第二章 バンコクに避難警告発令!(十月二十二日、未明発)
こちらは、大変な事態になってしまいました!
とうとう来るべき時が来てしまったのです。
第一章を読んだ方は、おやっと思われたかもしれません。自宅のあるバンコクに洪水が迫っているというのに、なんだか緊迫感のないレポートだなぁと……。
そうです、その通りです。
正直に本音を申し上げます。第一章を書いた時点では、本当にバンコクまで洪水が来ることはまずないだろうと、高をくくっていました。
なぜなら、バンコクはタイの首都です。政府も最終防衛ラインとして、バンコクだけは守ろうと、必死に対策を尽くしてきました。水門を開け閉めし、うまく水流をコントロールして、バンコクを迂回させて水を流す計画でした。
タイの洪水マップが公開されていますが、それを見ると、まるでバンコクを取り囲むように洪水が広がっています。つまりこれは、政府の計算通りにことが運んでいるというあかしでした。
ところが、さっきテレビニュースで、バンコクより上流部の洪水地帯から生中継をしていたのですが、レポーターがこんな発言をしました!
「今まで、洪水で大変だった地区の水は、引き始めました。なぜなら、すべての水門を開けて、バンコク方面に水を流しているからです」
どひゃ~!
寝耳に水?とはこのことです。
いったいなぜ、こんな事態になったのか?
公式な理由としては、ついさっき洪水対策委員会というのができて、協議した結果、あまりにも押し寄せてくる水の量が多いから、このまま水門を閉め続けても無駄だ。それどころか、堤防の決壊や水門の破壊という最悪の結果を招くおそれがある。それよりも、水門を開放した方がいいという結論に達し、即実行されたのです。
裏事情として、住民の怒りもあげられるかもしれません。
バンコクに水が来ないように上流の水門を閉じれば、結局いつまでたってもその地域の水は引きません。
なんで俺たちがバンコクを救うために犠牲にならなければならないんだと、怒った一部の住民たちが、堤防を破壊し始めたのです。
おかげで、上流の洪水地帯の水は引き始めました。当たり前です、たまっていた水はバンコクへ向かって流れているのですから。
タイが現在どれほどひどい状況に陥っているか、日本の皆さんに正確に伝わっているでしょうか?
今ちょうど、洪水対策委員会の人がテレビで発表をしました。なんと現時点で、タイ国土の三分の一以上が、水に沈んだそうです。
全国土の三分の一強! 洪水はまだ広がり続けています。しかも、被害は人口が密集している地域に集中しています。
対策委員の人が、航空写真を見せながら説明していますが……これはひどい! 水、水、水……水しか写っていません!
死者数こそ津波の被害とは比較になりませんが、これではタイの経済的損失は計り知れません。
例えば、日本で洪水があれば、床上浸水何棟とかという発表がありますが、国土の三分の一が水没したら、あまりにも被害が大きすぎて、そんな計算は不可能です。したがって、ニュースで被害状況の数字は、死者数しか発表されていません。
外資系の、重要な工業団地はほぼ全滅! タイに二つある国際空港のうち、ドンムアン空港はすでに閉鎖され、周辺住民のための避難所になっています。
新空港のスワンナプームはまだ機能していますが、水の包囲網がどんどん狭まっている状態です。もしもこのスワンナプーム空港が閉鎖されたら、タイは国際社会から孤立してしまいます!
今日になって、バンコクでは、ついに市民の大脱出が始まりました。
長距離バスのバス停には、ものすごい数の人が殺到していました。うちの近所のデパートに隣接している、長距離マイクロバスの乗り場も大混雑!
しかし長距離と言っても、目的地まで行くのに、水を避けるためえらい遠回りをしなければならなかったり、目的地のそばで折り返したり、故郷に帰るにもさぞかし苦労を強いられることでしょう。
閉店する店も、増える一方です。
私が住んでいるマンションでは、急遽突貫工事が始まりました。このマンションの敷地に水が入ってこないように、壁を造り始めたのです。
マンションの正門側は、入ってから少し上がり坂になって建物が建っているので大丈夫。でも裏門は、高低差がほとんどないから、そちら側に壁を造っています。
家を建てる時の基礎工事に使うコンクリートの杭を積み重ね、モルタルで継ぎ目を埋めて補強して、六十センチぐらいの高さの塀をめぐらせている。
私もそれを見て、もう大丈夫だと一安心できました。
周りの家を見ても、みんな煉瓦を積み上げてモルタルを塗り、ちゃんとした防水壁を造っています。大雨が降るといつも水がたまる家では、普段からそういった壁を造って、防水対策をしていますから、これはタイ人の生活の知恵なのでしょう。
他にも、今日になって気付いたことがあります。
水道水が、ものすごくまずくなりました。
もちろん、私はタイの水道水は絶対に飲みません。しかし、歯を磨く時は水道水を使っています。それで、口をゆすぐためにコップの水を口に入れた瞬間、吐き出しました。
腐っているんじゃないかと思えるぐらい、ひどい味と臭い!
