第4話「ご主人様の婚約あと四十日です」
レオン・ダルベールが、新しい婚約者を得たという話は、あっという間に社交界に広まった。
相手はカルム伯爵家の令嬢、ソフィア。明るく社交的で、社交界での評判も良い。レオンとは夜会で出会い、三週間で婚約まで進んだという。
「ずいぶん早いですね」
報告を聞いたエルナの第一声は、それだった。
ミラが呆れた顔をした。
「早いですね、じゃないですよ。エルナ様と婚約を続けていたのが先月の話ですよ? 怒らないんですか?」
「怒る理由が?」
「あります! 絶対あります!」
「私との婚約は終わっていたもの。その後どうされようと、レオン様の自由よ」
エルナは刺繍の手を止めずに言った。ミラがまだ何か言いたそうにしていたが、エルナは静かに針を進めた。
怒りは、ない。ただ、一つだけ引っかかることがあった。
――ソフィア様の輪郭が、少し滲んでいた。
昨日の茶会で、遠目に一度だけ見かけた。華やかに笑うソフィアの輪郭に、うっすらとした翳り。まだ薄い。でも確かにある。
四十日。
エルナの中で、なんとなくその数字が浮かんでいた。
問題は、その三日後に起きた。
父に連れられて出席した夜会で、レオンがエルナのそばに近づいてきた。隣にソフィアを連れて。
「エルナ、久しぶりだな」
「ごきげんよう、レオン様。ソフィア様も」
ソフィアが華やかに微笑んだ。悪意はない。ただ、レオンの隣に立つことへの誇りが、その笑顔にはっきりと滲んでいた。
「エルナ様のことは、レオン様からよく聞いていますわ。仲良くしていただけると嬉しいです」
「こちらこそ」
エルナは微笑み返した。
しかし、その瞬間、改めてソフィアの輪郭を見た。
やはり、滲んでいる。
四十日を切っている。もしかすると三十日台かもしれない。
「エルナ、一つ聞いていいか」
レオンが、やや声を落として言った。ソフィアには聞こえない程度に。
「何でしょう」
「お前は今も、あの……人の終わりがわかる、とか言っていたか。あれは本当のことなのか」
エルナは少し考えた。
「本当のことです」
「では、俺とソフィアの婚約は……うまくいくか」
思わぬ問いだった。
エルナは一瞬だけ迷った。こういうことを正直に言うべきか。でも、嘘をつくのも違う。
「……聞きたいですか、本当のことを」
「ああ」
「では、申し上げます」
エルナはソフィアをちらりと見た。今は別の令嬢と話している。
「あと四十日で終わります」
レオンの顔が固まった。
「な……」
「最終的にどうなるかは、わかりません。そこまでは見えない。ただ、今のままでは、四十日は持ちません」
「なぜだ。俺たちは順調なのに」
「順調に見えている、ということと、順調であることは、違います」
エルナは静かに言い切った。
「レオン様が何をすべきかは、私にはわかりません。ただ、今よりもう少し、ソフィア様の話をよく聞いてあげることが、遠回りなようで近道かもしれません」
レオンが黙った。
その沈黙の中に、何かを考えている気配があった。反発ではなく、思い当たる節がある人間の沈黙だ。
「……お前は本当に、変わっているな」
「よく言われます」
「なんで俺の婚約相手のことまで心配するんだ」
「心配しているわけではありません。聞かれたから答えただけです」
レオンがふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エルナが踵を返そうとしたとき、背後から低い声がした。
「遅くなった」
振り返ると、クロヴィスが立っていた。礼服姿で、いつもの無表情だ。ただ、その目がエルナとレオンを一度だけ見比べた。
「クロヴィス様、今夜もいらしていたんですね」
「ああ。王子殿下のお供で」
レオンがクロヴィスを見て、少し背筋を伸ばした。騎士団長相手では、侯爵子息でも自然とそうなるらしい。
「では、俺はこれで」
そそくさと去っていくレオンを見送って、クロヴィスがエルナの隣に立った。
「何を話していた」
「少し、相談を受けました」
「婚約の件か」
「……どこまで聞こえていたんですか」
「最後の少しだけ」
クロヴィスが前を向いたまま、小さく言った。
「四十日、と言っていたな」
「はい」
「当たると思うか」
エルナは少し考えてから、正直に答えた。
「当たると思います。外れたことは、あまりないので」
クロヴィスが静かに頷いた。それきり何も言わなかったが、エルナの隣から離れようとしなかった。
遠くで楽団が曲を変える。夜会の喧騒が、ゆっくりと波のように押し寄せてくる。
「一つ、聞いていいか」
しばらくして、クロヴィスが口を開いた。
「なんでしょう」
「俺の終わりは、今夜も見えないか」
エルナはクロヴィスの輪郭を見た。
くっきりと、鮮明だ。翳りの一片もない。
「見えません。今夜も」
「そうか」
クロヴィスは何か考えるように、少しだけ目を細めた。
「……それは、どういう意味なんだろうな」
独り言のようだった。エルナに向けた問いではないかもしれない。
でもエルナは、その問いをずっと自分も抱えていた。
なぜか、この人だけ「終わり」が見えない。
それがどういう意味なのか。
――答えはまだ、わからない。でも、いつかわかる気がした。




