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桃源に胡蝶の夢は舞うか〜華国春秋枕夢譚〜

作者: 嚙草
掲載日:2026/10/05

―――華国は庚代のころ、若き日の賢嶺帝にまつわる、小さなお伽噺です。



・・・



金紗と紅紗の幾重もの幕が引き上げられると、そこにはまるで西夏のお人形のような姫が立っているのです。王城の奥のそのまた奥、後宮の入り口に作られた謁見の広間。並ぶ明かりが、姫の長い袂や袷にキラキラとします。とりどりの色の糸で織られた着物。縫い付けられた宝玉。それはたおやかな姫によく似合います。姫は深々とお辞儀をします。


銀鈴の声を艶やかに震わせ、姫は歌います。荒野へ旅立つ兵士への夜想歌。それは広間の隅々にまで響き渡り、並み居る家臣たちの胸を揺さぶります。歌が佳境にさしかかると、整った顔に鮮やかに紅が差します。年頃の姫のこぼれだすような魅力。しかし玉座の御簾の奥はひそやかなままなのです。



・・・



「ああどうだい、今度のお姉さんの歌声ときたら!」


クルクルとした瞳が、いたずらっ子のように輝きます。


「たまらないな。こんな声を毎晩聞かせられてごらん、夜のお伽がどうなることやら」


凛と整った顔を真っ赤に染めて、想像するだけでぞくぞくしちゃうよ、と両手で自分を抱くようにしながら振り返ります。しかしその相手といえば、実に不満げ。


「なんだよ、変な顔して」


「……ねえ春馬、本当にあのお姉さんたちの中から、結婚相手を決めるの?」


春馬と呼ばれた方は、やれやれという顔をします。


「しょうがないだろ、それがしきたり。それが皇帝ってもんだよ」


「だって、こないだ即位したばかりなのに」


まだ全然子供なのに、それなのに結婚だなんて。


小柄な姿は、色白の顔をいっそう青白くします。


ふん、と春馬は鼻息も荒く。


「早いとこ世継ぎを作って、家臣を安心させなきゃならないのさ」


そうして、見ろ、と指差します。


二人が隠れているのは、幾重にも折りたたまれた幕の陰。そこから、玉座の前にひれ伏したやわらかな姿が見えます。その姫は顔を上げると、供の奏でる胡と鼓に合わせてゆったりと踊り始めます。身にまとうものといえば、天竺の女神かと見まがうばかりの、絹の薄物のみ。かぐわしい香りが広間に満ちて、ひらひら薄物を翻らせながら、妖艶な踊りは続きます。


「うひょー、見ろよあの体! はちきれそうだぜ」


春馬は声をあげて、ああいうお姉さんとがんばったら、子供なんてすぐにできそうだぜ、なあおい、と細い肩をつかんで乱暴に揺すります。


ああもう、と相手はその手を振り払って、


「さっきから得意がってるけど、春馬はそんなに経験豊富なの?」と聞きます。


「そっ、そりゃあ……」


「へえ、いつどこでだれと、そんなことをしたの?」


私の知らないところで?


私に内緒で?


私に断りも無く?


「ああもう、うるさいな!」


春馬は降参降参と両手を上げます。


「単に聞きかじって、知ってただけだよ」


「ふうん」


「な、何だよその目は」


「別に」



・・・



そうこうしている間にも、謁見の広間には次から次へと美しい姫君が現れ、魅力あふれる技を披露するのです。それは、まだ大人と呼ばれるには程遠い二人の見物人にも、心奪われるような何かを感じさせるのです。


いつしか二人は声もなく、繰り広げられる美しき者たちの披露を見つめているのでした。


「……ねえ、」


「なんだよ」


「みんな、一生懸命だね」


「……ああ、そうだな」


「なんでそんなに、後宮に入りたいのかな」


「そりゃあ、」と春馬は語ります。


―――先代さまがお隠れになられ、現陛下が即位されて。


そうして今、新しい後宮が整えられようとしているのです。


その最初の妃選び。ここで若き皇帝陛下の寵愛を得ることができれば、一の妃になることも夢ではない。


それぞれに思いを抱いて華国諸地より集いし姫君たちは、皇帝から故郷の平安と繁栄の保障を得んがために、技と体を磨いてきたのです。そして、ふたたび華国全土に妓妃が募られるのは、後宮の定めである四年の後。遅い、それでは遅い。今を掴まずして、いつ栄達を掴むのだ? それだから姫君たちの瞳は必死の色を帯びるのです―――。


しかし、小柄な姿はつぶやきます。


「なんだか、かわいそう」


「え?」


「こんなに頑張ってるのに、あの中には誰もいない」


透かすように見つめた先にあるのは、玉座に下げられた御簾。


「・・・」


「当の本人は不真面目で、誰かを選ぶわけでもなく、ここでぼんやりしてるだけ」


「・・・」


そうして、春馬の手に自分の白い手をそっと重ねるのです。


「ねえ、」


「!」


「いつまでもこうして、私たち二人でいるのではダメなの?」


「ダメさ、ダメに決まってる!」


柔らかな手から逃げるように自分の手を抜いて、春馬は声を上げます。


「何で?」


「なぜって昔から、妃は後宮からと決まっているから」


それに、と言葉を継ぐのです。


「どう考えても身分が違いすぎる」


「えっ」


相手のひどく傷ついた顔。春馬はドキリとします。ああ、傷つけるつもりは毛頭なかったんだ。それなのに、言葉は次から次へと口をついて。


「そりゃあそうさ。後宮作り、妓妃選びは政略だもの、だから相手の親に地位がなけりゃ、まるで無意味なんだよ。第一そんなの、家臣たちが許さないさ」


言ったそばから、心がしおれてきます。そりゃあ、いつまでも一緒にいたいよ。春馬は拳を強く握ります。


だけど、残念だけど、そろそろそんな子供の頃は過ぎて。


もはや皇帝たる責任は生じているのです。広い華国、無数の封土。それらとの協調を進め、国を固く一つに引き締めるには、後宮作りとその運用がどれだけ重要であるか。それを知らない春馬ではありません。


