嵐の前の静けさ
食材を買い込んで帰宅すると、子供はもう帰っていた。
宿題だけでなく、通信教材まで自発的に進めている。
(……親に似ず、優秀なのかな)
相変わらず子供部屋は汚いし、通知表も正直最低ラインだ。
どこかで見た光景だと思ったら、自分自身そのものだった。
それでも、自発的に学習するところだけは、我が子ながら尊敬できる。
宅建士を受験した頃には、すでに子育ては始まっていた。
動機は単純で、資格手当がつくから受けただけだ。
暗記が致命的に苦手というわけでもなかったおかげで、一回で合格はできた。
子供は、何を目標に勉強しているのだろう。
これまで
「勉強しなさい」
と言ったことは一度もない。
「九九と最低限の計算、作文が書ければ生きていける。中学校で苦労したくなければ、小学校の基礎と応用だけはやっておきな」
それくらいしか言ってこなかった。
極論すれば、勉強とは学歴というアクセサリーを選ぶ権利にすぎない。
日本の制度上、医師、薬剤師、教師を除けば、ほとんどの職業に学歴は必須ではない。
大手上場企業や公務員になるための、学歴フィルターを越えるための道具。それ以上でも以下でもない。
そう思っていた。
何より怖かったのは、子供に期待しすぎることだ。
優秀であることを前提にした瞬間、子供が自分のアクセサリーになってしまう。
夕食の準備をしていると、保険代理店の代表からメールが届いた。
例の知能テストのURLだ。
――知能テストのURLを送ります。明日中までに回答してください。今からでも可能です。
――かしこまりました。
そう返し、食事の支度を手早く片付けると自室に戻り、パソコンを開いた。
テストは量こそ多いが、決して難しくはなかった。
なんとなくIQテストに近い印象だ。
小一時間で回答を終える。
久しぶりに頭を使ったせいか、妙に疲れを感じた。
時計を見ると、もう19時だった。
家族がそろい、たわいない話をしながら食事をする。
「来週いっぱいは休みだけど、明日は飲みに行ってくるね」
「結局、会社は?」
「辞めてきたよ。保険代理店に転職する」
「そう。でも基本給はずいぶん良くなってるんだよね」
「不思議だよね」
「しばらくまとまった休みは取れないね」
「いいよ。みんなで晩ご飯が食べられたら」
本当に、どうでもいいほどたわいない会話だった。
食器を片付けていると、電話が鳴った。
「夜分遅くに失礼します。早速テストのご回答、ありがとうございます」
「こちらこそ」
「大変申し訳ないのですが、もう一度別のテストを受けていただけますか」
「出来が悪かった、ということですか?」
「正直に言うと、悪くはありません。ただ、“問題ないがゆえに問題がある”層に引っかかってしまいまして」
意味が分からず、黙って続きを待つ。
「保険業界が欲しい人材は二種類しかありません。
使い潰すための駒か、自発的に判断できる個人です。
お世辞抜きで言いますが、あなたは自発的に判断できる。ただし、極めて優秀とは言い切れない。
そのグレーゾーンに入ってしまった場合、便宜上もう一度テストを受けてもらう。それだけです」
「……分かりました」
「すぐにURLをお送りします」
電話が切れたあと、言葉にしづらい違和感だけが残った。
そのままパソコンを開き、再びテストを開始する。
――ずいぶん、簡単になっている。
内容に引っかかりを覚えながらも、一時間もかからず回答を終えた。
リビングに戻り、お茶を飲みながら学校の話を聞いていると、スマートフォンが震えた。
――テストお疲れさまでした。問題ありません。
再来週月曜日から、よろしくお願いいたします。
追伸:体調が悪くなっても、できれば再来週までは我慢してくださいね。
やたら上品だが、底の部分に強烈な合理主義が透けて見える文面だった。
いつもよりずいぶん早く風呂に入り、久しぶりに宅のみをした。
もう冬の声を聞こうというのに正月のセールで買ったオールドパーが開いていない。
夫婦揃って、オールドパーの倒れないボトルが好きだった。
「今週は大変だったね」
「お互いね、とりあえず乾杯」
所謂ロックグラスに氷を入れ、口に運ぶ。相変わらずスモーキーな香りだが、今夜だけは酔うためでもなく楽しむための酒になった。
特に語ることもなく、何となくついている事件ドキュメンタリー映画に突っ込みを入れていると子供もジュースを同じようなグラスに入れて割り込んできた。
やはり、この時間だけは何物にも代えられない幸せだ。
もう、11時を回るな、そう思っているとお調子者からメールが来た。
―お疲れ様、明日だけど昼からにしないかな
―別にいいけど、どこにする?
―悪いんだけど13時から隣の市のガード下、立ち飲みで
―ずいぶん遠いところを・・
―お察しください(笑)
なるほど、それなりに警戒していることだけはよくわかった。
「ごめん、明日昼から出かけていい?」
「いいけど、どこまで?」
「隣の市のガード下立ち飲み」
「ずいぶん小汚い場所だね、事情は予想できているからね。楽しんできなよ」
「楽しむような余裕があればいいけど」
「そういいなさんな」
それだけ話して、ベッドに入る。
この平和を幸せだと実感できる今が、少しだけ贅沢だった




