第六章 時が止まった街(十月二十九日、土曜日発)
今朝は、電話で目が覚めました。
ベランダから強烈な日差しが射し込んでいる。今日も暑い一日の始まりです。
テレビをつけると、ファランボーン駅周辺が洪水になりますと注意を呼び掛けていました。
バンコクの終着駅は、とうの昔に機能を停止している。いつからだろう?
交通機関として、列車を利用する機会がほとんどない私は、今まで気にかけたことすらなかった。
タイでは日本と違って、鉄道はどちらかというと、マイナーな交通機関に属します。したがって、ファランボーンを日本の駅で例えるのは難しいのですが、強いて挙げれば、五十年前の上野駅に雰囲気が近い。
私は、予告通りアヌサワリーに行くため、カメラを持って家を出ました。
途中、アヒルの肉入りそばが名物の店があったので、そこで朝食をすませました。もちろん味は保証済み。だけど、そわそわして味わって食べる余裕はありませんでした。
いよいよ、エジプトのオベリスクのように高く聳え立つ、戦勝記念塔が見えてきました。
塔の周りは右回りのロータリーになっていて、普段は車であふれ返っているのに、ここも閑散としています。ひとけもない。ところが、水が迫っている気配は全くありませんでした。
私は、塔を半周する歩道橋に上り、はしからはしまで歩きました。やはり、洪水のこの字も見えません。
私は、少々拍子抜けして自宅に戻り、パソコンをつけました。
バンコクの街中には、至る所に監視カメラが設置されていて、交通状況などを把握するため、誰でもネットで見れるようになっている。画像はリアルタイムで、少しずつ更新されます。
アヌサワリーも、ビクトリーモニュメントという表示でアップされています。画像を見ると、アヌサワリーどころか、ファランボーン駅も乾いていました。
サイトでは、都内の相当数の場所が映し出されているけれど、あきらかに洪水がきているのは三か所ぐらいしかない。車が水をはねかしながら走っているのが見える場所もありますが、どこもうちからは遠く離れていました。
私はなんだかモヤモヤして、仕事を始める気分になれなくて、部屋の掃除を始めました。そして終わり間際になって、今日はメイドが来る日だったことを思い出しました。
メイドは二日に一度来て、掃除、洗濯、アイロンがけ、バス、トイレ掃除までしてくれるので、とても助かっています。マンションに付属しているメイドなので、料金は家賃に含まれています。
信じられないかもしれませんが、家賃は日本円に換算すると、総額で二万五千円ぐらいです!
ちなみに、タイ語で家政婦のことをメーバーンと言いますが、メーは母親、バーンは家という意味で、英語のハウスメイドとは関係ありません。
いつもの若い女の子がきて、掃除をしながら、「なぜかしら、今日は楽だわ」とつぶやきました。(当然です、掃除は私がもうすませてしまったんですから……)
誤解を避けるために言っておきますが、メイドと言ってもあのファンシーなフリルの付いたメイド服を着ている、アキバ系ではありません。容姿年齢とおよそ似つかわしくない、さえないユニフォームを着せられて、額に汗して一生懸命働いているのです。
日本のチャラチャラした同世代のギャルと比べると、けなげで切なくて、家で二人きりでいても変な気など起こりませんが、友達感覚で会話が弾むことはあります。
この日は、掃除が早く終わったので、「君の、そのダサいユニフォームとは大違いだろう」と話しかけて、アキバに行った時にメイド喫茶で撮った写真を見せたら、「日本のメイドって、こんなに可愛いの!」と、感動して見とれていました。
メイドが帰り、仕事をしていたら、昼ごろタイ人の友達から電話がかかってきました。
「じゃあ、一緒にお昼食べようよ」ということになって、近くのセンターワンというデパートに行きました。
食堂で昼食を食べた後、デパートの上から周りを見渡しましたが、洪水が迫っている気配は全く感じられません。
本当は、帰って仕事をするべきだったのに、そのままサテンに行って、友達とダラダラ話しこんでしまいました。
話題は当然、洪水関係が中心でしたが、洪水に対して友達が語った言葉は、ただ一言、「もう飽きた」これに尽きました。
おいおい、まだ洪水が来る前だというのに、飽きたってどういうこと?
