第10話 3-2 「穴への距離」
20141020公開
2.『穴への距離』 西暦2005年10月23日(日) 午前11時55分
宮野留美は6人グループの近くで眠っている女の子が気になっていた。その子はパステルイエローの自転車用ヘルメットを被っていた。
ヘルメット全体にハムスターのイラストが入っている。幼児に安全の為に、スポーティーなヘルメットを被せる事が流行っている事は知っていたが、こんなに可愛いのも有るとは知らなかった。春香が見れば、どう反応するだろうと考えてしまった。
その可愛いヘルメットを被った女の子は幼稚園児くらいだろう。一緒に捕まった母親にしがみついた姿勢で眠っていた。問題はその母親だった。恐怖に押し潰されて、我が子さえも認識していない様だ。女の子を見ている目の焦点が合っていない。まばたきも極端に少ない。意識が有るのか分からないほど、空気が希薄だった。嫌な兆候だった。
「賢太郎、こんな時だけど、頼みが有るの」
上代賢太郎が留美の方を向いた。
「その女の子の事だけど、気にしておいて欲しいの」
視線でどの女の子の事か知らせる。賢太郎も含めた全員が女の子を見た。
「その母親はもしかしたら、正気に戻るか分からないほど精神にダメージを受けているわ。もう、自分の子供も認識していない」
全員が母親を見た。怪訝な顔をしている。いきなりそんな事を言われても、たかが高校生に見ただけで判れという事は無理だろう。
留美は仕方なしに説明した。自分の秘密を話した相手はこれまでに5人だけだった。両親と春香とその祖父と祖母だけだ。
そして、まともに取り合ってくれたのは最後の3人だけだった。
「私、多分、超能力みたいな力を持っているの。その人のバイオリズムみたいのが見えてしまうの。例えば、その母親の意識はここには無いわ」
高木良雄が喰い付いてきた。小さな声で留美に尋ねた。
「どういう風に見えるの?」
「人の周りには常に雲が回っているの。上機嫌な人の周りには明るい粒子が混じっているし、落ち込んでいる時には黒い雲みたいな物が層を作って回っていたりするの。意外だけど、あなたの周りに明るい粒子が飛んでいるのが見える」
良雄はあっさりと信じたようだった。
「本当? 本物かもしんない。だって、今、結構わくわくしているから」
賢太郎は何かを考えているようだった。吉井真里菜は信じていない顔で訊いてきた。
「もし本当なら、他人の考えも見えるの? 私が今、何を考えているかとか?」
「無理、無理。人が何を考えているか以前に、自分が何を考えているかも、時々分かんないのに。例えば、おトイレに行きたいような、行きたくないような、みたいな?」
「いや、ごめん、留美が何言っているか、こっちが分かんない」
「えーと、要するに、顔の表情だけでも、他人が何かを考えているかは、結構、分かるでしょ? それが雲の形を取って、目に見えるってだけ。だから、何かを考えているのは普通に分かるけど、その中身は全然分からないの。ただ、楽しい事なのか、嫌な事なのかぐらいしか。体調も他人より少し詳しく推測出来るくらい」
「ふーん。で、この母親はどう見えているの?」
「かろうじて見える程度まで雲が薄れているの。回る速度も遅い。良くてもしばらくは回復できないと思う。だからこの子は頼れる人が居ないのと一緒」
「でも、どうすればいいの? 私達も捕まっているし」
河内唯が尋ねてきた。少なくとも彼女は留美の言葉を悪く取っていないようだ。純粋に質問をしている。
「いや、それが私にも分かんないの。だから、賢太郎に頼んだんだけど。だめ?」
賢太郎は結論に達したようだった。口を開こうとする。
「小さい子を守るのは当たり前だよ。僕だけでも、なんとかするよ」
先に言葉を出したのは橋本翼だった。少し遅れて、賢太郎が喋った。
「いいだろう。ただし、巨人達に目を付けられない範囲で。それより、さっきの言葉はどういう意味だ?」
「ああ、あれね。この巨人達の空気は私達と違うの。もっとしっかりしている。それに戦う時に迷いが無いの。普通は簡単に人を殺せないでしょ? 色々と考えるから。彼らはもっと純粋に戦っている。だから、余計に強くて、怖いの」
その説明が、どれだけ皆の共感を得たのかは一目瞭然だった。
巨人の本当の強さを実感できていない。
だから、留美は最後に付け足した。
「私も、見えなければと思うわ。だって、見た目だけでも怖いのに、他人よりも多く見える分、余計怖いもの」
その留美の言葉はすぐに、皆が実感する事になった。
機動隊の救出作戦が開始されたのだ。
微かに何かが触れ合う音が聞こえた。すぐに、拡声器で変調した声が聞こえてきた。日本語だった。
周りから、低く抑えた声が起こった。
ヘリコプター、うるさい!