国を一意に背負う、皇帝の背中。そこに子供時代の無邪気を積む余地は全くないのです。


そして今、見物人としてここにいるという現実。後宮に入るべく御簾の前に立つのではなく。


ああ、運命はすでに決まっているのです。


だから、俺たちはもう離れなれなきゃ。


春馬は目をつぶります。


さよなら、愛しい人。


そうして春馬は泣き顔を隠し、意地になります。


「大体なんだよ、春馬春馬って。俺を名前で呼ぶのは、王城ではお前だけだぞ」


「だって」


「いくら幼馴染だからって、もうその呼び名はやめろ」


あるべき呼び名で俺を呼べ、そうしてもう俺に構うな。


「いやだよ春馬、そんなこと言わないで!」


顔をくしゃくしゃにして飛びついてくる小さな姿。


抱きつかれるに任せたまま、しかし春馬はその体に腕を回すことを自分に許さないのです。


春馬の胸に伏せられた顔から、泣き声が聞こえます。


何でいきなり、そんな乱暴な喋り方をするの。


後宮の姫たちとの戯れをほのめかしたりなんかして。


何で私を突き放すの。


何で。


お願い。


私の言う事を聞いて。


ずっとそばにいてくれたのに。



・・・



しかし春馬は、もう時は過ぎてしまったことを知っているのです。


子供は、いつか大人になる。

それは、自分ではない、他者が決めるのだ。

そして、いくら望まれても、叶えるべきでないことがある。

それが皇帝であり、それが臣というもの。

今、ようやく本来の姿に戻る時がきたのだ。


心はもう、ここに置いてゆこう。


見上げた相手はハッとして、春馬の強い意志を悟ります。そうしてその顔は悲しみに変わります。


大人にならねばならないのだ。


苦渋に満ちた表情の春馬が、厳しい顔をこちらに向けます。


そう、ひざまずくのだ、皇帝の足元に。


家臣として、忠誠の証に。


「陛下……」



・・・



突然、幕が乱暴に引き開けられたかと思うと、地に手をついた姿は激しく踏みつけられるのです。そこには猛烈に怒った父の姿が。


「貴様は家臣の分際で、陛下になんという無礼を働いたのか!」


今日は大切な、妃選びの日なのだぞ!


そうだ、その通りだ。陛下の優しさに甘え、自分はなんと身の程知らずなことを続けてきたのか。そう思う慙愧の心には、父の仮借ない足蹴はむしろ心地よいのです。


「やめよ鯉景!」


気がつけばあたりは静まり返り、家臣が取り巻いています。その只中にあって皇帝は、横たわるものと、平伏するその父親を見下ろします。


「鯉景、実の娘にそのような手荒をするな」


「いいえ陛下、どうか娘の無礼をお許しください」


ひたすら低頭する父親に、悲しげな皇帝は再び「止めよ」とだけ告げます。


「私が命じたのだ。それに、ただ親友に接するように、相対せよとも」


それは幼き頃からの、二人の約束。


それから皇帝は、倒れ伏すものを優しく抱き起こすのです。


「陛下……」


血ににじんだその表情にあるのは、つつしみ、へりくだり。しかし心ある目で見れば、瞳の奥底に確かにある、隠された光。


そこに隠されたもの。それは愛情。それは守り育もうとするこころ。それは相手を想う気持ち。


じっと覗き込むと、その瞳からみるみる溢れてくるものがあります。


「陛下、私は…」


「もういいよ、ずっと無理をさせてごめんね、春(・)馬(・)」


そうして年若き賢嶺帝は、幼き頃より姉弟のように過ごしてきた春馬に命ずるのです。


「いけません陛下、私にそのような才など、」


言われて皇帝は、笑い声を上げます。


「ううん、家臣たちもいるし、ちょうどいい」


さあ立って、始めてごらん。


大丈夫、春馬の腕なら私が保証する。


守らなきゃいけないしきたりがあるなら、守ればいいんだ。


俯いた春馬は、紫檀の床にぽたりぽたりと涙を落とします。


四年どころではない、幼き頃からの研鑽。


あなたのそばにいられるならと、ずっと思っていたのです。


胸に暖かくあふれるもの。


夢をつむいでゆくために、今この時があるのだ。


「……陛下のお気に召すままに」



・・・



幼き日からの夢に、いつまでも遊ぶのは罪か。


夢と現は、いつか分かつべきか。


しかしそれを決めるは、人の心。


あきらめも勇歩も、ひとえにそれ次第。



・・・



そうしてこのお伽噺は、このように結ばれるのです。


―――賢嶺帝の一の妃、幼少より詩歌を能くす。春馬と呼ばれし幼きみぎり、その朗する声に、あまねく家臣たち、ただただ涙するのみ。後宮の秀でし姫たち、声もなく高位を譲る。春馬、名を春駿として後宮に入り、皇帝の寵愛をひとえに受ける。



(おわり)

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