桃源に胡蝶の夢は舞うか〜華国春秋枕夢譚〜
―――華国は庚代のころ、若き日の賢嶺帝にまつわる、小さなお伽噺です。
・・・
金紗と紅紗の幾重もの幕が引き上げられると、そこにはまるで西夏のお人形のような姫が立っているのです。王城の奥のそのまた奥、後宮の入り口に作られた謁見の広間。並ぶ明かりが、姫の長い袂や袷にキラキラとします。とりどりの色の糸で織られた着物。縫い付けられた宝玉。それはたおやかな姫によく似合います。姫は深々とお辞儀をします。
銀鈴の声を艶やかに震わせ、姫は歌います。荒野へ旅立つ兵士への夜想歌。それは広間の隅々にまで響き渡り、並み居る家臣たちの胸を揺さぶります。歌が佳境にさしかかると、整った顔に鮮やかに紅が差します。年頃の姫のこぼれだすような魅力。しかし玉座の御簾の奥はひそやかなままなのです。
・・・
「ああどうだい、今度のお姉さんの歌声ときたら!」
クルクルとした瞳が、いたずらっ子のように輝きます。
「たまらないな。こんな声を毎晩聞かせられてごらん、夜のお伽がどうなることやら」
凛と整った顔を真っ赤に染めて、想像するだけでぞくぞくしちゃうよ、と両手で自分を抱くようにしながら振り返ります。しかしその相手といえば、実に不満げ。
「なんだよ、変な顔して」
「……ねえ春馬、本当にあのお姉さんたちの中から、結婚相手を決めるの?」
春馬と呼ばれた方は、やれやれという顔をします。
「しょうがないだろ、それがしきたり。それが皇帝ってもんだよ」
「だって、こないだ即位したばかりなのに」
まだ全然子供なのに、それなのに結婚だなんて。
小柄な姿は、色白の顔をいっそう青白くします。
ふん、と春馬は鼻息も荒く。
「早いとこ世継ぎを作って、家臣を安心させなきゃならないのさ」
そうして、見ろ、と指差します。
二人が隠れているのは、幾重にも折りたたまれた幕の陰。そこから、玉座の前にひれ伏したやわらかな姿が見えます。その姫は顔を上げると、供の奏でる胡と鼓に合わせてゆったりと踊り始めます。身にまとうものといえば、天竺の女神かと見まがうばかりの、絹の薄物のみ。かぐわしい香りが広間に満ちて、ひらひら薄物を翻らせながら、妖艶な踊りは続きます。
「うひょー、見ろよあの体! はちきれそうだぜ」
春馬は声をあげて、ああいうお姉さんとがんばったら、子供なんてすぐにできそうだぜ、なあおい、と細い肩をつかんで乱暴に揺すります。
ああもう、と相手はその手を振り払って、
「さっきから得意がってるけど、春馬はそんなに経験豊富なの?」と聞きます。
「そっ、そりゃあ……」
「へえ、いつどこでだれと、そんなことをしたの?」
私の知らないところで?
私に内緒で?
私に断りも無く?
「ああもう、うるさいな!」
春馬は降参降参と両手を上げます。
「単に聞きかじって、知ってただけだよ」
「ふうん」
「な、何だよその目は」
「別に」
・・・
そうこうしている間にも、謁見の広間には次から次へと美しい姫君が現れ、魅力あふれる技を披露するのです。それは、まだ大人と呼ばれるには程遠い二人の見物人にも、心奪われるような何かを感じさせるのです。
いつしか二人は声もなく、繰り広げられる美しき者たちの披露を見つめているのでした。
「……ねえ、」
「なんだよ」
「みんな、一生懸命だね」
「……ああ、そうだな」
「なんでそんなに、後宮に入りたいのかな」
「そりゃあ、」と春馬は語ります。
―――先代さまがお隠れになられ、現陛下が即位されて。
そうして今、新しい後宮が整えられようとしているのです。
その最初の妃選び。ここで若き皇帝陛下の寵愛を得ることができれば、一の妃になることも夢ではない。
それぞれに思いを抱いて華国諸地より集いし姫君たちは、皇帝から故郷の平安と繁栄の保障を得んがために、技と体を磨いてきたのです。そして、ふたたび華国全土に妓妃が募られるのは、後宮の定めである四年の後。遅い、それでは遅い。今を掴まずして、いつ栄達を掴むのだ? それだから姫君たちの瞳は必死の色を帯びるのです―――。
しかし、小柄な姿はつぶやきます。
「なんだか、かわいそう」
「え?」
「こんなに頑張ってるのに、あの中には誰もいない」
透かすように見つめた先にあるのは、玉座に下げられた御簾。
「・・・」
「当の本人は不真面目で、誰かを選ぶわけでもなく、ここでぼんやりしてるだけ」
「・・・」
そうして、春馬の手に自分の白い手をそっと重ねるのです。
「ねえ、」
「!」
「いつまでもこうして、私たち二人でいるのではダメなの?」
「ダメさ、ダメに決まってる!」
柔らかな手から逃げるように自分の手を抜いて、春馬は声を上げます。
「何で?」
「なぜって昔から、妃は後宮からと決まっているから」
それに、と言葉を継ぐのです。
「どう考えても身分が違いすぎる」
「えっ」
相手のひどく傷ついた顔。春馬はドキリとします。ああ、傷つけるつもりは毛頭なかったんだ。それなのに、言葉は次から次へと口をついて。