もっと、よく聞きたい。
機動隊だ! 助けに来た! やっと来てくれた。これで助かる。俺たちはここだ!
早く! 早く! ここに居るぞ!
日本の警察ならやってくれる!
信じていたぞ。
早く自由になりたい。
こいつらを叩きのめしてくれ!
早く助けて・・・・・・
留美と女の子の母親を除く全員が明るい表情になっていた。留美は希望に満ちた他人の空気が失望に変る瞬間を見たくなくて、じっと下を向いていた。そういう理由で、彼女が最初に知った巨人の行動は叫び声と、すぐ後に響いた音だった。10m以上離れていても、脳天に届く音だった。
ビンッ! 言葉では表現しにくい力に満ち満ちた音だった。少なくとも、春香と一緒に見に行った弓道大会で聞いた音とは比較にならないほどの力が満ちていた。
しばらくして、もう一度弓が放たれる音がした。一瞬の間が空いたと思ったら、一人の巨人が大声で何かを叫んだ。かなりの数の巨人が駆け出す音が聞こえた。その後も最初に叫んだ巨人が矢継ぎ早に叫ぶ声が聞こえる。また、巨人達が駆け出して行く。
大きなマンションと狭山池の間を縫う周遊路上で両者が激突している音が聞こえてくる。
多分、拳銃の発砲音だろう、何発も、何発も、何発も聞こえる。苦痛に染まった悲鳴、叫び声、雄叫び、日本語と、全く理解出来ない言語で、命令を叫んでいる。何かを叩く重い音、何かを突き破る鋭い金属音に近い音。
留美はその音に耐えた。
機動隊の人たちが命を掛けて、自分達を助けようと、必死に頑張っている音だ。
せめて、生きている間は覚えておいて上げよう。
別の方向から、新たな音が聞こえた。また例の巨人が叫ぶ。弓が放たれる音。もう一度、巨人が叫ぶと、走り去る音が聞こえた。先程の音よりも近くて、規模は小さいが、同じ事の繰り返し。炭酸飲料水のペットボトルを開けたような音がする丸いボールが転がってきた。白い煙を噴き出している。
良雄が叫んだ。
「催涙弾だ! 目を閉じて、息も止めて!」
とっさに、翼が転がって来た方向に蹴飛ばした。ボールは尚も煙を吐き出しながら遠ざかっていったが、刺激臭がする煙はなかなか晴れなかった。目をつぶっていたので、分からずに、もういいかなと思って、少しだけ息を吸うと、煙を少し吸い込んでしまった。途端にくしゃみが出た。あちこちでくしゃみの合唱が始まった。目もしょぼしょぼとしてきた。涙が勝手に出てくる。
催涙弾の事で頭が一杯になっていた為、周囲の変化に気付くのが遅れてしまった。音が、正確には機動隊と巨人たちの衝突音だが、しない。
妙に静かだった。
留美はしょぼつく目を開けて、巨人の方を見た。
彼らの周りを回る雲の中で、粒子が輝いていた。
純粋な輝きだった。
留美はもう一度、自分に誓った。機動隊の人達が頑張った音を忘れない。
狭山池の穴への連行が再開されたのは、10分くらいしてからだった。市民たちは抵抗する気力が根こそぎ無くなったかの様だった。皆はおとなしく従っていた。
「喉が渇いたなぁ。お茶が飲みたいな」
そんな中、穴に向かう列に並びながら翼が呟いた。身体は女の子の母親を支える様に寄り添わせている。こうしないと、どこに向かうか分からないのだ。多分、彼女は夢の中を歩いているのだろう。立ち止まったり、逆に歩いて行こうとしたりしていた。唯は女の子に優しく声を掛けて、列の中からはみ出さない様にしていた。
巨人達は交代で水筒と言うのか、何かの皮で出来た袋から何かを飲んでいた。美味そうに見える。巨人達の雰囲気が変っていた。
「そんなこと、言わないで。我慢しているんだから。今、水を飲んだら、おトイレしたくなるでしょ?」
真里菜が答えた。何とか、機動隊の救援が失敗したショックから立ち直ったようだ。
「そうだね、下手したら、歩きながらしろって言われるかもね」
良雄が指摘した。
留美は視線を感じて、目を向けた。一人の巨人がこちらを見ている。賢太郎も目を向けていた。留美は我知らず呟いていた。
「私達は負けない。いつか、逆に見返してやるんだ」
「ああ」
こうして、留美たちはどことも知れない世界に向かった。
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