献杯
タクシーが静かに走り出す。歓楽街を抜けた路地に降りる。見たことがある景色だった。
「社長も、ここに来ることが?」
それには答えず静かに笑って年季の入った暖簾をくぐる。
慌てて店に入るが隅の座敷席には一組しか客がいない。しかし、見た顔がある。
「意外に遅かったね」
黒いジャケットの胸に裏返しで刺されたバッジ、お調子者が声をかけてきた。
「ご無沙汰しています。」
静かで品のある話し方、どこかで、いつかの好々爺の後を継いだ不動産会社社長だった。
佇まいにこの数年の修羅場と死線をくぐり抜けてきた様が語らずとも分かった。ほんの数年前は書生、の雰囲気ではあったが今はまさに教授だった。
「お待たせして申し訳ない、」
社長が2人に頭を下げる。
「皆さんご無沙汰で、今日は何か特別な集まりで?」
店主が声をかけてきた
「まぁ、そんなとこです。」
久しぶりの再会の挨拶もする間すらなく、社長が続けた。
「せっかくだから、最初は日本酒でよいかな?」
そこにいる皆は黙って頷いた。
「平日だし、折角だから」
そういうと店主は暖簾をしまった。そして5号徳利を座敷に運ぶと盃を六個並べそこに注いだ。
空調の音と外からの自動車の走る音だけが店内に響いていた。
各々が手に取るのを確認した社長が口を開いた。
「では献杯」
皆、何も言わず口をつけた。
持ち主のいない盃の面だけが、空調を受けてわずかに波打っていた。
いくら何でもここまで手の内だったことに腹立ちを通り超えて呆れが来た。
なるほど、確かに皆、形や立場は違うが、接点があったこと、そして今までそのことに気が付かないことに呆れただけだった。
「で、話したいことって?」
急に社長に振られて焦りはした。しかしお調子者がジャケットの裏返しのバッジをひっくり返してニヤニヤしている。
「お察しの通りです。合格しました」
皆、黙って頷いただけだった。
「だから、やたらね」
社長はそう言って手酌で続けた。
「聞いていたからね、合格はただの入り口ではないし、それは地獄の門を通るかどうか、最後の審判だから」
「FPも保険代理店資格も似たようなものじゃない?」
お調子者が口を挟んだ。
「知らなければ無知で済む、しかし、知ってしまった以上名乗らなくても知らないふりを出来るほど器用じゃぁない」
「なるほどね、だから父にかかわってここにいるんだ」
教授がぽつりとつぶやいた。
ここにいる誰もが、知らない自分が許せなくて、知らないでいる自分自身から逃げなかった。しかし、知ってしまったことによる呪いから逃げられない。
お調子者も、社長も、教授も、私も
そして、店主も、知らないことから逃げなかったからここに立っている。この生き方を選んだのか選ばざるを得なかったのか?
2本目の徳利が空になるころ社長が腰を上げた。
「あなたがうちに来てくれて3年目になりますか、登録については好きにしたらよいですよ。ダメとは言いません。しかし調査部として残ってもらえると助かります。明日は特別休暇にしますので今夜は楽しんでください。」
そういうと、茶封筒を机に置き立ち上がった。
店を出る際に
「そうそう、領収書と釣りはお願いしますね。少し用があるので先に帰ります」
そういうと店を出て行った。
「よろしかったら、もう一軒お付き合いいただけますか?」
教授が口を開いた。
「いいですね。ぜひ、お宅の社長の粋な計らいもあるようだし」
お調子者がこちらに視線を向ける。
折角だ。ここで変に遠慮するのも野暮だと、珍しくそう感じた。
「そうですね、社長の厚意に甘えましょう」
そういうと、茶封筒での会計を済ませた。
「まさか、あの時の甘ちゃんが先生になるなんてな」
店主はそう言って、目を細めた。
「まだ、なっていませんよ。でももう戻れない狭間にいます」
そう答えると、お調子者は笑いをこらえる顔でこちらを見ていた




