第五章 大潮前夜(十月二十八日、金曜日発)
今日は街を歩いていて、一つ新たな発見をしました。
前に、各家々で、防水壁を造り始めたというお話をしましたね。家の敷地に水が入ってこないように、モルタルや煉瓦で壁を築き始めたと。
それがおかしなことに、最初に誰かが壁を造ると、次に造り始める家は、必ず最初の家よりもちょっとだけ高く造ります。すると、次に造り始めた家は、それよりもさらに高く造り始める。後から造る家ほど、壁の高さが高くなっていくのです。
こうして一巡して、その区域の壁が全部造り終わったら、今度はその中の裕福そうな家が、なんと壁の外側に化粧タイルをはり始めました!
これは床などにはる、きれいな模様の入ったタイルで、すると他の家でも、競うようにタイルをはり始めました。
確かにタイルをはれば、防水効果もアップするでしょう……でも、ちょっと待ってください……この壁って、洪水が終わったら全部壊すんでしょう?
全く、タイ人は何を考えているのやら! タイ人の妙な見栄張りを見て、私は爆笑してしまいました。
壁を造る職人にとって、現在バンコクはバブルとなっているようです。洪水で農業ができないから、出稼ぎ人夫もたくさん集まっているようで、工事は滞ることなく、順調に進んでいます。
いよいよ明日は、洪水が始まると言われている大潮です。チャオプラヤー川の水位が堤防の高さを越え、街に水があふれ出すと、政府が警戒を呼び掛けています。
一方、街の人々はというと、けっこうお祭り気分になっています。街角でおばさんたちが、今日はどこまで水が来たの? あしたはどこまで来るかしら……などと、話に花を咲かせているのを見ると、何だかこっちにまでわくわく感が伝わってきます。
タイは現在、そんな、のんきに構えていられるような状況ではないと思うのですが……。
洪水が来れば、最初は感染症が心配されます。次は蚊による被害、デング熱にマラリア。しかもタイの洪水は、三日やそこらで引くような性質のものじゃありません。
地下鉄は全線止まり、入り口が閉じられています。
工業団地の深刻な被害に加えて、米は収穫直前の最悪なタイミングでした。経済的損失は計りしれません。
はたから見ると、こんな最悪な状況下だというのに、住民が落ち着いて見えるのは、タイ人は肝が据わっているし、洪水は逃げ場がないということもありますが、子供の時から洪水に慣れているという理由もあげられます。日本人が、地震に慣れているのと一緒です。
近所のおっちゃんは、「子供の時はもっとひどかった。俺の胸まで水がきたからなぁ」などと、偉そうに語っていました。
「胸まできたのは、あんたが子供だったからでしょ!」と、奥さんに突っ込まれましたが……。
とはいえ、今回の大洪水は、百年に一度の規模と言われています。近代都市になってからは、初めての大洪水です。
それでは、百年前はどうだったのかと考えると、ほとんど被害はなかったと推察できます。なぜなら、当時はほとんどの人が、伝統的な家屋に住んでいたからです。
タイの伝統家屋は、高床式で、木組みの広いテラスの上に家が建っています。地面から床までの高さは、1,8mから、2.5mぐらい。最低限、人が立てる高さが確保されています。
テラスは庭ぐらいの広さがあり、普段から家族団らんの場として使われていて、洪水時でも快適に過ごせたでしょう。
高床には、洪水対策の他に、暑さによる湿気対策、泥棒、害虫、害獣よけの効果もあります。イノシシの他に、昔は野生のトラがいたので、高床であることがより重要でした。
さらにチャオプラヤー川の川沿いでは、人々は舟の上に家を建てて住んでいました。舟を家の基礎とする伝統家屋、ルアンターと呼ばれていて、直訳するとルアンは家、ターはいかだ。いかだ式住宅という意味です。
普段から川に浮いているから、水位の影響は全く受けません。
エジプトと同じく、繰り返される洪水によって、タイは農業に適した肥沃な大地を得てきました。したがって洪水被害は、近代文明の弊害であるとも言えるでしょう。
ところで、私は今日も、仕事の打ち合わせに行ってきました。でも今日は、仕事の話はほとんどせず、洪水の話題で終始しました。
相手から、洪水が来たらどうしたらいいでしょうかと、相談されてしまいましたが、こっちが聞きたいぐらいです。
私は現在、仕事を三つ抱えています。それが全部、洪水が来るまでに終わらせてくださいと言われました。
そんなの、どう考えたって無理。私としても、無茶な要求に付き合うつもりはありません。逃げたくなったら逃げます。
正直言って、飛行機が水につかっている映像を見て、気が抜けてしまいました。
私が住んでいるマンションでは、住人の多くがパタヤに避難しました。パタヤは、バンコクから一番近い海浜リゾートで、今はすごいことになっています。バンコクから逃げてきた人で、どこのホテルも満室。街は人でごった返しているそうです。
おかげで、マンションはひっそり……と思いきや、事実は全く逆!
