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上編

この物語は史実に基づいたフィクションです。人物の行動、性格等、不確かなことをご了承ください。

「依頼ィ?」

 リーは黒スーツに身を包んだエージェントの酔狂な提案を信じる気にもなれず、その上等そうな革靴に唾を吐きかけた。

「そう、依頼だ」

 エージェントの男は表情をぴくりとも変えずに、重機の駆動音のような低い英語で事務的に答えた。

「バラエティ番組の依頼なら、プロデューサーに言いな」

 冷たく言い放ち、背後の丸テーブルに置かれているスコッチウイスキーのボトルを手元のコップに傾けた。

「…お前のことは全て調べ上げた」

懐かしい響きだ。まさか、ロシア語――?

スコッチウイスキーが丸テーブルの上に飛び散る。ボトルの口がコップを外れていることに気づくのに、暫く時間を要した。

「ソビエトの人間、なのか?」

 無意識のうちにロシア語になっていた。男はやはり事務的に頷いて見せてから、『TD』と呟く。

 戦略的狙撃部隊タクティクス・ドリル。リーが知らないはずがなかった。彼自身、そこに所属していたのだから。

「ジョンソン副大統領の手の者か?」

 リーはかつてTDの元締めだった人間の名前を口にした。1962年のキューバ危機の中で、フルシチョフが核ミサイル撤去に至ったのは史実に語られている。だが、十月二十五日に行われた緊急国際安全保障会議の後、ジョンソンがTDの存在をソビエトに仄めかした密談とそれが撤去の一員になったことは、恐らく永遠に語られないだろう。

TDのコンセプトは、その国の重要人物全てを一斉に射殺し、繕いようのない綻びを作ることにある。

すなわち、国家そのものを狙撃する。その銃口がソビエトの頭を捕らえていたのは疑いようのない真実だ。

だが、この部隊の存在に異を唱える人物がいた。

その人物によってTDは解体、1959年からソビエトに潜入していたTDのメンバー全員が亡命と扱われ、その中のほとんどが真実の漏洩を防ぐために謀殺された。

リーは名前を変え、ソビエトの女を妻に迎えることで奇跡的に追撃を免れた。しかし、撮影の技術などない彼が近くのテレビ局で働いていたのはKGBの監視を交わす苦肉を策だったし、妻のマリーナは他に男がいたことも知っていた。

まるで檻の中を這い回っているような毎日だった。だから檻を出された一年前には、職も妻も捨て去るのに、何の躊躇いも感じなかった。

アメリカに感謝している、と言えば嘘になる。全てを擲って国に尽くしたTDのメンバーを、亡命者の汚名を着せた上でなぶり殺しにしたのだ。

「帰ってくれ。俺はアメリカに裏切られた。もう二度と信用するつもりはない」

 TDの過去が喚起し、声に哀愁が響いた。

「しかし、オズワルド……」

「あんたに名前を呼ばれる筋合いはないし、俺はもうTDのメンバーじゃない」

 リーはコップのスコッチウイスキーを勢いにまかせて煽った。

「……あんたらが作った、醜い掃き溜めさ」

 ふと窓に目をやると、既に太陽が椰子の木から顔を出してテキサスの長い昼を告げていた。

 リーは壁にかけてあるカーキ色の野球帽を深く被り、男がいる出口に歩いていった。

「もう俺には関係のないことだ。道を開けてくれ」

 男は動かない。

「オズワルド、話を聞け。お前が再び栄光を手に入れるチャンスをみすみす捨てるのか?」

「黙れ! 何が栄光だ」

 いきりたって反駁してから、リーは卑屈な笑みを浮かべた。

「TDが消えた時点で俺は、この国を憂う生きたゴーストになっちまったんだ。ゴーストにできるのは、過去を振り返り、思い出を憎むことだけだ」

 苛々と首を振ってリーはさらに続ける。

「栄光と愛国心の影で、何千、何万という人間の悲鳴を上げている姿が、あの時は見えなかった。いや、見たくなかったんだ。そして俺が影に入る番になってはじめて、自分が崖の先で犠牲にした物の数に圧倒され、後悔した。遅かったんだ、何もかも……」

