第8話「四十日、経ちましたね」
四十二日目の朝だった。
ミラが血相を変えて飛び込んできたのは、エルナが朝の刺繍を始めてすぐのことだった。
「エルナ様! 聞きましたか!」
「何を」
「ダルベール侯爵子息のご婚約が、破談になったそうです! ソフィア様のご実家から、突然白紙に戻すと申し出があって!」
エルナは刺繍針を止めた。
「そう」
「そうって……! エルナ様が言った通りになりましたよ! 四十日以内に終わるって! 四十二日ですけど!」
「四十日以内とは言っていないわ。あと四十日で終わると言ったの」
「どっちでもいいです! 当たったんですよ!」
ミラが興奮で頬を赤くしている。エルナは静かに刺繍の続きに戻った。
予言が当たったことへの感慨は、あまりない。見えていたから、そうなった。それだけのことだ。
ただ、一つだけ気になることがあった。
――レオンは、今どんな顔をしているだろう。
その答えは、思ったより早く知ることになった。
同日の夜、父に連れられて出席した夜会で、レオンが近づいてきた。
以前と違い、隣にソフィアはいない。一人だった。顔色が悪い。目の下に、うっすらと隈がある。
「エルナ」
「ごきげんよう、レオン様」
「……聞いたか」
「少し」
「そうか」
レオンが視線を落とした。
「ソフィアのご実家から、一方的に白紙にされた。俺には、何が原因なのかも、よくわからない」
「レオン様は、ソフィア様とよく話されていましたか」
「話していた、つもりだったんだが」
レオンが苦い顔をした。
「お前が言っていたな。もう少しソフィアの話をよく聞いてやれと」
「……覚えていてくださったんですね」
「忘れるわけがない。あのあと、俺なりに気をつけたつもりだったんだが、どうも空回りしていたらしい」
「そうでしたか」
「お前に聞きたいんだが」
レオンがエルナを見た。縋るような目だった。こういう顔をする人だとは、五年間の婚約中には知らなかった。
「今のソフィアの輪郭は、見えるか」
「……今夜はいらしていないので、わかりません」
「そうか」
「ただ」
エルナは少し言葉を選んだ。
「一度白紙になったことが、必ずしも終わりとは限りません。私が四十日と言ったのは、この形のままでは続かない、という意味でした。形が変われば、続く可能性もあります」
「形が変わる、とは」
「それは……レオン様が、ソフィア様と向き合う中で見つけることだと思います。私にはそこまでは見えない」
レオンが少し間を置いた。
「……お前は、なんで俺に優しくするんだ」
「優しくしているつもりはありませんが」
「婚約を破棄した相手に、こんなふうに話してくれる人間がどこにいる」
エルナはほんの少し考えてから、正直に答えた。
「前世で、終わりを見送る仕事をしていたからかもしれません。終わりを迎える人には、できることをしてあげたいと思う癖が、あるんです」
「前世って……お前、本当に変わっているな」
「よく言われます」
レオンが少しだけ、困ったように笑った。
「ありがとう、エルナ。……俺、もう少し頑張ってみる」
「それがいいと思います」
レオンが人混みの中へ戻っていくのを見送って、エルナは小さく息を吐いた。
五年間の婚約が終わって、今こうして元婚約者の恋路を応援している。なんとも不思議な話だ。
「随分と、慕われているな」
背後から声がした。
振り返ると、クロヴィスが立っていた。礼服姿で、グラスを片手に持っている。今夜もいたのか、とエルナは思ったが、もう驚かなくなっていた。
「聞いていたんですか」
「通りかかっただけだ」
「またですか」
「また、とはどういう意味だ」
「第一話――ではなく、最初の夜会でも同じことをおっしゃっていましたよね」
クロヴィスが少し間を置いた。
「……よく覚えているな」
「印象的でしたので」
クロヴィスがエルナの隣に立った。二人で夜会の人波を眺める形になる。
「ダルベールの件、当たったな」
「はい」
「四十二日だったが」
「誤差の範囲です」
「そうか」
クロヴィスが静かにグラスを傾けた。
「一つ聞いていいか」
「なんでしょう」
「お前は、ダルベールのことを、今でも何か思っているか」
エルナは少し驚いた。こういう問いをする人だとは、思っていなかった。
「未練という意味ですか」
「……そういう意味だ」
「ありません」
即答した。クロヴィスが微かに、目を細めた。
「なぜそんなに即答できる」
「五年間の婚約中に、少しずつ終わっていったので。終わりきった頃には、もう何も残っていませんでした」
「終わりきった」
「はい。前世の仕事でもそうでしたが、見送るべきものをきちんと見送ると、すっきりするんです。引きずらない」
クロヴィスがエルナを横目で見た。
「……前世の仕事、というのは」
「あ」
またしても言ってしまった。エルナは口を噤んだが、今夜のクロヴィスは追及をやめなかった。
「何度か、前世という言葉を使っている」
「……お気づきでしたか」
「最初から気になっていた」
エルナは少し迷った。前世の話は、普通の人にはできない。信じてもらえないか、気味悪がられるかのどちらかだ。
でも。
クロヴィスの輪郭は、今夜もくっきりしている。
悪意の翳りが、微塵もない。
「……信じてもらえるかわかりませんが」
「言ってみろ」
「私には、この世界に生まれる前の記憶があります。別の世界で、別の人間として生きていた記憶が」
クロヴィスが何も言わなかった。
エルナは続けた。
「その世界では、葬儀の式典を取り仕切る仕事をしていました。人の最後の時間を、できるだけ美しく整える仕事です。だから人の終わりに、敏感なのかもしれません」
沈黙が落ちた。
夜会の喧騒が、遠く聞こえる。
「……信じる」
クロヴィスが、静かに言った。
「え?」
「お前がそう言うなら、そうなのだろう」
「疑わないんですか」
「疑う理由がない。お前の言うことは、今まで全部当たっている」
エルナは少し呆気に取られた。
前世の話をして、即座に信じてもらえたのは、初めてだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることでもない」
クロヴィスが前を向いた。夜会の灯りが、その横顔を照らしている。
「葬儀の仕事をしていたから、終わりが見える」
「そう思っています」
「では、なぜ俺の終わりだけ見えない」
エルナはその問いを、ずっと自分でも考えていた。
「……わかりません。でも、見えないということは」
「ということは?」
エルナは少し口を噤んだ。
言いかけた言葉を、今は飲み込んだ。
「……いつかわかると思います」
クロヴィスがエルナを見た。
「言いかけたことがあるだろう」
「気のせいです」
「気のせいではない」
「今夜はここまでです」
クロヴィスが少し間を置いて、それから小さく息を吐いた。
「……頑固だな」
「そうですか?」
「ああ」
でも、その声は怒っていなかった。
むしろ、どこか――楽しそうだった。