私は、慌ててミネラルウォーターで口をゆすぎ直しました。
飲食店をやっている友人からも、驚くべき事実を聞かされました。彼の店で、皿洗いをしていた複数の店員の手が腫れあがり、病院に行ったというのです。
もちろん、水道水を直接飲用や調理に使っているわけではないので、その点はご留意ください。
調べたら、水がどんどん流れ込んでくるため、浄水場の浄化設備が間に合わず、十分な浄化をしないまま流しているせいらしい。
思うに、バンコクの浄水場に入ってくる水は、工業団地や様々なところを通ってきた水で、重金属あり、汚水あり、農薬あり、油あり……汚染されてしまっている可能性がある。
実は私は、過去に日本の某有名浄水器メーカーから、仕事を受けたことがあります。
タイに進出するため、タイの水道や浄水場のシステムをリサーチしてくれと、依頼を受けたのです。それで私には、タイの浄水場の知識が少しばかりあります。浄水場で一応はろ過するし、薬品で処理もする。しかし、大したことはやっていないので、普通の状態でも臭い。それが、今回いっそうひどくなったのです。
その時の経験から、タイの水道水を本気で浄化しようと思ったら、日本でも今、話題になっている、放射能まで除去できるという、強力な逆浸透圧方式を使うしかないということがわかりました。さらに、その後紫外線を当てるUV消毒を行えば、完璧です。
今はこっちの量販店で、逆浸透圧の浄水器を安売りしていて、それがバカ売れしています。またちゃんとした飲食店では、強力な浄水器を使っているから安心です。
日本のみなさん、あまり神経質にならないでタイに来てくださいね。
うちにも逆浸透圧浄水器をつけようかなとは思ったのですが、口をゆすぐのと、手を洗ったりシャワーを浴びたりするぐらいしか使わないので、躊躇していました。
ところで、今日私は、仕事の打ち合わせのために、市内のオンヌットというところへ行ってきました。そのあたりはまだ平穏でした。
近くに大型ショッピングセンターがあるので、1.5Lの水、三本ぐらいなら持って帰れるかなと考えて帰りに寄ったら、水がきれいになくなっていました。
こんな大きな店までと驚きましたが、とりあえずオイシイ(タイ語でも発音そのまま)というメーカーが出している日本茶を六本買ってきました。
打ち合わせではクライアント(注文主)から、このままだと打ち合わせとかできなくなるから、ともかくバンコクに水が押し寄せる前に終わらせてくれと、なぜか洪水が来る日を締め切りにされてしまいました。
全くタイ人の考えていることは、よく理解できません。
あと気がついたことは、今日あたりから、街の人たちがみんなそわそわし始めました。
知人と道で会えば立ち話、知らない人どうしでも、一生懸命洪水のことを話したり、買い物のレジで並んだりすると、店員まで加わって話に花が咲く。
これらは、タイ人の特徴です。
こういう現象、日本人でもあるとは思うけれど、タイ人は特に顕著。こうして他人どうしが会話することで、情報交換をしたり、不安をやわらげる効果があるのです。
蛇足ですが、バンコクの街を徘徊している野良犬までが、私の目にはそわそわしているように見受けられました。
それにしても、今見ているテレビに映し出されている洪水の映像はひどい。
犬の死骸は浮いているわ、水牛の死骸が流されてくるわ、もうなんでもあり。一方、その運河で釣りをしている人もいる。
なんと、投網をしている人まで!
近くの養魚場が水で流されたから、魚がたくさん捕れるんだとか……。
こういった具合に、追い詰められた時の受け流し方がタイ人はうまい。無理して頑張らない!
逆になじんでしまって、それがいい。
あ、今、洪水対策委員会から、再び発表がありました。
避難警告……防備要請?
とうとう出たか!
首都圏の人間、全員に向けて出している。
できるだけ物を……高い場所に……上げてください。
こうなったら国家非常事態宣言を出して、軍隊を動きやすくして救助に当たった方がいいという意見が多いけど、タクシンの妹であるインラック首相は、それをかたくなにこばんでいる模様。
それは、過去のいきさつを考えれば当然だ。なにしろ軍隊を解き放てば、自分たちが駆逐される恐れがあるのだから。
ああっ、今やっている映像……うちのマンションと同じように、洪水対策で塀を造った家まで浸水している!
なんで……?
そうか! マンホール……例え防水壁で家を囲っても、下水管が外の配管とつながっているから、そこから水が逆流してきてしまったんだ!
じゃあ、このマンションもダメじゃん!
どうしよう、仕事をほっぽり出して、急いで避難した方がいいか?
それとも、いっそのこと、洪水の中から実況レポートをしようか?
うちのすぐ近所に、アヌサワリーと呼ばれる戦勝記念塔があります。その周りを歩道橋が一周しているので、洪水の様子を撮影するには絶好の撮影ポイントです。
百年前に撮られたバンコク大洪水の写真と同じ場所から撮影して、比べてみるのも面白いかも。
でも、ネットがやられたらアップすることができません。
たとえ洪水がおさまって、水の流入が止まっても、水がひくまでに一カ月はかかるだろうと対策委員が話しています。
こうして、タイの洪水の恐怖は、じわじわ、ゆっくりと、しかし確実に迫ってきます。
私は、果たして次の更新ができるのでしょうか?
もしかしたら、次は洪水の中から送ることになるかもしれません。
……続く 予定