第9話「あなたが笑うと、私は困ります」
騎士団の慰労会に呼ばれたのは、エルナ自身が一番驚いた。
「来週、団の慰労会がある。来られるか」
クロヴィスから声をかけられたのは、三度目の詰所訪問のときだった。
「慰労会、というのは」
「半期に一度、団員たちで食事をする。堅苦しいものではない」
「でも、私は団員ではありませんが」
「協力者だ。呼んでいい」
有無を言わせない言い方だった。エルナは少し考えてから、頷いた。
ミラには「絶対おかしい」と言われた。父には「まあ、クロヴィス団長殿のお声がけなら」と意外にあっさり許可をもらった。父も、クロヴィスの名前には弱いらしい。
当日、詰所の食堂へ向かうと、すでに大勢の騎士たちが集まっていた。長机にところ狭しと料理が並び、ジョッキが行き交い、あちこちで笑い声が上がっている。エルナがミラと入口に立つと、何人かがこちらを見た。
「あ、先生来た」
誰かがそう言った。
「先生?」
エルナが首を傾げると、近くにいた若い騎士がにこにこしながら近づいてきた。
「アッシュフォード令嬢のことを、俺たちそう呼んでるんです。なんか、いろいろ当ててくれるので」
「先生は、少し違う気が」
「じゃあ、縁起屋様?」
「それも違います」
「エルナ様でいいです!」と背後でミラが言った。
笑い声が上がった。その笑い声が、思ったより温かかった。
慰労会は、最初に想像していたよりずっと賑やかだった。
エルナの隣に、いつの間にかセドリックが座った。先日クロヴィスから休暇を与えられた、あの茶髪の騎士だ。
「休暇、取れましたか」
エルナが問うと、セドリックが少し照れたような顔をした。
「はい。一週間、実家に帰りました。……団長から聞きました。令嬢が俺のことを気にかけてくれていたと」
「少し見えただけです」
「いや、助かりました。正直、限界だったので」
セドリックがジョッキを傾けた。
「帰ったら、母親の飯が食えて。犬と走って。それだけで、ずいぶん楽になりました」
「それはよかった」
「あと、ゴードン副長も、団長と話し合いをしたみたいで。何年も溜めてた不満をぶつけたらしいですよ。団長、二時間付き合ったって」
「クロヴィス様が、二時間」
「しかも、ちゃんと全部聞いたらしくて。団長、そういうことできる人だったんだって、みんなで驚いてます」
エルナはそっと視線を上げた。
部屋の端、少し離れた席に、クロヴィスが座っている。団員たちと言葉を交わしながら、時折こちらに視線を向ける。目が合うと、すぐに外される。
――いつからこうなったのだろう。
エルナは少し不思議に思った。気づけば、クロヴィスの視線に気づく自分がいた。
食事が一段落したころ、エルナはいつの間にか団員たちに取り囲まれていた。
「令嬢、俺の恋愛運見てくれませんか」
「えっ、俺も」
「俺は出世運」
「令嬢、縁起屋じゃないですよね? でも当たるって聞いて」
「私が見えるのは、終わりの気配だけです。恋愛運はわかりません」
「じゃあ、この恋、終わりそうですか?」
「終わりそうかどうかはわかりますが、それを聞いて本当にいいですか?」
「……やっぱりいいです」
どっと笑いが起きた。
エルナは、気づいたら笑っていた。
声を上げて笑ったのは、いつぶりだろう。婚約破棄の前後は、笑う機会がなかった。社交界での笑顔は、どこか作り物だった。でも今の笑いは、作っていない。
「令嬢が笑った」
誰かが言った。
「初めて笑ったな」
「すごい、笑顔あるじゃないですか」
「当たり前です」とミラが脇から言った。「エルナ様はいつも笑ってます」
「いや、今日は違う感じがしますよ」とセドリックが言った。「なんか、楽しそうです」
エルナは少し面映ゆかった。
「楽しいです。初めて来たけれど、想像していたのと全然違いました」
「どんなの想像してたんですか」
「もっと殺伐としているかと」
「失礼な」
また笑い声が起きた。
帰り際、クロヴィスが玄関まで送ってきた。
ミラが少し先を歩いていて、エルナとクロヴィスは自然と二人になった。
「今日は、来てよかった」
エルナが言うと、クロヴィスが正面を向いたまま頷いた。
「ああ」
「団員の皆さん、いい方ばかりで」
「そうだ」
「セドリック様に、ゴードン副長の話も聞きました。二時間、付き合われたんですね」
クロヴィスが少し止まった。
「……誰から聞いた」
「セドリック様から。みんなで驚いていると」
「大げさだ」
「いいえ、素直に。クロヴィス様はそういうことができる方なんだと思いました」
クロヴィスが何も言わなかった。
夜の空気が、ひんやりとしている。石畳に、詰所の灯りが長く伸びていた。
「一つ、聞いていいか」
クロヴィスが口を開いた。
「なんでしょう」
「今夜、笑っていたな」
「はい」
「ああいう顔をするのか」
エルナは少し首を傾げた。
「ああいう顔、とは」
「楽しそうな顔だ」
「……笑っていれば、そういう顔になると思いますが」
「俺の前では、あまりしない」
エルナは少し考えた。確かに、クロヴィスの前では笑うことが少ないかもしれない。緊張しているわけではないが、何か別のものがある。
「クロヴィス様の前では、少し構えているのかもしれません」
「構える?」
「あなたが、私のことをよく見ているので」
クロヴィスが少し止まった。
「……気づいていたのか」
「なんとなく」
沈黙が落ちた。
石畳の上を、夜風が通り過ぎていく。
「エルナ」
「はい」
「あなたが笑うと、俺は困る」
エルナは少し驚いて、クロヴィスを見た。
「困る、とは」
クロヴィスが前を向いたまま言った。
「目が離せなくなる」
エルナは何も言えなかった。
何か返すべき言葉が、出てこなかった。
クロヴィスはそれきり何も言わず、「馬車まで送る」とだけ言って歩き出した。
エルナはその背中を見ながら、自分の胸の中に何かが落ちてきた感覚を覚えた。
石ではない。もっと軽くて、温かいものが。
――なぜか、この人だけ「終わり」が見えない。
その理由が、少しだけわかってきた気がした。