 感傷的になったリーの言葉に、エージェントの男は頬を緩めた。同情か、あるいは皮肉か。

「ついてこい、オズワルド」

 そう言い残してエージェントの男は玄関の扉を開けて部屋を出た。一人になったリーは少しの間逡巡したが、覚悟を決めて扉に手をかけた。

 外に出て――息を呑むのと扉が閉まるのは、ほぼ同時だった。

「オズワルド、君の立場が分かってもらえたかな?」

 AK‐47の突撃銃やらM‐8のショットガンやらずらりと構えてリーを囲んでいる黒服の男達の中で先刻のエージェントが懐から45口径の拳銃を取り出してリーに向けながら言った。

「なんだ、そう言う事か」

 リーは声に出して笑った。気が変になったかもしれないと自分でも思った。呆れたのではなく、また裏切られるという考えがすぐに的中して、それがおかしかったのだ。

「主から断られたら殺せ、という指示が出ている。あの部屋で俺が右手を上げたら、すぐに突入できる手筈だった」

 淡々と語るエージェントの男を、リーは鼻で嘲笑した。

「脅しているつもりか? 残念だが言ったはずだ。俺はゴーストだとな。ゴーストは生も死も関係ない。撃てという指示が出ているのなら撃てばいい」

 だが、動物的な恐怖はリーの体を震わせていた。リーはなるべく表に出ないよう、気を引き締めた。

「脅しではない。お前に断られても代わりはいくらでもいる」

「だったらなぜ……」

 エージェントの男は手を――左手を上げた。その背後で銃が一斉に下ろされた。

「お前の話が、国を犠牲にした人間の声が、耳に届いたからだ」

 一瞬、呆気に取られて自分がどういう状況に立っているか忘れた。エージェントの男は少し視線を下げて続けた。

「依頼を受けてくれ、オズワルド。俺はお前を殺してしまいたくない」

 その声にはどこか懇願する響きがあった。リーは先刻までの恐怖が背中から抜けていくのを感じた。だが、作為的な何かも同時に感じ取っていた。

「これを見て欲しい。それでも駄目なら、諦めよう」

 諦めるとは、依頼を、ではなく、リーの命を、だろう。再び戻ってきた戦慄に喉が鳴った。エージェントの男はリーの思いなど気づかぬ様子で、黒服の一人に目をやった。それが合図だったように、黒服の男が足元のトランクに手をかけ、開けた。

 その中身を見て、リーはもう少しで声を上げそうになった。

 カルカノM1938、TDに所属していた頃のリーが愛用していた狙撃銃。追撃を振り切るために燃やした銃が、目の前にある。

 リーは体中の力が抜け、その場に崩れ落ちた。銃の手入れをしていた時に嗅いだ、油と鉄と血の臭いが思い出と共に強く鼻を打った。

 TDの思い出が蘇ってきた。それだけでむせ返りそうに懐かしかった。

――また、輝けるのか?

――また、国に尽くせるのか?

――また、昔に戻れるのか?

「依頼を受けよう……」

 声がつまり、それしか言えなかった。エージェントの男は満足げに頷いて見せると、黒服の男達の背後に停まっているセダンタイプの車に乗るよう促した。

「で、目標は誰なんだ?」

 平常心を取り戻し、車に乗り込みながらリーは聞いた。質問を向けられたエージェントの男は運転席に乗ってドアを閉めながらにやっと笑った。

「この国、この世界で一番顔がでかい奴さ」

 軽い音と共に、ドアの鍵がかかった。

 四年前の秋、リーはソビエト潜入のために準備をしていた。特に愛銃、カルカノにはベアリング一個にまで念入りに手入れをする。暴発、不発は例え偶然にしてもワンショット・ワンキルのTDの世界では通用しない。

 部品を抜いて空になったカルカノの銃身を、いつものようにいとおしげに撫でる。不幸な偶然を防ぐためのおまじないで、これをやって不幸な偶然に出会ったことは一度もなかった。

