いつも手元に @ 英 紫苑
『紅茶』(Black tea)
・摘み取った茶の葉と芽を萎凋(乾燥)させ、もみ込んで完全発酵させ、乾燥させた茶葉。もしくはそれをポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出した飲料のこと。なお、ここでいう発酵とは微生物による発酵ではなく、茶の葉に最初から含まれている酸化酵素による酸化発酵である。
(Wikiより抜粋)
私は紅茶が好きだ。
好きになった瞬間は、特に覚えていない。
ただ少なくとも言えるのは、小さい頃から愛飲していたということだ。
私が小さい頃から寒い冬場に食事のお供としてよく出され、おかげで今となっては大事な大事な飲料となっている。
数ある紅茶という括りの中で、私は基本的にストレートしか飲まない。
勿論、マスカットやハーブ、それにミルクティーだって悪くない。そも否定する要因はないし、その権限すらない。
ただ。
「あぁ、落ち着く」
紅茶を啜って私はほう、と溜息をつく。
そして少し経つと、自然と不思議な香りが鼻を抜ける。
鼻を駆ける香りにうっとりとしつつ、静かな空間を、目を閉じながら感じ取る。
ある時は小説のネタを浮かべ、またある時は絵の構図を思い浮かべ、またある時は未来を考えて。
ちょっと経ってからパッと目を開いた先には、結局現在が残る。
それはまるで一瞬の夢のような、甘美な感覚。
嗚呼、これが貴族らが楽しんだ時間なのだろうか?
いやよく考えれば元々の生産地といえばインドやスリランカじゃないか。
などとくだらないことを考えることもしばしば。
もう一度、紅茶を啜る。
テレビやらテーブルやら、周りに普通にある景色に、ちょっとした変化があるかのような錯覚に陥る。イヤホンから流れる洋楽、喉を通る少々の甘い成分を含んだ飲料が、その軌跡を記すかのように熱を残して体の奥へ沈んでゆくのを感じる。
そう、まるでグリム童話のヘンゼルとグレーテルに出てくるパンのような。
いや、それでは役が足りなすぎると小さく口元を歪ませて笑う。
幸せだ。
小さな幸せ、それを普段感じていれば毎日が幸せってどっかの誰かさんが言っていた。
ヘンゼルとグレーテルで思い出した、私には一つ下の妹がいた。
歳の離れた義理の妹であった。
簡単に言えば、バツイチ同士の親が結婚し、父の息子である私と母の娘である妹が義理の兄妹になった訳だ。
彼女は柑橘系が好きで、よく家族でみかん狩りにいったものだ。
『お兄ちゃん、はいコレ。美味しいよ』
当然分かっている、そもそも取っているのは全てみかんであるのだから。
それでもきっと、こう言ってもらいたかったのであろう台詞を、渡されたみかんのひとかけらを頬張って口にする。
そしてニコっと笑いながら。
『旨いよ、ありがとう』
『えへへ』
お礼を言えば、顔いっぱいに笑ってくれる。
無邪気に笑う姿は、どこか愛おしく感じて。
少し頭を傾けて笑う彼女は、小学生らしい短いツインテールをしていて、動くたびにぴょこぴょこ跳ねていた姿は今でも鮮明に覚えている。
いつからだっただろう、彼女の元気な姿が羨ましくなり、苛立ってきたのは。
自分の中学生活も終盤となり、受験が近付くことで凄くピリピリしていた。
今思えば、少し過剰であった。
勉強中にドアが開いた。
それはいい。
『お兄ちゃん、いつも頑張ってるね。お父さんがキンカン持ってきてくれたんだけど、一緒に食べない?』
ただ、苦手な国語に手を焼き、むしゃくしゃしていた時だったのがまずかった。
本当にタイミングが悪かったと思うが、それ以上に当時の私は神経質過ぎた。
上手くいかないのに頑張っているだと、とついカッとなって歯止めが効かなくなり。
『うるせぇ、なんにも分かんねぇようなガキが知ったような台詞吐きやがって!』
八つ当たりで怒鳴っていた。
小学生高学年になったとはいえ、怒鳴られれば理由はどうあれ泣いてしまう子が多いだろう。
少なくとも彼女はそうだった。
『ごめんなさい』
涙声でそれだけ言い残し、パタンとドアを閉じてどこかへ行ってしまった。
どうせ下の階にいるんだろうと、ため息をついてまた勉強に戻った。
そして、ここで私は後悔することになる。
一本の電話、それは妹が車に轢かれたことを伝えるものだった。
親は泣き崩れた。
私も勿論泣いた。
別れがあんな台詞だなんて、誰だって後悔するだろう。
私のドアの前から去ったとき、涙を拭いて親にこう告げたそうだ。
『ちょっとお買い物してくる』
親が何を買いに行くのかを聞くと。
『お兄ちゃんが忘れたもの』
と、少し笑って言ったそうだ。
大声で怒鳴ったのだ、当然親は原因が私にあることを知っている。
そして夕飯を食べた後に家族で話し合いをするつもりだったらしい。
だが、それは最早必要ない。
必要なのは、親の悲しみに耐える精神だった。
父は全力で私を殴った。
母は腕がつるまで私の胸を叩き、返せと嗚咽した。
私はそれで彼女が戻るならと、ひたすらそれらに耐えた。
当然それは叶わないこと。
医者の努力、両親の祈りも届かず、彼女はこの世を去って行った。
『あぁ、君。これを受け取ってくれ』
医者がそう私を呼び止め、手渡したのは一個のレモンだった。
たった一つだけ、ビニール袋に入っていたと言う。
悔しさ、申し訳ないという気持ち、その他たくさんの感情が入り混じり、そのひとつのレモンを胸に抱えて崩れ、大声で泣いた。
彼女に謝ること、それだけの気持ちで。
それからというもの、私は他人にできるだけ優しく接するようにした。
また彼女の時のように後悔するようなことのないよう。
そしてそのまま時は流れ、私は大人になった。
あの時から大人になった今でも続けている戒めのような習慣がある。
それは――。
携帯が不意に振動する。
メールか電話かとその携帯を手に取ると、それはアラームであった。
そのアラーム名を見て、ハッとする。
冷蔵庫からレモンを取り出し、包丁でそれを多めに輪切りにする。
そして作り置きしていたポットの中の紅茶に先程のレモンを少し残して加え、待つ。
数分待った後にマグカップに紅茶を入れ、残していたレモンの輪切りを加えて完成。
所謂レモンティーだ。
いつもの紅茶にレモンの爽やかな香りが追加され、とてもすっきりした気分になる。
先程まで座っていた椅子に戻り、口に含む。
毎度のことなのだが、少し――しょっぱく感じた。
そして天国にいるであろう彼女に向けて呟く。
彼女が最期の時に聞きたかった台詞を。
『旨いよ、ありがとう』
頑張って私に笑顔を届けようとしてくれた彼女に、ありがとう。
そうお礼を言う、戒めを。
彼女が去った、あの日付に。
私の手元にある紅茶は、ちょっと特別な紅茶なんです。