第7話「副官殿の本当の望みを、私は知っています」
カイン・ロウェルは、エルナのことが気に入らないらしかった。
二度目の詰所訪問の朝、クロヴィスの執務室へ向かうエルナを廊下で呼び止めたのが彼だった。二十代半ばで、短く刈り込んだ黒髪。体格は騎士らしくがっしりしているが、目に鋭さがある。
「少し、よろしいですか」
丁寧な言葉遣いだが、声に棘があった。
「はい」
「アッシュフォード令嬢。率直に聞きますが、団長に何をするつもりですか」
エルナは少し考えた。
「何を、とは?」
「団長は、令嬢を詰所に招くような人ではありません。それがここ数日で変わった。あなたが来てから」
「クロヴィス様から依頼を受けて、騎士団の方々を拝見しています。それだけです」
「拝見する」
カインが眉を寄せた。
「人を見て、何がわかるんですか。令嬢に、騎士の何がわかる」
「おっしゃる通りです」
エルナは静かに答えた。
「私には騎士の訓練も剣の腕もわかりません。ただ、人の顔を見ることは、少しだけ得意で」
「顔を見るだけで何がわかるというんです」
「例えば」
エルナはカインをまっすぐ見た。
「あなたが今、疲れていることはわかります。体ではなく、心が。ずっと何かを抱えて、誰にも言えないまま来ている」
カインが微かに顔を強張らせた。
「……買いかぶりすぎです」
「そうですか」
「俺は疲れていない」
「そうですか」
「なぜ二度同じことを言うんですか」
「あなたが否定するから、合わせています」
カインが何か言いかけて、止まった。
エルナは続けた。
「カイン様」
「……なんですか」
「あなたは騎士団を、辞めたいわけではないですよね」
沈黙が落ちた。
廊下の向こうから、訓練場の音が聞こえてくる。金属の打ち合う音。誰かが号令をかける声。
カインはしばらく黙っていた。
「……なぜそう思うんですか」
「翳りの色が、去ろうとしている人のものではないから。あなたの翳りは、本当は留まりたいのに、留まれない理由がある人の顔です」
「翳り……」
「うまく説明できないんですが、そう見えるんです」
カインがエルナを見た。警戒と、それを少し上回る何かが、その目にあった。
「……故郷に、母がいます」
ぽつりと、カインが言った。
「一人で暮らしていて、最近体が弱ってきていると、手紙が来ました。兄も遠方にいて、すぐには動けない。俺が帰れれば、と思っているんですが」
「それを、クロヴィス様には?」
「言えるわけがない」
カインが短く言った。
「団長は、俺がいなければ困る仕事を抱えている。今の時期に副官が抜けたら、どれだけ迷惑をかけるか。だから言えない。でも……」
「でも、お母様のことが心配で、ここにいることが苦しい」
カインが小さく息を吐いた。
「……そうです」
「いつから?」
「三ヶ月ほど前に、手紙が来て」
三ヶ月。
エルナの中で、数字がぴったりと合わさった。六ヶ月以内に辞める、と見えた翳りが始まったのが、ちょうどその頃だったのだろう。
「カイン様」
「……なんですか」
「クロヴィス様に話してみてはどうですか」
カインがすぐに首を振った。
「無理です。団長は、そういうことを聞く人ではない」
「そうでしょうか」
「あの人は仕事しか見ていない。感情の話をする隙がない」
「先日、クロヴィス様がこうおっしゃっていました」
エルナは言葉を選んだ。
「カインが何を考えているか、自分はきちんと聞いたことがないかもしれない、と」
カインの目が、微かに揺れた。
「……団長が、そんなことを」
「はい」
「俺のことを、そんなふうに思っていたのか」
「少なくとも、そうおっしゃっていました。あの方は、嘘をつくような方ではないと思いますので」
廊下に、しばらく沈黙が流れた。
訓練場から聞こえる音が、少し遠くなった気がした。
「……俺は、あなたのことを誤解していたかもしれない」
カインがゆっくりと言った。
「令嬢が詰所に来て、団長を丸め込もうとしているのかと思っていました」
「丸め込む気はありませんが、クロヴィス様に言いくるめられているのは少しあるかもしれません」
カインが、ふっと息を漏らした。笑ったのだ、とエルナは気づいた。
「……そうですね。団長は、そういうところがある」
「ええ」
「一つだけ、聞いていいですか」
「はい」
「あなたには、俺の終わりが見えているんですか」
エルナは正直に答えた。
「見えていました。でも今は、少し変わっています」
「変わった?」
「翳りの色が、さっきより薄くなっています。気持ちが少し楽になると、翳りも変わる。終わりというのは、決まったものではないので」
カインがエルナをじっと見た。
「……変な令嬢だ」
「よく言われます」
「でも」
カインが、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
エルナは少し驚いた。頭を下げてくれるとは、思っていなかった。
「団長と、話してみます」
「それがいいと思います」
カインが顔を上げると、さっきとは少し違う顔をしていた。翳りはまだある。でも、少し軽くなっている。
廊下の向こうに歩いていくカインの背中を見送って、エルナはクロヴィスの執務室の扉をノックした。
「どうぞ」
入室すると、クロヴィスが書類から顔を上げた。
「来たか。廊下で時間がかかっていたようだが」
「カイン様と少し話していました」
クロヴィスの目が、わずかに動いた。
「カインと」
「はい。近いうちに、カイン様からクロヴィス様に話があると思います」
「……何の話だ」
「それは、カイン様から直接聞いてあげてください」
クロヴィスがエルナをしばらく見た。
何かを言いかけて、止まる。
それから、静かに頷いた。
「……わかった」
執務室に、朝の光が差し込んでいた。