 窓はしっかりと閉めていた。風で部品が飛んでしまうからだが、鉄と油と、今までに消した人間の血の臭いが室内に充満させているのは自分のためでもあった。

 血肉に植えた殺人狂にならないための、自分への戒め。

「オズワルド、入るぞ」

 返事を待たずに、扉が乱暴に開けられる。リーは眉間に皴を寄せた。

「部品を踏むなよ、ジャック」

 危うく踏み壊しそうになった部品に気づいて、ジャックはそれをまたいだ。

「また例のおまじないか?」

 無精髭に隠れた口元が揶揄するように曲がった。

「からかうなよ。こんな事をせずに済むぐらいなら、わざわざ分解する必要もないさ」

 肩をすぼめてリーが言うと、ジャックは陽気な声で笑った。

「なるほど。違いない」

 リーもひとしきり笑いながら、部品を組み立て始める。ジャックもそれを手伝った。

 それから暫く、二人は無言で銃を組み立てた。

「しかし、何でカルカノを選んだんだ? 弾の威力も耐久力もレミントンの方が上だろう?」

 ジャックは心底不思議そうにしていた。彼はレミントンM700を使っていて、彼にとってそれが一番なのだろう。

「アメリカの狙撃銃は、何て言うか、粗暴すぎるんだ」

 リーは組み立てていた手を休めて天井を見上げた。

「どういう事だ?」

 自分の愛銃をけなされて不機嫌になったジャックが言った。

「上手く言えないけど、銃の概念が違うと思う。アメリカは撃った弾を勢いにまかせて目標に押し込んでいる」

「当然だろう?」

「それが、違うんだ。例えば火薬の少ないアジアでは、その分だけ回転数を上げようとする。その場合は、弾を捻じ込んでいるんだ」

 感心したような表情がジャックの顔に浮かんだ。

「力任せに叩き込むだけでは通用しないという事か」

「そうだな。でも、弾の回転数がある銃は基本的に非力だ。俺は両立できる銃を探した。結果が、これさ」

 リーはそう言ってカルカノを持ち上げてみせた。

「お前がソビエト潜入に選ばれた理由が分かったような気がする」

「つまり、レミントンを使っている限り、お前はずっとマフィア止まりって事さ」

 真剣そうなジャックの顔が面白くて、リーは軽口を叩いた。たちまち、いつものジャックに戻った。

「所詮は重い銃が持てないだけだろ?」

 恰幅のよさが際立つ腹を揺すって笑う。リーも大口を開けて気の済むまで笑った。

 ジャック、元気にしているだろうか。

 リーはかつての友を想った。メキシコの道はひたすら単調で、三時間ほど前から風景が何も変わっていない。

 ジャック・ルビーはマフィアから成り上がりのTDメンバーだったが、リーがソビエトに潜入してから消息がつかめていない。

 リーにとってはあの陽気な語り口から飛び出す冗談がTD時代にどれだけ助けになっていたか、今頃になって気づき、また聞いてみたいと思った。

 運転手のエージェントの男――ジェファーソンと名乗った男にジャックの安否を尋ねると、彼は、マフィアに戻っているらしい、とだけ答えた。 それを聞いて、とりあえずは安心した。

 それから、後部席のシートに背中をあずけると、小刻みで不規則な揺れに閉口しながら目を閉じた。瞼の裏に疲労が滲んだ。

 どれだけ揺られていたかわからない。次に瞼を開いた時は既に目的地についたらしく、ジェファーソンはハンドルから手を離していた。

「疲れたか?」

 ルームミラー越しにさすような視線を送ってくる。

「あぁ。少しな」

 リーは言葉を濁してから欠伸をした。正直、国境警備隊の連中を黙らせるために偽造パスポートとビザまで用意していたことに愕然としていた。メキシコとアメリカの国境はその長さ故に警備が薄くなってしまう。だから二国間の密輸と密入国があきれるぐらい盛んだった。