もともとうちのマンションは空き室が多かったのですが、そこへ市内の低い土地に住んでいる人たちが、押しかけてきたのです。
意外や意外、洪水を前に、なんとマンションは、ほぼ満室となってしまいました。
私の今後についてですが、洪水がきて、交通機関が麻痺し、インフラもだめになり、仕事ができなくなったら、もはやバンコクにいる意味がなくなります。
もし、その時点でバスが動いていたら、カンボジアのカジノに行こうかなと考えていました。国境の街ポイベットの、あるカジノのVIP会員になっているから、いつでも簡単にホテルを予約することができます。
道は水没しているけれど、かなり迂回すれば行けるはずです。
でも、バンコク全域が水につかったら、水が引いて都市機能を回復するまで、二か月はかかるとみられています。そんなに長くカジノに滞在するわけにはいきません。一か月もいれば、間違いなく破産です。
行けばただではすまない、やらずにすむわけがありません。
賭けごとは勝ったり負けたりを繰り返し、結局最後は損をするようにできている。勝つことを前提にはできない。それが賭けごとの鉄則です。だからやるならば、せいぜい二、三日がいいところ。
もう一か所、避難先として考えているのが、マレーシアのペナン島! 南海の楽園です。
観光地は一応ありますが、名だたる名所旧跡はありません。しかし、昔ながらの街並みがきれいに残っていて、街の雰囲気がとてもいい。住民はほとんどが華僑で、古い中華風タウンハウスをいまだに使い続けています。
飯はうまいし、空気もいい、そして美しい海もあります。
読者のみなさんにもお勧めします。ぜひ一度、素晴らしき南国リゾートを体験してみてください。狭い日本に閉じこもって、くよくよ悩んでいたことが、バカらしくなりますよ!
ペナン島には、私の親しい知人が住んでいて、行けば泊めてくれます。しかも知人は、これ幸いとばかりに、おいでおいでと私を誘っています。(それが、うっとうしいんですが……)
なにより素晴らしいことに、そこにはカジノがないんです!
最近、我が人生における最高の楽しみがギャンブルになってしまっているので、ちょっとヤバいんです。むしろ、洪水で閉じ込められていた方がマシかもしれません。
実は今、見積もりを出している仕事があり、その仕事は金額が大きいので、もしも見積もりが通ったら、洪水がきてもバンコクから出られなくなるかもしれません。
夕食後、うちに帰ってきてテレビを見ていたら、洪水で泥棒が増えているというニュースをやっていました。住民が避難した村では空き巣が横行し、商店なども軒並み被害を受けているようです。
ルパンもどきの怪盗も現れました。
洪水が迫ってから、陸橋や高速道路の路肩に車を駐車する車が続出しました。今ではぎっしり隙間なく止まっていて、さながら洪水の避難場所と化してしまい、交通渋滞の原因となっています。
あまりの数の多さに、警察も取り締まりをあきらめて放置している状態です。
すでに冠水した地域では、こうして陸橋の上に駐車したおかげで、水没をまぬがれた車があるのですが、その中からベンツなどの高級車ばかりが、忽然と消えてしまったというのです。
陸橋の周りは水浸しですから、もちろん車で自走して移動することはできません。クレーンで運ぶにしても、周囲は川ではありませんから、大きな船が航行できるとも思えません。
いったいどんな方法で車を盗み出したのか、全く想像がつかないと、レポーターも首をかしげていました。
夜の八時頃から、雨が降り始めました。ものすごい暴風雨で、雨というよりは嵐です。
とうとう停電までしました。タイでは、よく大雨で浸水してトランスが爆発します。
雨は二時間ほどでやみ、停電もほどなく復旧しましたが、雨がかなりの量降ったので、明日の洪水にさらに拍車がかかるでしょう。
九時五十分のニュース速報で、アヌサワリー(戦勝記念塔)から十キロの地点まで水がきたと、報じられました。
私の手元には、百年前にアヌサワリーで撮られた洪水の写真があります。百年前ですから、周囲の歩道橋がないし、背後に建物も写っていません。
私は、この古い写真と同じ場所から、今回の洪水を撮ってやろうともくろんでいます。今日は、長靴も買ってきました。
いよいよ明日です!
あしたは、カメラを持って、アヌサワリーまで行ってきます。
次の章で、どんな報告をできるか、私自身楽しみです。
不謹慎ながら、なんだか私もわくわくしてきました。
……続く。