前は予想を裏切るヤツだよな。睨むなよ、ちょっと気になっただけだって」
忌々しそうな田村に苦笑し、手元のグラスに視線を移す。
「――で、お前はこの事件どう思ってるんだ?」
反応が返ってこないので田村を見ると渋顔の田村が俺を睨んでいる。
「なんだよ。事件の話しようって言っただろ。それとも何か?テレパシーで交信するとでも思ったのか?」
「お前アホだろ」
「お前こそアホだろ。俺に興味があるんだろ?じゃあ、少しは俺の意見を聞けっての」
俺は田村の鼻先に人差し指を突き立てた。
「お前の考えは?ないってことはないよな?」
仏頂面の田村は俺を再度睨むと持っていたグラスをカウンターに静かに置いた。
「まだ、よく判らない。――ただ、無差別にしては手が込んでいる気がする」
それは俺も思っていた。
「電話と暗号文のことか」
俺は田村の横顔を見ながら、
「けど、電話も手紙も三件目の事件まで意味を為してなかった。そこまで気にすることか?」
「撹乱、挑発、挑戦、それが目的ならもっと有効な方法がある。マスコミに犯行声明文を送ればいい。その方が、確実に世間に自分の存在を知らしめることができるからな」
「なるほど。現時点で手紙については報道管制が敷かれている。それでも犯人は未だ『暗号文』にこだわり続けている。そこが、お前の気になるところってことだな」
「報道管制以前の問題もあったけどな」と田村
身内にも厳しい男だ。
俺はさっきまで一緒だった文芸コンビの顔を思い浮かべた。まだ、あそこで捜査会議を続けているのだろうか。仲間内だけの集まりだ。本音をぶつけ合い、熱い議論を繰り広げているのかもしれない。
時計を確認すると、ちょうど日付が変わる瞬間だった。俺はそのまま短針と長針が重なるのを見届け、頬杖をつく。
何故か俺は今、この瞬間、田村と共に事件について議論――と言えるほどの内容か?――を交わしている。しかもお気に入りの場所で、酒まで飲んでいる。コイツと一緒に酒を飲むなんて想像もできなかったが、なんだ、案外、美味い酒が飲めているじゃないか。
「……ここだけにしてくれよ、あの文芸連中うるさいから。てことは何か?お前は爆弾よりも暗号文の方が重要だと思ってるのか?」
「いや、メインは爆弾だ。悪戯電話も暗号文の書かれた手紙も小道具に過ぎない」
顎に手を当てながら、田村が呟いた。
「気づかれなければ意味のない小道具だけどな。起爆までの時間稼ぎのために用意されただけとは思えない、だろ?」
田村は俺を一瞥し、「犯人からの何かしらのメッセージが込められている」
「メッセージねぇ。ならもっと解りやすくして欲しいもんだ」
俺は片肘をつきながらグラスを目線の高さまで持ち上げ、残りわずかになったジントニックをぼんやりと見つめる。そして、ゆっくりとグラスを手の内で回し、じっくりと味わうようにジントニックを飲み干した。
「簡単には教えたくないんだろ」
つまらなさそうに言う田村。グラスの中にはまだ半分ほど烏龍ハイが残っている。酒にあまり強くないのだろうか。それとも、もともと飲むペースが遅いのか。……いや、普段は事件の間は酒を飲まないのかもしれない。いやいや、それなら誘いに乗らないだろうし、乗ったとしてもソフトドリンクを頼むはずだ。
コイツは自分のスタンスを崩さない。大丈夫だ。
「意地の悪い奴だな。じゃあ、そのメッセージは誰に対してのものだ?」
気を取り直して事件の話を続ける。気を遣う必要はない。
俺はマスターに二杯目のジントニックを注文し、「内容からして特定の個人へってものではない。報道管制が敷かれていたから外の人間へでもない。となると――」
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