第15話「お見送りのプロは、今日からあなたのそばにいます」
婚約の話は、思ったより早く整った。
クロヴィスが父のところへ正式に挨拶に来たのは、庭での告白から三日後のことだった。
父は最初、「騎士団長殿が?」と目を丸くして、次に「クロヴィス殿ならば」と頷いて、最後に執務室の隅でこっそり目を拭っていた。エルナには見えていたが、見ていないふりをした。
ミラは見えていないふりができなかったらしく、「旦那様、泣いてましたよ!」と報告してきたが、エルナは「知ってます」とだけ言った。
婚約が正式に決まった朝、エルナはクロヴィスに言った。
「騎士団に、挨拶に行きたいのですが」
「挨拶?」
「皆さんにお世話になりましたから。ご報告も兼ねて」
クロヴィスが少し間を置いた。
「……わかった。一緒に行く」
「ありがとうございます」
「当然だ」
それだけ言って、クロヴィスは馬車の扉を開けた。エルナが乗り込むと、隣に座った。
以前は向かいに座っていた。
隣に座るようになったのは、いつからだろう。エルナは少し考えてから、考えるのをやめた。
詰所に着くと、ラルフが出迎えてくれた。最初にエルナを案内してくれた、あの真面目な若い騎士だ。
「アッシュフォード令嬢、お久しぶりです」
「ごきげんよう、ラルフ様」
「今日はどうされたんですか」
「少し、ご報告があって」
ラルフが首を傾げた。クロヴィスが後ろからついてくるのを見て、何かを察したような顔をしたが、何も言わなかった。
食堂に案内されると、昼前の時間帯だったせいか、何人かの団員が休憩していた。エルナの顔を見て、数人が立ち上がった。
「先生来た」
「また縁起を当てに来たんですか」
「縁起屋様!」
「縁起屋ではありません」
エルナが言うと、笑い声が上がった。その声が温かくて、エルナは少し面映ゆかった。
「少し、ご報告があります」
エルナが言うと、食堂の空気が少しだけ静まった。
「クロヴィス様と、婚約しました」
一瞬の沈黙のあと、食堂が爆発した。
「えっ!?」
「マジですか!?」
「団長!? 団長と!?」
「いつの間に!?」
「俺たち何も聞いてないぞ!」
セドリックが立ち上がって「やった!」と言った。ラルフは口を押さえていた。若い騎士が何人か、興奮でジョッキを倒しそうになっていた。
クロヴィスが「騒ぐな」と言ったが、全員に無視された。
「団長、おめでとうございます!」
「エルナ様、ありがとうございます! 団長をよろしくお願いします!」
「団長が笑うようになったの、令嬢のおかげです!」
「俺たちもよかった! これで詰所が明るくなる!」
クロヴィスが「笑ったことはあった」と言ったが、全員に「なかったです」と返された。
エルナは笑った。声を上げて、腹の底から笑った。
こんなふうに笑えるようになったのも、気づいたらここに来ていたからだ、とエルナは思った。
「令嬢」
セドリックが近づいてきた。
「カインにも、連絡しますよ。喜ぶと思うので」
「ぜひ。カイン様のお母様が、よくなっているといいのですが」
「手紙が来てました。元気になってきたって。カインも顔色がよくなったって書いてありました」
「よかった」
エルナはそっと息を吐いた。
翳りが薄くなっていた人たちが、それぞれの場所で前に進んでいる。
終わりを見てきたエルナには、そういう景色が、何より温かかった。
帰り際、クロヴィスと二人で詰所の廊下を歩いた。
「賑やかでしたね」
「いつもああだ」
「楽しそうで、よかったです」
クロヴィスが少し横を見た。
「お前も楽しそうだった」
「はい。とても」
「……それでいい」
短い言葉だったが、エルナにはその重さがわかった。
クロヴィスが「それでいい」と言うとき、本当にそう思っている。余計な言葉をつけない人だから。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「クロヴィス様は、これからも毎朝来るつもりですか」
「婚約したのだから、来る理由がある」
「来る理由がなくても来ていましたよね」
「……それはそうだが」
「では、理由ができてよかったです」
クロヴィスが少し口を噤んだ。
「お前は時々、ずるいことを言う」
「そうですか?」
「ああ」
「クロヴィス様に言われたくないですが」
「俺がずるいことを言ったことはない」
「あります。何度も」
「例えば」
「『お前が別の男のところへ行くのを黙って見ていられる自信がない』とか」
クロヴィスが少し止まった。
「……あれはずるくない」
「十分ずるいです」
「本心を言っただけだ」
「本心だからずるいんです」
クロヴィスがエルナを見た。
それから、小さく笑った。
「……そうか」
「そうです」
廊下の窓から、昼の光が差し込んでいた。石畳に、二人の影が並んで伸びている。
クロヴィスがエルナの手を取った。廊下の真ん中で、当然のように。
「クロヴィス様、ここは詰所の廊下ですが」
「知っている」
「団員に見られますが」
「見せたい」
エルナは少し面食らった。
「……見せたい、とは」
「お前が俺のそばにいることを、みんなに知ってほしい」
あっさりと言った。
エルナはしばらく言葉が出なかった。
「……クロヴィス様は、本当に時々ずるいですね」
「本心を言っているだけだ」
「だからずるいんです」
「堂々巡りだ」
「そうです」
エルナは笑った。クロヴィスも、小さく笑った。
廊下の向こうから、食堂の賑やかな声が聞こえてくる。誰かが笑っている。誰かが言い合いをしている。それがいつもの詰所の音だ。
エルナはその音を聞きながら、思った。
前世では、ずっと人を送り出してきた。終わりを整えることが仕事だった。
この世界に転生してからも、人の終わりを見てきた。婚約の終わり、信頼の終わり、迷いの終わり。
でも今日、ここに立って、クロヴィスの手を握っていると、思う。
終わりばかり見てきた自分が、今は始まりの中にいる。
これが、お見送りのプロが迎えた、生まれてはじめての「はじまり」だ。
「エルナ」
クロヴィスが言った。
「はい」
「これからも、俺の終わりは見えないと思う」
「そうだと思います」
「ならば」
クロヴィスがエルナの手を、少しだけ強く握った。
「ずっと、そばにいてくれ」
エルナは、クロヴィスの輪郭を見た。
くっきりと、鮮明だ。翳りの一片もない。そこだけ光が当たっているような、いつもの鮮明さだ。
「はい」
今度は、小さくなかった。
「喜んで」
クロヴィスが、繋いだ手に力を込めた。
廊下の向こうから、また笑い声が聞こえた。
昼の光が、石畳に降り注いでいる。
二人の影が、並んで、長く伸びていた。
――おわり




