ある日の、ある兄弟の話 @ 真坂倒
『お兄ちゃん、お腹減ったよ』
夜長に鳴く鈴虫のような声は、暫く聴けていない。
――聴く事が出来なくなった、と云った方がいいか。
幼いながらに憧れていた、無邪気で素直な振る舞いともご無沙汰だったりする。
「おい、腹減ったぞクソ野郎」
代わりとして目の前に突きつけられるのは、鋭利な言葉のナイフ。
いつからだろう。いや、人であれば、誰もが一度は通る道なのかもしれないが。
それでも、やっぱりむっとする時がある。その度「いつものことだ」と、自分に言い聞かせる訳だけど。
「まだ一一時じゃないか。いま掃除をしているんだ、もう少し待ってろ」
フン。そんな喧嘩腰な鼻先の笑いを背に、僕はハンドモップで居間の埃を取っている。
「クソ野郎」はいい。慣れてる。
しかし、掃除真っ最中の兄に向かって、飯を作れとは。人をなんだと思ってるのか。
ほんのちょっぴり、ハンドモップの持ち手を握る力が、強まった。
反抗期とは、難しいもので。理屈じゃないと理解していても、折り合いが付かない時もある。
助けを求めるように視線を縋らせたのは、仏壇に上がった親父の遺影。
「ったく、終わらせとけよな……」
ぼやきながら弟が向かったのは、キッチン。
僕は奴の背中へ向けて「んべ」と憎らしく舌を出す。
大方食材を探しに行ったんだろう。
彼が物音を立てて冷蔵庫や棚を漁っているうちに、僕は埃の掃除を終えた。
そして出来栄えに満足する間も無しに、一旦キッチンへと歩みを進める。
「おい、荒らすなよ。物の配置が狂うと僕もやりづらいだろ」
僕がそう言い、後ろから肩を叩いた。
「……………………」
無反応だった。
「…………おい?」
それに違和感を覚えた時のこと。僕は彼の手元を見た。
「……牛乳と、食パン?」
「思い出すわ」
「?」
「ほら、得意だったろ」
「――ああ、そういえば」
その大きな双眸を細めた弟の心情を、ようやく察した。
顔を見合わせて発する二言目は、
『フレンチトースト!』
弟と同じものだった。
久々の思考の一致に、少しはしゃいでいる部分もあったんだろう。僕はクマがプリントされたエプロンの紐を締め直し、冷蔵庫を開けて卵を取り出した。
「いやいや、材料揃ってるじゃん。作ってみるか」
「んじゃあ、俺もやるわ」
「ゑ?」
――『省エネ主義』という、無気力系ぐうたら男子が準備を手伝ってくれるなんて考えも、思いもしなかったが。
数ヶ月前。
父が死んだ。殉職。
そんな彼の得意だった料理が、フレンチトーストだった。
「しかし、奇跡的だな。まさか材料揃ってるなんて」
「食パンも卵も牛乳も、けっこう使用頻度高いからさ。揃うのはそんなに珍しくないよ」
卵、牛乳、砂糖を混ぜ合わせたものが入ったボウルへ、食パンを投入していく。
簡単、本当に簡単だ。
一年の半分以上を海の上で過ごすためか、料理の腕はからっきしだった。これはそんな彼が作れた、唯一のものだったのかもしれない。
実際、幼い記憶をたどれど、それ以外の彼の料理は口にした覚えがない。
「小さい時は、よく作ってくれたっけ」
「だな。ありゃ旨かった」
家にいる日は、ドライブがてら材料の買い出しに僕らを連れ出して、いつものように作ってくれたっけ。
母も仕事で家を空けることが多かったものだから、残された必然として料理をそれなりに身につけた僕だが――――何故か、彼のものを超えるフレンチトーストは作れないでいる。
何か入れるとか、焼き時間を気をつけるとか、特別な事はしてないのに。何度挑戦しても、ダメだった。
「親父、これだけは旨かったよなぁ」
「『なんでそんなにおいしく作れるんだ』って聞いたら、腕を叩いて『ここだよ、ここ』って――――ふざけ過ぎだよ、父さんってば」
「ははは、物真似うめーじゃん」
「あ、本当? 顔はお前の方が似てるけどね」
「ちょ、うっせーわ!」
子供ながらに「嘘つけ」なんて思ったよ。
“いつも変わらない”味――。
それは、僕らが大喧嘩した時も。母が病に倒れた時も。どんな苦しい時でも、“常に”物言わず僕ら家族を傍で見守っていてくれた――彼の人柄そのものが為せる味なのかもしれない。
「……願わくは、これからも」
鍋肌の上で、黄に染まるパンを見つめる。
僕は言いかけた言葉を、そうっと引っ込めた。
できあがったそれを皿に盛り付け、メープルシロップをかけた。
それを共に食す。
味はやはり。
「……やっぱ違うな」
二人でやってもダメだった。
でも。
「――でも、おいしいよ」
暫く見られていなかった、『あいつ』を拝めた気がした。
「……やけに素直なこって」
「う、うっせーよ!」
兄弟間の平和。
これは遠方より父がくれた、ある日の幸福な話。