「そりゃあそうさ。後宮作り、妓妃選びは政略だもの、だから相手の親に地位がなけりゃ、まるで無意味なんだよ。第一そんなの、家臣たちが許さないさ」
言ったそばから、心がしおれてきます。そりゃあ、いつまでも一緒にいたいよ。春馬は拳を強く握ります。
だけど、残念だけど、そろそろそんな子供の頃は過ぎて。
もはや皇帝たる責任は生じているのです。広い華国、無数の封土。それらとの協調を進め、国を固く一つに引き締めるには、後宮作りとその運用がどれだけ重要であるか。それを知らない春馬ではありません。
国を一意に背負う、皇帝の背中。そこに子供時代の無邪気を積む余地は全くないのです。
そして今、見物人としてここにいるという現実。後宮に入るべく御簾の前に立つのではなく。
ああ、運命はすでに決まっているのです。
だから、俺たちはもう離れなれなきゃ。
春馬は目をつぶります。
さよなら、愛しい人。
そうして春馬は泣き顔を隠し、意地になります。
「大体なんだよ、春馬春馬って。俺を名前で呼ぶのは、王城ではお前だけだぞ」
「だって」
「いくら幼馴染だからって、もうその呼び名はやめろ」
あるべき呼び名で俺を呼べ、そうしてもう俺に構うな。
「いやだよ春馬、そんなこと言わないで!」
顔をくしゃくしゃにして飛びついてくる小さな姿。
抱きつかれるに任せたまま、しかし春馬はその体に腕を回すことを自分に許さないのです。
春馬の胸に伏せられた顔から、泣き声が聞こえます。
何でいきなり、そんな乱暴な喋り方をするの。
後宮の姫たちとの戯れをほのめかしたりなんかして。
何で私を突き放すの。
何で。
お願い。
私の言う事を聞いて。
ずっとそばにいてくれたのに。
・・・
しかし春馬は、もう時は過ぎてしまったことを知っているのです。
子供は、いつか大人になる。
それは、自分ではない、他者が決めるのだ。
そして、いくら望まれても、叶えるべきでないことがある。
それが皇帝であり、それが臣というもの。
今、ようやく本来の姿に戻る時がきたのだ。
心はもう、ここに置いてゆこう。
見上げた相手はハッとして、春馬の強い意志を悟ります。そうしてその顔は悲しみに変わります。
大人にならねばならないのだ。
苦渋に満ちた表情の春馬が、厳しい顔をこちらに向けます。
そう、ひざまずくのだ、皇帝の足元に。
家臣として、忠誠の証に。
「陛下……」
・・・
突然、幕が乱暴に引き開けられたかと思うと、地に手をついた姿は激しく踏みつけられるのです。そこには猛烈に怒った父の姿が。
「貴様は家臣の分際で、陛下になんという無礼を働いたのか!」
今日は大切な、妃選びの日なのだぞ!
そうだ、その通りだ。陛下の優しさに甘え、自分はなんと身の程知らずなことを続けてきたのか。そう思う慙愧の心には、父の仮借ない足蹴はむしろ心地よいのです。
「やめよ鯉景!」
気がつけばあたりは静まり返り、家臣が取り巻いています。その只中にあって皇帝は、横たわるものと、平伏するその父親を見下ろします。
「鯉景、実の娘にそのような手荒をするな」
「いいえ陛下、どうか娘の無礼をお許しください」
ひたすら低頭する父親に、悲しげな皇帝は再び「止めよ」とだけ告げます。
「私が命じたのだ。それに、ただ親友に接するように、相対せよとも」
それは幼き頃からの、二人の約束。
それから皇帝は、倒れ伏すものを優しく抱き起こすのです。
「陛下……」
血ににじんだその表情にあるのは、つつしみ、へりくだり。しかし心ある目で見れば、瞳の奥底に確かにある、隠された光。
そこに隠されたもの。それは愛情。それは守り育もうとするこころ。それは相手を想う気持ち。
じっと覗き込むと、その瞳からみるみる溢れてくるものがあります。
「陛下、私は…」
「もういいよ、ずっと無理をさせてごめんね、春馬」
そうして年若き賢嶺帝は、幼き頃より姉弟のように過ごしてきた春馬に命ずるのです。
「いけません陛下、私にそのような才など、」
言われて皇帝は、笑い声を上げます。
「ううん、家臣たちもいるし、ちょうどいい」
さあ立って、始めてごらん。
大丈夫、春馬の腕なら私が保証する。
守らなきゃいけないしきたりがあるなら、守ればいいんだ。
俯いた春馬は、紫檀の床にぽたりぽたりと涙を落とします。
四年どころではない、幼き頃からの研鑽。
あなたのそばにいられるならと、ずっと思っていたのです。
胸に暖かくあふれるもの。
夢をつむいでゆくために、今この時があるのだ。
「……陛下のお気に召すままに」
・・・
幼き日からの夢に、いつまでも遊ぶのは罪か。
夢と現は、いつか分かつべきか。
しかしそれを決めるは、人の心。
あきらめも勇歩も、ひとえにそれ次第。
・・・
そうしてこのお伽噺は、このように結ばれるのです。
―――賢嶺帝の一の妃、幼少より詩歌を能くす。春馬と呼ばれし幼きみぎり、その朗する声に、あまねく家臣たち、ただただ涙するのみ。後宮の秀でし姫たち、声もなく高位を譲る。春馬、名を春駿として後宮に入り、皇帝の寵愛をひとえに受ける。
(おわり)




