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ネモの軌跡  作者: 桔梗
11/23

嵐の前の静けさ

食材を買い込んで帰宅すると、子供はもう帰っていた。

宿題だけでなく、通信教材まで自発的に進めている。


(……親に似ず、優秀なのかな)


相変わらず子供部屋は汚いし、通知表も正直最低ラインだ。

どこかで見た光景だと思ったら、自分自身そのものだった。

それでも、自発的に学習するところだけは、我が子ながら尊敬できる。


宅建士を受験した頃には、すでに子育ては始まっていた。

動機は単純で、資格手当がつくから受けただけだ。

暗記が致命的に苦手というわけでもなかったおかげで、一回で合格はできた。


子供は、何を目標に勉強しているのだろう。


これまで

「勉強しなさい」

と言ったことは一度もない。


「九九と最低限の計算、作文が書ければ生きていける。中学校で苦労したくなければ、小学校の基礎と応用だけはやっておきな」


それくらいしか言ってこなかった。

極論すれば、勉強とは学歴というアクセサリーを選ぶ権利にすぎない。

日本の制度上、医師、薬剤師、教師を除けば、ほとんどの職業に学歴は必須ではない。

大手上場企業や公務員になるための、学歴フィルターを越えるための道具。それ以上でも以下でもない。


そう思っていた。

何より怖かったのは、子供に期待しすぎることだ。

優秀であることを前提にした瞬間、子供が自分のアクセサリーになってしまう。


夕食の準備をしていると、保険代理店の代表からメールが届いた。

例の知能テストのURLだ。


――知能テストのURLを送ります。明日中までに回答してください。今からでも可能です。

――かしこまりました。


そう返し、食事の支度を手早く片付けると自室に戻り、パソコンを開いた。


テストは量こそ多いが、決して難しくはなかった。

なんとなくIQテストに近い印象だ。

小一時間で回答を終える。


久しぶりに頭を使ったせいか、妙に疲れを感じた。

時計を見ると、もう19時だった。


家族がそろい、たわいない話をしながら食事をする。


「来週いっぱいは休みだけど、明日は飲みに行ってくるね」

「結局、会社は?」

「辞めてきたよ。保険代理店に転職する」

「そう。でも基本給はずいぶん良くなってるんだよね」

「不思議だよね」

「しばらくまとまった休みは取れないね」

「いいよ。みんなで晩ご飯が食べられたら」


本当に、どうでもいいほどたわいない会話だった。


食器を片付けていると、電話が鳴った。


「夜分遅くに失礼します。早速テストのご回答、ありがとうございます」

「こちらこそ」

「大変申し訳ないのですが、もう一度別のテストを受けていただけますか」

「出来が悪かった、ということですか?」

「正直に言うと、悪くはありません。ただ、“問題ないがゆえに問題がある”層に引っかかってしまいまして」


意味が分からず、黙って続きを待つ。


「保険業界が欲しい人材は二種類しかありません。

使い潰すための駒か、自発的に判断できる個人です。

お世辞抜きで言いますが、あなたは自発的に判断できる。ただし、極めて優秀とは言い切れない。

そのグレーゾーンに入ってしまった場合、便宜上もう一度テストを受けてもらう。それだけです」


「……分かりました」

「すぐにURLをお送りします」


電話が切れたあと、言葉にしづらい違和感だけが残った。

そのままパソコンを開き、再びテストを開始する。


――ずいぶん、簡単になっている。


内容に引っかかりを覚えながらも、一時間もかからず回答を終えた。


リビングに戻り、お茶を飲みながら学校の話を聞いていると、スマートフォンが震えた。


――テストお疲れさまでした。問題ありません。

再来週月曜日から、よろしくお願いいたします。

追伸:体調が悪くなっても、できれば再来週までは我慢してくださいね。


やたら上品だが、底の部分に強烈な合理主義が透けて見える文面だった。

いつもよりずいぶん早く風呂に入り、久しぶりに宅のみをした。

もう冬の声を聞こうというのに正月のセールで買ったオールドパーが開いていない。

夫婦揃って、オールドパーの倒れないボトルが好きだった。

「今週は大変だったね」

「お互いね、とりあえず乾杯」

所謂ロックグラスに氷を入れ、口に運ぶ。相変わらずスモーキーな香りだが、今夜だけは酔うためでもなく楽しむための酒になった。

特に語ることもなく、何となくついている事件ドキュメンタリー映画に突っ込みを入れていると子供もジュースを同じようなグラスに入れて割り込んできた。

やはり、この時間だけは何物にも代えられない幸せだ。

もう、11時を回るな、そう思っているとお調子者からメールが来た。

―お疲れ様、明日だけど昼からにしないかな

―別にいいけど、どこにする?

―悪いんだけど13時から隣の市のガード下、立ち飲みで

―ずいぶん遠いところを・・

―お察しください(笑)

なるほど、それなりに警戒していることだけはよくわかった。

「ごめん、明日昼から出かけていい?」

「いいけど、どこまで?」

「隣の市のガード下立ち飲み」

「ずいぶん小汚い場所だね、事情は予想できているからね。楽しんできなよ」

「楽しむような余裕があればいいけど」

「そういいなさんな」

それだけ話して、ベッドに入る。

この平和を幸せだと実感できる今が、少しだけ贅沢だった


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