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第四章 嵐の前の静けさ・前編(十月二十六日、水曜日発)

 その時私は、仕事の打ち合わせのため外出した先で、昼飯を食べていました。

 メニューこそ変わっていませんが、流通事情の悪化で、食堂の野菜の量は、「えっ」と思うほど減っていました。おまけに、どの店も五バーツ(約十五円)は値上げしています。

 市場に行っても、食料品はめちゃくちゃ値段が上がっていて、もはや生鮮食品だけではなく、日用品から化粧品まで、すべての物が不足しています。

 デパートやスーパーも営業を続けているけれど、ともかく品物が入ってこない。ましてや、トイレットペーパーやテイッシュなど、影も形もありません。


 食堂のテレビで、ニュースを見ていた私は、アナウンサーの言葉に絶句しました。

「本日(二十五日)政府は、今月二十七日から三十一日まで、公的な業務を全て停止して、休日とすることを発表しました」


 つまり、大潮と重なり洪水が懸念される期間、すべての公共施設……役所、学校、郵便局、国立と名のつく機関などは、すべて休むという決定がなされたのです。

 もちろん、洪水対策に従事する者は除くという条件付きではあるけれど、これはおかしい。むしろこんな時こそ、寝食を忘れて公務に励むべきなのではないか? そうでなければ、いったいなんのための公務員なんだ……と思うのは、私だけでしょうか?

 さすがタイ人の考えることは、日本人の理解できる範囲を超えています。


 このニュースを聞いて動揺したのか、バンコク脱出を焦った人々が、ドンムアン空港に殺到しました。水のない場所であればどこでもいい、きっとそんな気持ちだったのでしょう。新空港ができてから、ドンムアン空港は国内便専用空港に生まれ変わっていました。

 ところがすでにその時、空港敷地に水が浸入し始めて、滑走路が冠水する恐れがでてきたため、全ての便が土壇場でキャンセルされるという悲劇に見舞われたのです。直後に、政府は十一月一日まで、ドンムアン空港を閉鎖すると発表しました。


 私は、避難所になっていたドンムアン空港は、とっくに機能を停止していると思い込んでいたので、余計憤りをおぼえました。どう考えても、安全確保が難しい状況でギリギリまで発着を続けていた空港の姿勢も、発着をキャンセルしてから閉鎖を決定した政府の対応も、後手に回りすぎです。


 この決定を受けて失望したのは、脱出希望者だけではありません。空港に避難していた被災者たちも同様です。

 テレビ中継のインタビューでは、赤ん坊を抱いた若い母親が、「この子を連れて、やっと避難してきたのに……」と、涙声で訴えています。

 群衆の失意と怒りの声を伝えた後、「空港に隣接する道路は、すでに八十センチも冠水しています」と、現地レポーターが結んで、スタジオに画面が切り替わりました。


 すると次の瞬間、あろうことかメインキャスターがニコッと微笑んで言いました!

「こんな、暗い話題ばかりではありません。お子さんや病人を避難させるためのボートが不足している現在、各地でユニークな手作りボートが製作されています」

 そして画面では、ペットボトルを貼りあわせて作った舟、自動車に無数のタイヤチューブをくっつけた水陸両用車? 裏返したテーブルに発砲スチロールを貼り付けた舟? など、身近な物を組み合わせて作った独創的な自作ボートが次々と紹介されていきました。

 見てくれはともかく、本人たちは大まじめ。ボートには老人や病人を乗せていて、一応避難ボートの役目を果たしているようです。


『さすがタイ人、やってくれる……』

 直前のニュースとのあまりのギャップに、私は椅子から転げ落ちそうになりました。

 そういえば、日本の笑っていいともみたいに、お昼に放送しているおバカなお笑いバラエティー番組も、普段と変わらず放送しています。

 こんな緊急時でもめげない、タイ人のたくましさにあきれるやら感心するやら。


 食べ終わる頃になって、ハッと気づきました。そういえば、ドンムアン空港って、うちから三、四十キロしか離れてない!

 わかっていたこととはいえ、本当に目の前に水が迫っているという深刻さを、しみじみ実感しました。


 洪水がそれほど近づいているのに、なぜ一気に押し寄せて来ないのか、日本人の目から見ると奇異に感じられるかもしれません。それには、タイの地形が起因しています。

 タイの地形は、起伏のない平らな土地が、ただひたすら広がっています。そこで起こる洪水とは……例えば、プラスチックの下敷きに落とした水滴を想像してみて下さい。

 水は一定の範囲まで広がると、それ以上広がることなく、下敷きに張り付きます。そして下敷きをほんのわずか傾けると、水はまるでアメーバか何かの生物みたいに、ゆっくりと移動を始めます。こんな感じで、巨大な水の塊がバンコクを目指して、じわじわと移動しているのです。


 食堂から出ると、空は雲一つない晴天でした。通り雨が短時間降ったことを除けば、もう一週間ぐらい晴れの日が続き、雨季は終わった感があります。

 こんなに天気がいいのに、こんなに暑いのに、本当にここに洪水が来るのだろうか?

 今のニュースは、実は別の国の出来事なんじゃないかと疑いたくなるような、いつもと変わらぬ見慣れた街の風景です。

 ただ、人影がまばらなことを除けば……。

 あと、車の数も極端に減りました。


 やっぱり違う。

 いつもとは何かが違う。

 この、全身が総毛立つような、ざわざわした不安感は何なのだろう?


 上空をヘリコプターが、バラバラと爆音を轟かせて横切って行きました。

 ヘリが遠ざかると、また不気味な静けさが戻ってきました。


 そうだ、静けさ……この静けさだ!

 前にも、これと同じ静けさを経験したことがある。

 おととしにバンコクで発生した赤シャツの内乱。その銃撃戦の合間の不気味な沈黙。そうだ、洪水騒動が一段落したら、このエッセイの中で、あの恐怖の体験についても触れなければならない……私はそう心に決めました。


 もしかしたら、私は逃げ遅れてしまったのかもしれない?

 もう飛行機は予約で満杯。バスだって、いつ洪水でストップするかわからない。かと言って、今さらあの長蛇の列に並んで、普段の何倍も時間をかけて、バスで国境を越えようという気は起こらない。


 今まで、いくらだって逃げるチャンスがあったのに、みすみす逃してしまった……。

 この時、初めて私は、自分がこの災害の当事者となったことを自覚しました。


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