第13話「あなたの終わりは、私が決めます」
国王主催の夜会は、年に二度しかない。
それだけに、会場の規模も招待客の数も、通常の夜会とは比べものにならない。エルナが父と馬車を降りた瞬間、宮殿の灯りに思わず目を細めた。
「緊張しているか」
父が言った。
「少し」
「婚約破棄のあとで顔を出すのは、骨が折れるだろうが」
「大丈夫です。慣れました」
父が少し寂しそうな顔をした。娘に「縁起屋」などと呼ばれてほしくはないのだろう。エルナは「心配しないで」と微笑んで、会場の中へ入った。
案の定、入室した瞬間からちらちらとした視線を感じた。噂はまだ生きている。婚約破棄の令嬢、縁起が悪い目を持つ女、騎士団に出入りしている変わり者。
エルナはそれらを、もう以前ほど気にしなかった。
翳りが見えない人が、毎朝会いに来てくれる。それだけで、ずいぶんと世界の見え方が変わるものだった。
声をかけられたのは、夜会が始まって一時間ほど経ったころだった。
「アッシュフォード令嬢、少しよろしいですか」
振り返ると、五十代ほどの男性が立っていた。レイン侯爵。北方の領地を治める、温厚で知られた貴族だ。翳りはほとんどない。穏やかな人だ、とエルナはすぐに判断した。
「ごきげんよう、侯爵様」
「単刀直入に申し上げます。うちの息子と、一度お会いになりませんか」
縁談だ、とエルナはすぐに察した。
「息子は今年で二十七。騎士団にも籍を置いておりまして、真面目な男です。令嬢の噂は耳にしておりますが、私はそういった話は気にしない質で」
「……ありがとうございます」
悪い話ではない。レイン侯爵家であれば、父も喜ぶだろう。息子が騎士団員なら、エルナの詰所通いも理解してもらえるかもしれない。
でも。
エルナはレイン侯爵の顔を見ながら、少し考えた。
「少しお時間をいただけますか。父とも相談したいので」
「もちろん。急かすつもりはありません」
侯爵が礼儀正しく下がっていくのを見送って、エルナは静かに息を吐いた。
悪くない縁談だ。でも、なぜか胸の中がざわざわしている。
――どうして、こんな気持ちになるんだろう。
「断ることにしたのか」
背後から声がした。
振り返ると、クロヴィスが立っていた。礼服姿で、グラスを持っている。
「……また通りかかったんですか」
「王子殿下のお供だ」
「それはわかっていますが」
「たまたま近くにいた」
エルナは少し笑った。
「クロヴィス様、それをもう何度おっしゃっていますか」
「……数えていない」
「私は数えています。今夜で五回目です」
クロヴィスが少し口を噤んだ。
「断るのか」
「……まだ決めていません」
「そうか」
クロヴィスの声が、ほんの少しだけ低くなった。エルナはそれに気づいた。
「クロヴィス様」
「なんだ」
「今、不機嫌ですか」
「……不機嫌ではない」
「そうですか」
「ない」
「わかりました」
エルナは前を向いた。夜会の人波が、ゆっくりと動いている。楽団が曲を変えた。
「エルナ」
「はい」
「お前に縁談が来るのは、当然のことだ」
「そうですね」
「レイン侯爵家は、悪くない」
「そうですね」
「……だが」
クロヴィスが少し止まった。
エルナは横を見なかった。でも、クロヴィスの気配が、すぐ隣にある。
「俺は」
「はい」
「お前が別の男のところへ行くのを、黙って見ていられる自信がない」
エルナは、少しだけ息を止めた。
「……それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
「クロヴィス様」
「なんだ」
エルナはゆっくりと、クロヴィスの方を向いた。
クロヴィスが、まっすぐエルナを見ていた。
いつもの無表情だが、その目の奥に、エルナはこれまで見たことのない色を見た。
必死さ、と言えばいいのか。それとも、怖さ、に近いのか。
騎士団長のクロヴィスが、こういう顔をすることがあるのか、とエルナは少し驚いた。
「近いうちに話したいことがある、と言っていましたが」
「ああ」
「まだ、言葉の準備ができていませんか」
クロヴィスが少し間を置いた。
「……できていない」
「そうですか」
「だが」
「だが?」
「このままでは、間に合わない気がする」
エルナはその言葉を、ゆっくりと受け取った。
間に合わない。
縁談が来て、それが決まってしまう前に。
「クロヴィス様」
「なんだ」
「私は」
エルナは少し言葉を選んだ。
「レイン侯爵の縁談は、お断りしようと思っていました」
クロヴィスが、エルナを見た。
「……なぜだ」
「縁起が悪い気がしたので」
クロヴィスが一瞬、目を瞬かせた。
「縁起が、悪い?」
「はい。なんとなく」
クロヴィスがしばらくエルナを見た。
それから、小さく息を吐いた。
「……お前は、ずるいな」
「そうですか?」
「ああ」
「クロヴィス様にずるいと言われるとは、思っていませんでした」
クロヴィスがエルナの手首を、そっと掴んだ。
力強くはない。でも、離すつもりもない、という温度の手だった。
「エルナ」
「はい」
「明日、改めて来ていいか」
「毎朝来ているではないですか」
「それとは別の話だ」
エルナはクロヴィスの輪郭を見た。
今夜も、くっきりと鮮明だ。翳りの一片もない。
「……どうぞ」
「ありがとう」
クロヴィスが、エルナの手首を離した。
その手が離れた瞬間、少し寂しかった。
――今夜はじめて、エルナはそれを認めた。




