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ネモの軌跡  作者: 桔梗
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忘れ物

農業法人の一件を境に、住民投票の喧騒だけを残して、日常は元の形を取り戻した。

金曜の夜、社長から声をかけられた。


「少し残業していただけませんか?」


いつものにこやかさがない。


「何か問題でも?」


周囲の視線を軽く気にしながら、


「問題はありません。ただ、少しお話がしたくて」


笑顔だけが返ってきた。


副業を始めてから、社長との関係は単なる使用者と被用者ではなくなっていた。

どちらかといえば、ビジネスパートナーに近い。


――いよいよ、来るべき時が来たのかもしれない。


専業へ踏み出せない自分と、専業になりたい自分。

どちらにとっても、悪い話ではない。少なくとも、そう思えた。


夕刻、会議室に社長と二人。


「悪いですね」


「入社以来、残業なんて数えるほどしかしていませんから」


「私も残業は嫌いでして。では、本題ですが」


空調の音だけが、室内に不自然に響いていた。


「実は、便宜上、調査部を別会社にしたいと思っていまして」


「でしょうね」


「気づいていましたか」


「ここ最近の不可解なデータ整理……住民投票と関係がありますね?」


「その通りです。詳しくは話せませんが」


「多分、今回の住民投票の翌日、見てはいけない資料を目にする」


さっきまで湯気の立っていた紅茶は、すでに冷え切っていた。

沈黙だけが続く。


覚悟を決めたように、社長が口を開いた。


「今回の住民投票に関係したスポンサー企業は?」


「販売委託元ですね」


「そうです。そして当社は、あえて別の販売委託元の商品を扱っている」


「D&Oも別会社でしたね」


「アリーナ建設は、これだけで終わりません」


「付帯工事、道路、インフラ……どちらに転んでも避けられない」


「ですから移設計画では、あえてスポンサー企業を回避した」


「その結果、調査部が利益相反の懸念になる」


「申し訳ないのですが」


「週末と住民投票を踏まえて、返答させていただいてもよろしいですか」


「恩に着ます」


再び長い沈黙。

終電ぎりぎりで、二人は会社を出た。


日曜の夜。

選挙結果は気になったが、考えないようにして布団に入ろうとしたところで、お調子者から電話が鳴った。


「たまには夜更かししないか?」


「飲みは勘弁してよ」


「もっといいところだ。迎えに行く」


渋々着替えを終えたところで、改めて電話があった。


「着いたよ」


家の前には軽自動車が止まっていた。

中古だろうが、みすぼらしさはなく、きちんと手入れされている。


「で、どこに行くの?」


「着いてからのお楽しみ」


そう言うと、車は夜の闇へ滑り出した。


「着いたよ」


到着したのは総合体育館だった。


「何があるの?」


「まぁ、付いてきなよ」


含みのある笑顔のまま、先を歩き出す。

広い駐車場を抜け、体育館に近づく。こんな深夜だというのに、明かりが落ちていない。


「開票会場へようこそ」


そう言って笑い、報道関係者に軽く挨拶をする。


「じゃあ行こうか」


差し出された申込用紙に必要事項を記入し、開票作業が見える席に座った。

選挙管理委員会の職員と、アルバイトだろうか。忙しなく動き回っている。


「情勢は完全に五分五分らしい。あくまで報道ベースだけど」


いつもの軽さは、そこにはなかった。


「報道ベースというと?」


「調査関係は把握してるはずだ。でも組織票が動いている。たぶん、移設で決まる」


「移設か」


これまでの調査内容が頭をよぎる。

非の打ち所がない数字、矛盾のない報告。


「野球は好きかい?」


唐突に、お調子者が言った。


「嫌いじゃないけど。それが?」


「筋書きのないドラマ。シーソーゲーム。そこが醍醐味なんだけど」


「それが今と……」


言葉が途切れた。

喉の奥がひりつき、声が出なくなる。


「もしも、組織的に、戦略的に、ドラマを演出したら?」


「できるわけ――」


体が硬直した。冷や汗が止まらない。

このために、調査という形で内側にいたのか。


「まぁ、そういうこと」


いつもの人を食った表情。その奥に、歯がゆさと、圧倒的な敗北が透けて見えた。


だから、わざわざここまで開票を見に来たのか。


互いに国家資格者ではある。

品位、公正、誠実を旨としていても、触れられないものがある。


それに、今、気づいた。


少なくともこの二人は、単なる見学者ではなかった。

自分たちの城が燃えていくのを、遠くから眺める城主のような喪失感を、同時に抱えていた。


喪失感があろうが、開票は容赦なく進んでいく。


積み上がる投票用紙。

どちらもほぼ同数。会場のモニターでも、二つの数字が同じ速度で五百ずつ増えていった。


もう日付が変わろうとしている。


「あとは、キーポイントの場所だけなんだろうな」


お調子者が、独り言のようにつぶやいた。


どちらが勝つか、表の情報だけでは不明瞭だ。

しかし利害関係を辿れば、移設になることはほぼ明白だった。


「例の引き出し、覚えている?」


不意に、現実へ引き戻された。


「ああ、あの“忘れ物”がどうこうってやつ?」


「そう。それが、この結果に影響すると見ている」


「でも、守秘義務があるだろ?」


「あるよ。だから忘れ物をするのは、私じゃない。たぶんね」


「見ないよ」


「見ないんじゃない。嫌でも、見せられてしまうんだ」


再び、沈黙。


やがて速報が流れた。


移設賛成 五四%

初期計画 四三%

無効票 三%

投票率 六五%


報道スタッフが読み上げる数字は、事務的だった。

地方の住民投票としては、異様な投票率だ。


「やはり、ドラマだね……」


お調子者は、もはや取り繕うこともなく呟いた。


会場を後にしても、車の中でも、言葉はなかった。

発しなくても、無力感だけは痛いほど共有されていた。


「今日は、ありがとうね」


自宅前で車を降りるとき、ようやく声がかかった。


「こちらこそ。じゃあ、また」


そう言って、完全に灯りの消えた玄関を開ける。

そのまま布団に潜り込んだ。


久しぶりの夜更かしだったが、なかなか眠りは訪れなかった。

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