そう思われるのは当然です。でもこの一言が、まさに、飽きっぽいタイ人の現在の心境を代弁しているのです。
「来るなら来る、来ないなら来ないで、はっきりしてほしい。こういう閉塞した状況が一番耐えられない」彼は、そう語っていました。(冷静に考えれば、来ないのがなにより一番だと思うんですけど……)
昼食から帰ってきたのが二時ごろ、再び私はパソコンに向かって、仕事にとりかかりました。
四時ごろ、どんどん暑さが増してきて、耐えられなくなってきたので、エアコンをつけようとしましたが、元々私はクーラーが苦手なので、それよりもプールに行こうと思いなおしました。
私が住んでいるマンションは、四階部分にテラスがあって、プールが付いています。このマンションに決めた理由の一つがプールですが、バンコクでプール付きマンションというのは、さほど珍しくないです。
長さは十五メートルほど、大きくはありませんが、プールサイドに庭があり、パーラーがあって、デッキチェアでくつろぐこともできます。
もちろん、着替えのロッカールームとシャワーも完備しています。
お腹がすいたら、直通電話でマンションの一階にあるレストランに注文すれば、料理でもコーヒーでも持ってきてくれます。
夜は水中が美しくライトアップされるので、ムード満点です。
私がこのマンションに越してきた当初は、なんて贅沢なんだろうとびっくりして、プールサイドで仕事をしたり、食事をしたり、ハリウッドスター気取りで、すっかり入り浸ってしまいました。
また、プールはマンション住人の社交場になっていて、知り合いも大勢できました。住人はファラン(タイでは、特に白人系の西洋人をこう呼びます)が多く、会話はもっぱら英語が中心ですが、日本人もいます。
もちろん、プールの使用料も家賃に含まれています。家賃も、プールも、メイドも、全部ひっくるめて二万五千円!
タイでは、インフラの遅れに目をつぶれば、日本では考えられないような贅沢な暮しができるのです。
この日も、住人どうし仲良く語らいながらひと泳ぎしましたが、洪水が迫っているこの状況下で、プールで泳ぐ自分の姿を思い浮かべたら、なんとなく矛盾と後ろめたさを感じてしまいました。
泳いで帰ってきたら、小腹がすいたことに気づき、今度はセンチュリーというデパートに行って、一個十バーツ(約三十円)のチョコパンを買いました。
そして、洪水で閉じ込められた時の暇つぶしように、映画のDVD二枚と、マンガ本を買いました。
映画は、一枚は以前から見たいと思っていた有名なタイ映画。日本語でタイトルをつければ『BTS恋物語』といった感じかな。もう一枚は、アニメ『鋼の錬金術師』です。
マンガは、ワンピースとガンツ。
タイではコミックと言えば、ほぼ日本のマンガ本のことを指します。コミック専門店がそこら中にあり、ほとんどが海賊版ですが、少女マンガからオタク系まで、日本と変わらないぐらい豊富な品揃えです。
値段は、一冊四十五バーツ(約百三十円)。日本人の感覚だと激安ですが、一食二十五バーツ(現在は洪水の影響で三十バーツに値上がりしていますが)くらいで外食できるタイの感覚からすると、必ずしも安いとは言えせん。
おまけに、海賊版だけあって紙質が悪く、印刷も粗悪なので、細かい線はつぶれています。
もちろん文字はタイ語ですし、横文字に合わせて逆焼きされているので、ページが日本とは逆になっています。つまり、キャラクターがみんな左利きになってしまっているのです。
発売順序もめちゃくちゃで、ガンツは最初に二巻が出て、三、四、五巻まで出たら、いきなり十九巻に飛び、二十、二十一、二十二と出て、今日は六巻が出ていました。
ガンツは映画もアニメも見ましたが、やはりマンガが一番ですね。
ワンピースはだいぶ前に発売されたので、ちゃんと一巻から揃えています。
帰りにスーパーマーケットに寄ったら、韓国製のインスタントラーメンが山積みになっていたので驚きました。
インスタントラーメンを目にしたのは久しぶりだったので、思わず手を伸ばしましたが、辺りを見回すと、どこの棚もからっぽになっているというのに、このラーメンに限って見向きもされていません。
どうやら、同じ激辛好きの民族であっても、韓国の激辛ラーメンは、タイ人の口には合わないようです。結局私も、棚に戻してしまいました。
私の大好物のお菓子、セレクト塩海苔を探しましたが、相変わらずスーパーにもコンビニにも、影も形もありません。そもそも菓子類は、比較的早い段階で棚から姿を消しました。
ちなみにセレクト塩海苔は、日本語に直訳したわけではありません。タイ語読みで、『セレクトシオノリ』という名称なのです。
これは、海苔をカラッと揚げて塩をまぶしたポリポリ食べるスナック菓子で、お菓子というより味付け海苔に近いかな。ちょっと塩けが強いけど、私の一番のお気に入りです。
タイでは大人気商品で、ピリ辛から激辛まで、味は五種類ぐらいあります。たぶん、日本で発売しても売れると思いますよ。
他にも、『ケンドウ』という名の海苔のお菓子があり、これもいけます。パッケージには、侍の絵が描いてあります。
タイ語で海苔を指す、サーライという名詞がありますが、タイ人の中には海苔のことを『ノリ』と呼んで、日本通ぶる人もいます。
夜、近所の安食堂で夕食をすませて、いつものオープンカフェに行ったら、猫のかわりに、友達のタイ人の女の子がいました。
プルーンのシャーベットを食べながら、彼女とちょっと話しをしました。
「洪水はいつ来るんだろうね?」
「オンヌットまできたそうよ」
「あしたはどこまで来るかな?」
彼女は、けだるそうに微笑んで言いました。
「もうこの話、飽きた」
……続く。