第2話「騎士団長殿、あなたの副官は半年以内に辞めます」
翌朝、騎士団長が家に来た。
しかも、アポイントもなく。
エルナが朝食を終えたころ、侍女のミラが血相を変えて駆け込んできた。
「エルナ様、大変です!」
「どうしたの、そんな顔して」
「お客様です。クロヴィス・ヴァーナ騎士団長殿が、お見えになっていて……」
エルナはカップをそっとソーサーに戻した。
「……昨夜の方が?」
「はい。玄関でお待ちです。アポイントもなく突然いらして、お父様もまだ出仕されたあとで、どう対応すればいいか……」
エルナは少し考えてから立ち上がった。
「通してちょうだい。応接室で」
「よ、よろしいのですか? お相手は騎士団長殿ですよ? 婚約も破棄されたばかりで、こんな朝早くに男性のお客様を……」
「昨夜お話しした方よ。それほど気にすることはないわ」
ミラがまだ何か言いたそうにしていたが、エルナはすでに廊下へ歩き出していた。
応接室に入ると、クロヴィスは窓際に立って庭を眺めていた。昨夜の礼服ではなく、騎士団の制服姿だ。深い紺色の上着に金の肩章。背筋がまっすぐに伸びている。
エルナが入室すると、彼はゆっくりと振り返った。
「突然すみません」
「いえ」
エルナは向かいのソファを勧めてから、自分も腰を下ろした。ミラが緊張した様子でお茶の用意をして、そそくさと退室していく。
クロヴィスはソファに座ったが、どこか居心地が悪そうだった。こういう柔らかい調度品のある部屋は、あまり得意ではないのかもしれない。
「昨夜の発言について、聞きたいことがあって来た」
「昨夜の、どの発言でしょう」
「お前が婚約者に言ったことだ。三ヶ月前から終わりがわかっていた、伯爵令嬢の名前も知っていた。……あれは、どうやって」
エルナはカップを両手で包むようにして持った。
「なんとなく、と昨夜も申し上げましたが」
「それでは答えにならない」
「では、どんな答えをお望みですか」
クロヴィスが少し眉を動かした。言葉に詰まったらしい。
エルナは続けた。
「人の『終わり』が近づくと、なんとなくわかるんです。輪郭が滲んで見えるというか……うまく説明できないのですが」
「輪郭が、滲む」
「はい。婚約者の心が離れていくのも、そうやって気づきました。前世でも、そういうものを見る仕事をしていたので、癖になっているのかもしれません」
「前世」
しまった、とエルナは思った。前世の話は、なるべくしないようにしていたのに。
「……失言でした。忘れてください」
「いや」
クロヴィスが身を乗り出した。
「その能力に、興味がある」
一拍置いて、彼は小さく付け加えた。
「……いや、違うな。お前に興味がある」
「……好奇心旺盛な方なんですね」
「違う。仕事の話だ」
彼はそう言って、まっすぐエルナを見た。
「騎士団の中に、問題を抱えている人間がいる。何人か、様子がおかしいとは感じているが、俺には詳細がわからない。お前の力を借りたい」
エルナは少し考えた。
「……どういう問題なのですか」
「士気の低下。意思疎通の不全。いくつかの班で、連携が取れなくなっている」
「なるほど」
エルナはカップを置いた。
「一つだけ、確認してもいいですか」
「なんだ」
「副官のカイン様は、今もご在職ですか」
クロヴィスの表情が、わずかに固まった。
「……なぜカインの名前が出る」
「昨夜、夜会でお見かけしました。少しだけ」
それは本当のことだ。人混みの中で一瞬だけ視界に入った騎士の顔に、はっきりとした翳りがあった。終わりの気配――ただし、それは死の気配ではない。別れの気配だ。今いる場所から、離れていく予感。
「カインが、どうかしたか」
「六ヶ月以内に、辞めると思います。半年は持ちません。必ず辞めます」
静寂が落ちた。
クロヴィスがエルナをじっと見た。その目に、昨夜と同じ色が宿っている。驚きでも疑いでもなく、もっと真剣な何か。
「……根拠は」
「輪郭が、滲んでいました。ただ、カイン様の場合は騎士団との縁が切れる気配です。死や病ではありません。ご自身の意志で、去ることを決めている方の顔でした」
「本人は、そんなことを一言も」
「まだ決意が固まっていないのかもしれません。でも、心はもうここにない気がします」
クロヴィスはしばらく黙っていた。
エルナは余計なことを言ったかと少し不安になったが、彼の顔を見て、そうではないと気づいた。動揺しているのではない。考えている。この情報をどう扱うか、真剣に考えている顔だ。
「カインが去る理由は、わかるか」
「それは……わかりません。終わりの気配はわかりますが、理由までは」
「そうか」
クロヴィスが背もたれに体重を預けた。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「お前は、こういうことをよく人に話すのか」
エルナは少し考えてから、正直に答えた。
「いいえ。話すと、縁起が悪いと言われますので」
「……そうだろうな」
「騎士団長殿は、縁起が悪いとは思われないのですか」
クロヴィスが、ほんの少しだけ口の端を動かした。笑ったというほどではないが、何か柔らかいものが顔をよぎった。
「俺は、役に立つ情報かどうかで判断する」
「では、今の話は」
「役に立つ」
きっぱりと言い切って、クロヴィスは立ち上がった。
「改めて依頼をしたい。騎士団の人間を見て、問題のある者を教えてほしい。報酬は出す」
エルナも立ち上がった。
「条件が、一つあります」
「言え」
「縁起が悪いという噂を、周囲に否定していただけますか。昨夜の婚約破棄の件で、また社交界で何か言われそうで」
クロヴィスが少し間を置いた。
「……それだけでいいのか」
「それだけです」
「わかった」
即答だった。
エルナは少し驚いた。もう少し渋られるかと思っていた。
「では、改めてよろしくお願いします、騎士団長殿」
「クロヴィスでいい」
「……え」
「いちいち騎士団長と呼ばれると長い。クロヴィスでいい」
「では、クロヴィス様」
「様もいらない」
「……さすがにそれは」
「俺はお前のことをエルナと呼ぶ。昨夜から既にそうしている」
言われてみれば、確かにそうだった。エルナは少し考えてから、小さく息を吐いた。
「……では、クロヴィスと」
「ああ」
短く頷いて、クロヴィスは応接室を出ていった。
残されたエルナは、閉まったドアをしばらく眺めた。
婚約が終わった翌朝に、騎士団長から仕事の依頼を受けた。
しかも名前呼びを要求された。
前世でもこういう展開はなかった。
――それにしても。
エルナはふと思った。
クロヴィスの輪郭は、今日もくっきりと鮮明だった。翳りの一片もない。
なぜか、この人だけ「終わり」が見えない。
それがひどく、気になった。




