第6話「この騎士団、三箇所が腐っています」
騎士団の詰所は、エルナが想像していたよりずっと大きかった。
石造りの建物が中庭を囲むように並び、訓練場からは金属のぶつかり合う音が絶えず響いている。案内してくれた若い騎士が「こちらです」と扉を開けるたびに、廊下の奥から大声や笑い声が聞こえてきた。活気がある、というより、雑然としている。
――でも、ところどころが、滲んでいる。
エルナは歩きながら、さりげなく周囲を見渡した。訓練場の端で剣を磨いている騎士。廊下ですれ違った中年の副長らしき男。中庭の隅で一人、遠くを見ていた若い騎士。
三人。
明確に翳りが見えた。
「着きました。団長室です」
若い騎士が扉をノックすると、中から「入れ」という声がした。クロヴィスの声だ。
「失礼します」
エルナが入室すると、クロヴィスは執務机の前に立っていた。書類を手にしたまま、エルナを見る。
「来たか」
「はい。ご案内いただいた若い方が、丁寧に連れてきてくださいました」
「ラルフか。あいつは真面目だ」
クロヴィスが書類を机に置いた。
「早速だが、詰所の中を案内する。歩きながら、気になったことがあれば教えてくれ」
「実は、来る途中で少し見えてしまって」
クロヴィスが目を細めた。
「もう見えたのか」
「詰所に入った瞬間から、なんとなく。……三箇所、気になるところがあります」
クロヴィスが少し間を置いた。
「三箇所」
「はい」
「……言えるか」
「言えます。ただ、廊下で申し上げるより、人のいない場所の方がよいかと」
「ここで話せ。今は俺しかいない」
エルナは頷いた。
「まず一人目は、訓練場の東端で剣を磨いていた方。背の高い、茶髪の騎士です」
「セドリックか」
「お名前は存じませんでしたが。あの方の輪郭が、かなり滲んでいます。疲弊、というより……燃え尽きに近い気配です。もう随分と無理をされてきた方だと思います」
クロヴィスが静かに聞いていた。表情は変わらないが、目が動いた。心当たりがある顔だ。
「二人目は、廊下ですれ違った副長らしき方。年配の、白髪交じりの男性です」
「ゴードンだ」
「あの方は、疲弊ではなく不満です。何かに対して、長い間納得できないまま来ている。それが少しずつ、周囲に伝わっている気がします」
「……続けてくれ」
「三人目が、一番気になりました。中庭の隅で、一人で遠くを見ていた若い騎士です。まだ二十歳前後だと思いますが」
「カイン副官か」
エルナは少し驚いた。
「カイン様が、中庭に?」
「今日は午前の訓練が終わって、自由時間のはずだ」
「そうでしたか。……カイン様の翳りは、他の二人と少し種類が違います。疲弊でも不満でもなく、決意、に近い気配です」
「決意」
「はい。何かを決めかけている人の顔でした。まだ言葉にする前の、心の中だけで結論が出かけている段階です」
クロヴィスが窓の外を見た。中庭に、カインの姿があるのかもしれない。
「……先日お前が言っていたことと、一致する」
「六ヶ月以内に辞める、という話ですか」
「ああ」
「今日見た限りでは、六ヶ月より早いかもしれません。気持ちの固まり方が、三ヶ月前のレオン様に似ていました」
クロヴィスが振り返った。
「三ヶ月前のダルベールに」
「はい。あの方もそのくらいの段階で、私には見えていましたので」
クロヴィスがエルナをしばらく見た。
「……お前は、俺が思っていたより、ずっとよく見える」
「お褒めいただいているのかわかりませんが」
「褒めている」
即答だった。エルナは少し面食らった。
「三人の件は、どう動くつもりですか」
「セドリックには休暇を与える。ゴードンとは話し合いが要る。カインは……」
クロヴィスが少し止まった。
「カインとは、一度向き合わなければならない」
「向き合う、というのは」
「あいつが何を考えているか、俺はきちんと聞いたことがないかもしれない」
静かな言葉だった。
エルナは何も言わなかった。でも、その言葉の重さはわかった。騎士団長という立場にいれば、副官の心の声を聞く時間など、なかなか取れないのかもしれない。
「エルナ」
「はい」
「今日、来てくれてよかった」
短い言葉だったが、クロヴィスがそういうことを言う人ではないと、もうエルナにはわかっていた。だから、その一言の重さもわかった。
「お役に立てて、よかったです」
エルナは静かに答えた。
帰り道、中庭を横切るとき、エルナはもう一度カインの姿を見た。
遠くを見ている横顔。
三ヶ月前のレオンと、確かに似ていた。
でも、レオンと違うのは、カインの翳りの奥に、もう一つ別の色があることだ。
寂しさ、だとエルナは思った。
去りたいのではなく、本当は留まりたいのに、それができない理由がある。そういう翳りだ。
――あの人の本当の望みは、どこにあるのだろう。
エルナは歩きながら、静かにそう思った。