 リーはその尻馬に乗るとばかり思っていたのだが、ジェファーソンの背後にいる組織は神経質なほど慎重になっているようだ。

 同時に、この暗殺の成功にどれだけ心血を注いでいるか垣間見た気がした。

 ジェファーソンはリーの態度が癇に障ったのか、不愉快そうに鼻を鳴らして、運転席のドアを開けた。

「少し歩くぞ」

 彼はぶっきらぼうに言い残すと、リーが車を出るのも待たずにさっさと行ってしまった。テキサスより残忍な太陽の光に、リーは口を歪めてエージェントの背中を追った。

 陽炎があちこちで揺れていた。

 テキサスで暮らしていたリーも一時間近く歩き通しで根を上げ始めた頃になって、やっと人造物が見えてきた。ジェファーソンがたまった疲れを吐息に混ぜながら、地面に擬態しているような土気色の家屋を指差した。

「蜃気楼じゃないよな?」

 冗談のつもりが、嘘にもならなかった。

「そう信じたい」

 返答するジェファーソンの口調もどことなく重かった。

 幸い、その家屋は蜃気楼ではなかった。近づいてそれを確認したリーはほこりっぽい扉に手をかけて、一息に押し開けた。扉の右上で、小さな鐘が乾いた音で客が来た事を伝えた。

 中は丸テーブルと椅子が乱雑に並べられていて、一見すると西部開拓時代のバーのような印象を受ける。

 ただ一つ違うのは、ひなびたカウンターの奥から金属を溶接する音が聞こえるぐらいだが。

 間髪を入れず、そのカウンターの奥から中年男が腰を叩きながら現れた。無精髭と髪の毛が境目もなく顔を覆い、機械油と錆の臭いを部屋の入り口に立っているこっちにまで漂わせ、度の強そうな眼鏡の奥に怪しい光を湛えている、一言で形容するなら「粗暴」。それ以上の言葉は要らない。

「よぉ。お前も老けてきたな、オズワルド」

「あんたは永遠に変わらなさそうだよ」

 リーの皮肉に男は、そうかもしれないと笑った。

「TDの解体には驚いたよ。この辺じゃあ、毎日のようにあいつが死んだ、こいつが死んだって噂が飛び交っていたからな。お前も死んだと思っていた。だが、生きていて良かった」

「そうだな。ところで、銃の仕上がりはどうだ? カルカノM1938なんてマイナーな銃、いじるだけでも一苦労だったんじゃないか?」

 リーがからかうと、男は大げさに溜め息をついた。

「無茶な注文してくれたよ。薬室はレミントンと交換しろだの、カービンのスコープをつけろだの、銃口のライフルは日本の九九式にしろだの、設計図を見て腰を抜かしそうになったわ」

「TD時代の銃がその設計図から生まれたからな。瓜二つとは言わないまでも、なるべく近づけておきたかった」

「生意気なことを言うな。少し待っていろ」

 男は肩をすぼめておくに引っ込むと、ジェファーソンが難しい顔をしてリーに耳打ちした。

「あの男、オディオと言ったか、奴は大丈夫なのか?」

 信頼できるのか、という意味だろう。リーは口元を緩めて答えた。

「奴とはTD以前の付き合いだ。大丈夫、奴の腕は一級品だ。もっとも、おつむのほうは型落ち品だがな」

 ほどなくしてオディオと呼ばれた男が、手にトランクケースを抱えて出てきた。それを手近なテーブルに載せると、リー達を手招きした。

「九九式の在庫がなかったから三八式にした事以外は設計図どおりだな」

 トランクケースから改造されたカルカノを取り出して、リーに手渡すと、オディオはカウンター席の丸椅子に座って自分の肩を叩いた。

 リーは感嘆で息を呑み、呆然と銃身を見つめた。テキサスの日々で想い続けた銃が、あの時のままで手に乗っている。何もかも昔に戻ったような感触が体を包んでいた。

「標的は大体察しがつく。必ず成功させてくれ、オズワルド」

 オディオが呟く。リーは入り口の扉に向けて銃を構えると、銃身に頬を寄せてスコープを覗いた

「あぁ。約束する」

 そう答えたとき、スコープの向こうで標的の影が浮かんだような気がした。

――TDの敵を今なら討てる。待っていろよ、ケネディ――

 リーは引き金を引いた。


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