第四章 嵐の前の静けさ・後篇(十月二十六日、水曜日発)
自宅の近所に、私がよく行くオープンカフェがあります。夕食が終わったあと、夕涼みを兼ねて歩道に置かれた椅子に座り、街の喧騒を眺めながら、ゆったりとカプチーノやカフェラテを飲む。私にとって、至福のひと時です。
すると、必ず同じ猫が現れて、ほど近い路上に座り、なぜかじっと私の目を見つめてから去って行くようになりました。
色はグレー。正確に言うと、元は白猫だと思うけれど、薄汚れていてグレーにしか見えない。明らかに野良猫です。
それが毎回のことなので、私は不思議に思って、色々理由を考えてみました。
私は餌をあげたことは一度もないので、餌をねだっているとは考えられません。タイ人はやさしい人が多くて、野良猫や野良犬によく餌をあげるから、そもそも餌に不自由していません。
じゃあ、なぜなのか? もしかしたら、あいつは私のことを自分と同類と思っているのかもしれない? だんだんそんな気がしてきました。
猫の行動を見ていると、夜になると街を徘徊して、同類と出会うと立ち止まり、さりげなく挨拶を交わしあっている……それと同じことです。
野良猫に同類と思われるのは、迷惑な話ではあるけれど、毎晩のように顔を突き合わせているうちに、私もこの薄汚れた輩にシンパシーを感じてきて、得意な猫の鳴きまねを披露したりしました。すると、猫氏はピクッと肩を震わせて応えました。
この晩も、私はオープンカフェに陣取りました。しかし、猫氏は現れなかった。
そういえば、二、三日前から姿を見ていない。考えてみれば、その猫だけではない! 他の野良猫も、野良犬の姿も見かけなくなった。
タイの街中には、野良犬がゴロゴロいます。仏教国で、慈悲深い国民性もあって、動物を大切にするので、日本と違って、野良犬や野良猫にとっては天国です。
もちろん、その弊害もあります。バンコクだけで、なんと年に十人以上の人が、犬に噛まれて狂犬病で亡くなっているのです。私自信、街を歩いていて、あまりの犬の多さに時々恐怖を覚えます。
それでも、野良犬を駆除しようという議論にならないのが、タイがタイたるゆえんでしょう。
カフェのあるあたりでも、各ソイ(路地)ごとに、二、三匹の野良犬がいて、住民や屋台の店主などから、餌をもらって生活しています。同じ顔ぶれだから、ソイを歩いていると、野良犬とまで顔なじみになっている心地がします。
この晩、私はカフェを出てから、ちょっと確かめるために、二、三本のソイを巡ってみたのですが、やはり、犬も猫も一匹もいませんでした。
とうとう街から、犬と猫が消えた! この事実に、私は少なからずショックを受けました。
ここで、今までご紹介できなかった、タイの洪水に関連したこぼれ話をいくつかご披露いたしましょう。
農業国タイには、伝統的な雨乞いの祈りがあり、田植えの時期や日照りの時には盛んに催されます。それが今回の大雨に際して、逆に雨を止める祈りというのが各地で実施され、ニュースになりました。
タイでは、何かあるとすぐに歌を作る傾向があります。プーケットの津波の時にも、日本で東北関東大震災が起こった時にも、すぐに応援ソングが作られました。
今回の洪水も、もうすでに歌になっています。タイトルは、そのままズバリ『洪水』
タイの有名歌手が何人も参加している、いわゆるチャリティーソングです。
タイのテレビの天気予報にも、日本と同じように、お天気おねえさんが出演します。基本的には、日本のお天気コーナーに近いのですが、大きく異なる点もあります。
私がよく見る番組では、お天気おねえさんが、毎回コスプレをしてスタジオに登場します。
例えば、ある回は合羽を着て自転車に乗り、「雨に気をつけましょう」と言いながら登場しました。画面には、雨のアニメが合成されています。
またある回は、農民の格好をして、田植えをする演技をしながら出てきました。
今回の洪水騒ぎの渦中には、作り物の舟をこぎながら登場したこともあります。
このお天気コーナーは大人気で、お天気おねえさんが、次はどんなコスプレで登場して楽しませてくれるのだろうかと、みんな興味深々で見ています。
もう雨には飽き飽きしましたが、大雨のおかげで一つだけいいことがありました。
空気がよく冷えて、澄んでいる気がします。おかげで、よく眠れるのです。
熱帯のタイでは、普段なら暑くて朝になると自然に目が覚めるのですが、この前起きたら、時計がもう午後になっていたことがあって驚きました。
第一章で、月曜日に通訳の仕事があると書きましたが、警察がらみと書いたから、いったいどんな仕事か気になった方もいるでしょう。
個人情報の問題もあって、詳しく書くわけにはいきませんが、ちょっとだけ内容と結果に触れておこうと思います。
タイは現在、経済成長で沸いています。工業団地が次々と建設され、世界中から優良企業が誘致されています。首都の主な交通手段である、BTSや、地下鉄は、次々と延伸計画が発表され、かつての日本のバブルを彷彿させる様相を呈しています。
そうなれば、当然怪しげな紳士たちが暗躍します。
遅れて来たタイのバブル、日本からも、甘い蜜の匂いに吸い寄せられ、タイで投資をしたり、移住して事業を始めようとする人たちが、引きも切らずです。日本のバブルでひと財産作った人もいれば、ひと時の栄華の後にすべてを失い、タイでの再起に賭けて来た人もいます。
聞いた話では、成功も失敗も含めて、日本での経験がノウハウとなって蓄積しているので、タイでの事業はすごくやり易いそうです。
しかし、あくまでもハイリスクハイリターンの世界の話。今回の洪水を見ても明らかなように、日本にはない落とし穴がタイには存在します。くれぐれも、これを読んで我も……なんて考えはお捨てなさい。
とは言え、タイに来た日本人も含めて、タイのお金持ちは日本とは桁違いのお金持ちだと言えます。それには、税制などの面で金持ちが優遇されている、タイ特有の事情も関係しています。
前置きが長くなってしまいましたが、ようするに今回通訳を頼まれた相手は、そんな日本人の一人だったのです。タイに移住し、タイ人女性と結婚、バンコクに不動産を多数所有している、典型的なバブル紳士です。
金持ちであれば、他人に自分が金持ちであることを見せないようにすればいいものを、その人は、自分が金持ちであることを公言するような人物でした。それがまずかったのです。
悪意を持って近づいてきたある人物の罠にはまり、事件に巻き込まれそうになって、私に助けを求めてきました。
手口としては、麻薬がらみのよくあるパターンで、彼は全くの無実です。
袖の下がきくタイでは、金さえあればほとんどのことが解決できますが、私はお勧めしません。安易に金を払えば、後々もっと面倒なことになる恐れがあるし、なによりも悪癖の連鎖が断ち切れなくなるからです。それはタイ人にとっても、タイで暮らす日本人にとってもマイナスです。
そこで私は、まず私の知り合いで、正義感に燃える清廉潔白の弁護士を彼に紹介しました。そして直談判をしに、警察署に乗り込んだのです。
警察は、相変わらずひどい対応ぶりでした。詳しくは話せませんが、色々あって、つくづくタイの警察はひどいと思いました。
でも、こんな警察に市民が守られていることも事実なのです。
……続く。