第1話「その婚約は三ヶ月前から死んでいました」
夜会の喧騒が、ひどく遠く聞こえた。
――ああ、やっぱり終わるのね。
シャンデリアの灯りがきらきらと宙を舞い、令嬢たちのドレスが花のように咲き誇るこの場所で、エルナ・アッシュフォードはただ静かに、グラスの縁を指先でなぞっていた。
――今夜だ。
三ヶ月前から、わかっていた。
「エルナ」
背後から名前を呼ばれた瞬間、エルナは小さく息を吐いた。振り返ると、燕尾服をきっちりと着込んだ青年が立っている。侯爵家の嫡男、レオン・ダルベール。金色の髪に整った顔立ち、社交界では人気の高い男だ。
ただ、彼の目の端にある「翳り」が、三ヶ月前から少しずつ濃くなっていた。
エルナにはわかる。人の「終わり」が近づくとき、その人の輪郭がぼんやりと滲んで見える。婚約者の心が離れはじめたのは、春の茶会のころだった。隣に立つ伯爵令嬢と笑い合うレオンを見たとき、エルナはグラスを持ったまま静かに思ったのだ。
――ああ、この婚約はもう終わっている。
「少し、いいか」
レオンが周囲を見渡して、エルナをバルコニーへ促した。夜風が頬をなでる。庭園の灯籠がゆらゆらと揺れていた。
エルナは彼の顔を見た。緊張している。唇が少し乾いている。指先が、かすかに震えている。
葬儀の現場で何百回と見てきた顔だ、と前世の記憶がよぎった。大切な人を見送る前の顔。何かを終わらせようとしている人間の顔。
「エルナ、俺は――」
「やっぱり今日でしたか」
先に口を開いたのは、エルナだった。
レオンが目を瞬かせる。
「え?」
「三ヶ月前から、そんな気はしておりました」
エルナはグラスをバルコニーの手すりにそっと置いた。夜風に髪が揺れる。泣きたい気持ちが、ないわけではなかった。五年間の婚約だ。それなりに、大切に思っていた。
……少しだけ、期待していた自分がいたことも。
ただ、前世で幾度となく人の「終わり」に立ち会ってきた自分には、どうしても泣くより先に、静かに受け入れてしまう癖がある。
「……お前は、怒らないのか」
レオンが困惑したように眉を寄せた。
「怒る理由が?」
「俺が、婚約を破棄したいと言おうとしていることは、わかっているんだろう」
「はい」
「なのに、なぜそんなに落ち着いているんだ」
エルナは少し考えてから、正直に答えた。
「終わりが来ることはわかっていました。あとは、いつ来るかだけでしたので」
レオンが絶句した。
「……お前は、本当に変わっているな」
「よく言われます」
「怒鳴ってくれたほうが、こちらとしては気が楽なんだが」
「申し訳ありません。そういう気性ではなくて」
エルナは庭園の灯りをぼんやりと眺めた。遠くから楽団の音楽が流れてくる。夜会はまだ続いている。
「レオン様」
「……なんだ」
「伯爵令嬢のアリシア様とは、うまくいくといいですね」
レオンの顔が、みるみる赤くなった。
「な、なぜアリシアの名前を」
「春の茶会のころから、お二人の様子はずっと拝見しておりました。とてもお似合いだと思います」
「……っ」
「私への罪悪感は、どうかお持ちにならないでください。この婚約は、三ヶ月前にはもう終わっていたのですから。ただ、形が残っていただけです」
静かに言い切ると、エルナはグラスを手に取った。
「では、私はこれで」
踵を返そうとした瞬間だった。
「待て」
低い声が、背後から飛んできた。
レオンの声ではない。
エルナは振り返った。バルコニーの端、柱の陰に人が立っている。
黒い礼服。背が高く、肩幅が広い。銀がかった短い黒髪。表情は乏しいが、その目だけが、エルナをまっすぐに見ていた。
まるで、最初から彼女だけを探していたかのように。
「……失礼ですが、どちら様でしょうか」
「クロヴィス・ヴァーナ」
「あ」
エルナは思わず声を出した。第二王子付き騎士団の団長。社交界では寡黙で知られた、三十に差しかかる筋骨たくましい男性だ。
「立ち聞きをする趣味はない。先に出ようとしたが、タイミングを逃した」
「それは……お互い様でしたね」
「ひとつ、聞いていいか」
クロヴィスが一歩、こちらへ近づいた。月明かりに照らされた顔は、険しくも柔らかくもない。ただ、ひどく真剣だった。
「なぜわかった」
「……何がでしょう」
「婚約が終わること。伯爵令嬢の名前。そして、今夜だということ」
エルナは少し間を置いた。
どう答えたものか、と前世の記憶が言う。「人の終わりが見える」などと言えば、また縁起が悪いと言われるだけだ。
「なんとなく、です」
「なんとなく」
「はい。なんとなく」
クロヴィスが眉根を寄せた。それきり何も言わなかったが、エルナから視線を外そうとしない。
不思議な人だ、とエルナは思った。
そして気づいた。
――なぜか、この人だけ「終わり」が見えない。
どういうことだろう。人の輪郭を見れば、遠からず訪れる別れや終わりの気配がわかる。それがエルナにとって当たり前のことだった。なのに目の前の男は、輪郭がくっきりと、どこまでも鮮明だ。
終わりの翳りが、微塵もない。
「……変なことを言いますが」
思わず口が動いた。
「なんだ」
「あなたの終わりが、見えません」
クロヴィスが目を細めた。
「それは、どういう意味だ」
「私にもわかりません。ただ、そうなんです」
沈黙が落ちた。遠くから笑い声が流れてくる。夜会の喧騒は、まだ続いている。
クロヴィスはしばらくエルナを見つめていたが、まるで、何かを確かめるように。やがてひとつ息を吐いた。
「……面白い令嬢だ」
「それは、褒め言葉として受け取っていいのでしょうか」
「好きにしろ」
素っ気なく言って、クロヴィスはバルコニーを後にした。
残されたエルナは、手すりに肘をついて夜空を見上げた。
婚約が終わった夜に、なぜか騎士団長に「面白い」と言われた。
前世でも今世でも、つくづく平凡とは縁のない人生だ。
――でも、あの人の終わりはなぜ見えないのだろう。
夜風が、するりと髪をなでていった。
それが、新しい何かの始まりのように感じられた。
――きっと、これまでとは違う「終わり」の始まりだ。




