第10話「エルナ様の『眼』は、なぜ私には使えないのですか」
四度目の詰所訪問の帰り道だった。
馬車を待つ間、クロヴィスがいつものように玄関まで送ってきた。夕暮れの空が、石造りの詰所の壁をじんわりと橙色に染めている。ミラは少し離れたところで馬車の到着を待っていた。
「一つ、聞いていいか」
クロヴィスが言った。
「なんでしょう」
「お前の眼は、なぜ俺には使えないんだ」
エルナは少し驚いた。改まってそう聞かれると思っていなかった。
「使えない、というのは語弊があります。見えない、というだけで」
「では、なぜ見えない」
「それが……わからないんです」
「わからない」
「はい。人の終わりは、会った瞬間からだいたい見えます。ただ、クロヴィス様だけは最初から一度も見えたことがない」
クロヴィスが少し間を置いた。
「最初から、一度も」
「はい」
「……初めて会ったときから、か」
「夜会のバルコニーで初めてお目にかかったときから、ずっと見えません」
クロヴィスが石畳を見た。何かを考えている。その横顔を、エルナはさりげなく見た。
輪郭は今日もくっきりしている。翳りの一片もない。夕暮れの光を受けて、ただそこに在る、という感じだ。
「お前には、俺がどう見えている」
「どう、とは」
「輪郭は、他の人間とは違うのか」
「違います」
エルナは正直に答えた。
「他の方は、多かれ少なかれ翳りがあります。完全に翳りがない人は、今まで一人もいませんでした。でもクロヴィス様の輪郭は、くっきりしすぎているくらい鮮明で」
「鮮明」
「はい。まるで……そこだけ光が当たっているような」
クロヴィスがエルナを見た。
「光が当たっている」
「うまく言えないんですが、そういう感じです」
しばらく沈黙が流れた。
夕暮れの風が、緩やかに吹いている。遠くで馬の蹄の音がした。ミラが「もうすぐ来ます」と言う声が聞こえた。
「エルナ」
「はい」
「一つ、仮説を言っていいか」
「どうぞ」
クロヴィスが正面を向いたまま言った。
「お前の眼は、終わりが近いものを見る。だとすれば、お前に終わりが見えないということは、俺はお前にとって終わりが近くない、ということではないか」
エルナは少し息を止めた。
「……それは」
「違うか」
「違う、とは言えません。でも、それがどういう意味なのかは」
「わからないか」
「はい」
「俺もわからない」
クロヴィスが静かに言った。
「ただ、お前に終わりが見えないということが、俺には悪くない」
「悪くない」
「ああ」
エルナは言葉に詰まった。
悪くない、というのはずいぶん控えめな言い方だ。でも、クロヴィスという人間がその言葉を口にするということの重さを、エルナはすでに知っていた。
「……私にも、悪くないです」
気づいたら、そう言っていた。
クロヴィスが少しだけ、目を見開いた。エルナも少し驚いた。自分でも思っていなかった言葉が出た。
「悪くない、か」
「……はい」
「それは、どういう意味だ」
「クロヴィス様の仮説が正しいとするなら、私にとってあなたが終わりではない、ということが、悪くない、という意味です」
クロヴィスがしばらくエルナを見た。
何か言いかけて、止まる。
また言いかけて、また止まる。
エルナは少し待った。クロヴィスがこういうふうに言葉に詰まるのは、珍しかった。
「……俺は」
「はい」
「お前のそばにいると、終わりのことを考えなくて済む」
エルナは、その言葉の意味をゆっくりと受け取った。
騎士団長という立場は、常に誰かの終わりと向き合う仕事だ。団員の限界も、副官の決意も、敵の動向も。終わりの気配と隣り合わせで生きている。
そのクロヴィスにとって、終わりを見ない時間があるということは。
「……そうですか」
エルナは静かに言った。
「それは、よかったです」
馬車が到着した音がした。ミラが「エルナ様、来ましたよ」と呼んでいる。
エルナは踵を返しかけて、少し止まった。
「クロヴィス様」
「なんだ」
「一つだけ、正直に言っていいですか」
「言え」
エルナはクロヴィスの輪郭を、もう一度見た。
くっきりと、鮮明だ。
「なぜか、あなたの終わりだけ見えない。最初はそれが不思議で仕方なかったんですが」
「今は?」
「今は……不思議だとは思わなくなってきました」
「どういう意味だ」
エルナは少し口ごもった。
「うまく言えないんですが、見えなくて、よかったと思っています」
クロヴィスが、エルナをじっと見た。
長い沈黙だった。
「……俺は」
「はい」
「近いうちに、改めてお前に話したいことがある」
「話したいこと」
「今は言わない。ただ、覚えておいてくれ」
エルナは少し首を傾げた。
何を言われるのか、見当はつかなかった。
でも不思議と、怖くはなかった。
「……わかりました」
「馬車を待たせるな」
「はい。では、また」
「ああ」
エルナが馬車に乗り込んで、窓から外を見ると、クロヴィスがまだそこに立っていた。
馬車が動き出しても、振り返らず、ただそこに立っている。
ミラが小声で「エルナ様、顔が赤いですよ」と言った。
「……気のせいよ」
「絶対気のせいじゃないです」
エルナは窓の外に視線を戻した。
詰所の灯りが、遠くなっていく。
――近いうちに、話したいことがある。
その言葉が、胸の中でじんわりと温かかった。




